「一体、これはどういう人だ」。この問いをエルサレムの都中の人が、エルサレムの都に入って来られた主イエスに対して発したとあります。主イエスはどのような方なのか、それはその人の人生のその後を分けるほど重みのある問いです。この問いにエルサレムの人々がどのような答えを出すことになるのか主イエスは見つめつつ、エルサレムに至る道を歩んでこられたのでしょう。
主イエスは様々な譬えを用いて人々に天の国を語られました。今日の箇所でも、葡萄園を所有する家の主人に、天の国が、言い換えれば神さまが、譬えられています。主人は葡萄園に、多くの働き手を求め続けます。当時の葡萄園の作業は、小さな規模のものを除いて、日雇いの労働者によって担われていたことが背景の一つにあるのでしょう。主人は朝早くから夕方まで何度も雇った働き手たちに、最後に雇った者から順に、同じ額の報酬を与えたという話です。ストーリー自体は分かりやすいのですが、すんなりと受け入れられるようなものではありません。
マリアとヨセフが、幼子を迎えた家族として行った、聖書が伝える最初のこととは、当時のユダヤの親たちと同様に、律法を守ることでありました。特別な使命を担っていく自分たち家族の一歩は、神さまがなさってこられた救いのみ業と、民と共におられるとの神さまの約束の場で、神さまにお応えするところから始めようとしています。そうせずには神さまから委ねられた特別な使命を担ってはゆけないとの思いもあったかもしれません。信仰によるこの二人の行動が、シメオンとの出会いに繋がっていくのです。
私たちの足どりを重くするものに私たちは囲まれながらも、クリスマスの恵みに光を与えられ、一歩一歩を力づけられています。神さまの独り子が私たちの間に宿られ、今も私たちと共におられるから、共にキリストを礼拝することのできる神の家族が与えられているから、私たちの内側に力が足りなくても、恐れることはありません。私たちを取り巻く困難さが私たちの歩みを重たくさせ、弱らせても、それらは私たちの全てを支配することはできません。クリスマスの恵みが私たちの一歩一歩を押し出すエンジンとなり、足元ばかりで見るのではなく、天を仰ぐ信仰の姿勢を力づけています。
「その魂は潤う園のようになる」(新共同訳 エレミヤ31:12。ホセア14:5-8、イザヤ58:11も参照)。この言葉を聞きながらクリスマス礼拝をささげています。エレミヤという預言者の言葉です。今から遡る事、約2600年余り前、紀元前7世紀から6世紀にかけて活躍をした古代イスラエルの預言者です。「潤う園のようになる」、ということは、裏を返せば、今は潤いなく渇いている魂だということです。喘ぐほどの渇きにのたうつ命に向けて語られた言葉だといえます。
数千年前の言葉が私たちの今日に響く、ということがあります。「歴史は繰り返さないが韻を踏む」という言葉もあります。全く同じでなくても、似た現象が起こるということは、ままあります。
2024年を振り返ってみますと、世界各地から「灼けつく渇きで」(金芝河)命が干上がり、干からびた喉を枯らして、声なき声が絞り出されるのを聞いてきた、耳を傾けることを迫られた年月ではなかったでしょうか?そのただ中で迎えるクリスマス。
クリスマスの時期には教会という所はさぞキラキラした輝きと、完成度の高い聴かせる音楽に溢れていることだろうと思って教会を訪れてくださる人がいたら、期待していたような“クリスマスっぽさ”がないと思うかもしれません。勿論、華やかな飾りつけやプロの方たちのように聴かせる音楽を奏でる教会もあるでしょう。地味に見えようと華やかに見えようと、それぞれの教会はイエス・キリストの誕生を祝い、キリストが再び来たり給う時を待ち望んで、キャンドルの火を灯し、讃美の歌を歌います。美竹教会も、ここに真のクリスマスの喜びがあると、この時こそ神さまの恵みを世に証しする教会でありたいと願って、今年もアドヴェントの時を歩んでいます。
マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図に続く流れでクリスマスの出来事を記します。この系図はアブラハムから始まり、ヨセフの誕生までは「〇〇は〇〇をもうけ」という同じ表現で子の誕生が述べられてゆきますが、最後の主イエスの誕生は、これまでとは違う仕方で言われます。主イエスは確かにダビデの血筋にお生まれになったと、しかしこれまでの系図の延長線上にお生まれになったのではないことを示し、そして「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」と、クリスマスの出来事を語り始めます。そこで先ず述べられるのが、主イエスの母とされたマリアが聖霊によって身ごもったことです。主イエスは人の力によって誕生されたのではなく、何千年にも渡って、一つ一つの世代を導き、メシアをお与えになるとの約束に向かって救いの歴史を推し進めてこられた神さまが、マリアにおいて、ダビデの血筋にその約束を実現してくださったことが、系図と今日の箇所によって明らかにされます。
今この時、紛争や戦争によって苛烈な攻撃にさらされている人々が大勢います。国や地域の勢力間の対立の中、残酷な現実が日常となってしまっているところから、願っても抜け出すことができない人が大勢います。
私たちの身近な社会にも、被災した上に、復興の道筋が立たない中、生活も、健康も、心も押し潰されたままの人が大勢います。自然災害だけが復興を遅らせているのではなく、私たちの社会が抱えてきた、取り組み切れてこなかった問題が、被災した人々に圧し掛かっている面があることに胸が痛みます。
私たちも、それぞれに抱えている困難があるでしょう。それらも、この社会の様々な事柄と絡み合っています。この時代だからこその困難があり、この社会だからこそ解決が難しいという面があります。地上を歩む私たちは、その時代、その地域や社会から多大な影響を受け、関わりながら、この歩みが何よりも主に従う者としての歩みでありたいと、こうして礼拝毎に神さまのみ前に進み出て、神さまを仰ぐのです。
十年以上前に、NHKプレミアムで「エチオピアのクリスマス」という番組をやっていた。その内容は、クリスマスの日に向けて、ラリベラという聖地を目指して、エチオピアの様々な人々が巡礼の旅に出ていく様子をインタビューを交えながら紹介するものであった。ラリベラに向けて多くの巡礼者達がなんと五百キロ、千キロという途方もない距離を徒歩で、しかも裸足で歩いていく。番組では青ナイルの源流近くのある村から向かう巡礼者達を取材していたが、その巡礼者達は決して若くはない。七十台半ばの女性もいた。インタビュアーが彼らに無事に辿り着けるかどうか不安はないのかと聞くと、皆、神が共におられるので一切不安はない、と答えていた。その表情は実に晴れやかで、本当に純粋に信じている様子がよく分かった。インタビュアーが巡礼者達に、何故そんな大変な距離を歩いてまでして、クリスマスに聖地を訪ねたいのか、と尋ねると、誰もが、天国へ行きたいからさ、当たり前のことを聞くな、と答えていた。
赦せないことに苦しむこと、悲しむことがあると思います。赦すことがその人のためになるとは思えないから許さないという道を取ることも少なくないと思います。それは赦していないことなのか、それともある部分までは赦しているということなのか、よく分からないということもあるでしょう。悪い行いに対して罰を定め、それは実行されたけれども、だからといって赦せない思いが心から消え去らないということもあるでしょう。赦しということを、謝罪の申し出を受け入れるという意味で考えているのか、それとも責任を免じるという意味で考えているのか、自分でもよく分からない、相手もどう捉えているのか分からないということもあるでしょう。分からないままに、人との関係に迷ったり、悩んだりする私たちです。