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自分は救えないメシア

2025.3.23. 受難節における主日礼拝

ヨブ11:13-20、マルコ15:23-32

「自分は救えないメシア」浅原一泰

 

もし、あなたが心を定め神に向かって両手を広げるとき、手に不義があれば、それを遠ざけよ。あなたの天幕に不正を住まわせるな。そうすれば、あなたは汚れのない顔を上げ、揺るぎなく立って、恐れるものはない。こうしてあなたは労苦を忘れ、それを流れ去った水のように思う。人生は真昼よりも光り輝き、たとえ暗くても、朝のようになる。あなたは望みがあるので安らぎ、周りを見回して、安らかに眠る。あなたが身を横たえても、脅かす者はなく、多くの者があなたの好意を願い求める。だが、悪しき者たちの目はかすみ、彼らは逃げ場を失い、その望みは吐息のように消える。

 

没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、誰が何を取るか、くじを引いてその衣を分け合った。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。

 

 

 

今から930年前の1095年、時のローマ法王ウルバヌス2世が説教でこんなことを語った。

「キリスト教団は異教徒から聖地や聖なる遺蹟を取り戻すべきだ」。

それはその頃、エルサレムから戻って来た巡礼者たちより、「イスラム教徒たちによって聖地は冒涜され、巡礼者たちがひどい扱いを受けている」との報告を受けての言葉だった。これがその後200年続く十字軍の起こりであった。

しかしその標的はイスラム教徒だけではなかった。これに付随して、ユダヤ民族の殉教の時代の幕が開いたと言われる。「キリストの流した血は、彼を殺したユダヤ人の血を流すことによってかたき討ちするのだ」。そう唱えた指導者がいたからだと言う。

 

信仰と宗教的情熱とは別物だと思う。信仰は燃えれば燃えるほどその人を神への祈りに、隣人への愛と赦しに誘うように思うが、単なる情熱は目に見える結果を残すことばかりに躍起になり、ありとあらゆる方向に拡散していく。それから約100年後のイースター前のイギリスで、ウィリアムという少年の亡骸が森の中で発見された。死因はカタレプシーという、関節が凝り固まる発作のためであったが、事実とは全く違う噂が流れた。あれはユダヤ人がイエスの受難を侮辱して、自分たちの過越しの祭りを祝うためにウィリアムを殺したんだと。その噂にはこんな尾ひれまでついた。ウィリアムを殺したのは、ユダヤ人たちが別の過越しの式に使う血をとるためだったのだと。ここからユダヤ人に対する非難がすさまじい速さで広まり、迫害の嵐が吹き荒れていった。

 

14世紀半ば、黒死病と言われるペストの大流行によってヨーロッパの三分の一かそれ以上の数の人間が犠牲となった時も、ユダヤ人がペスト菌をまき散らしたからだ、という風評が拡散した。ユダヤ人もペストの犠牲者を出していたためその噂はまったくの出鱈目なのだが、スイスのあるユダヤ人が拷問に耐えかねてこんなことを自白したと言う。フランス南部のユダヤ人たちが陰謀を企て、蜘蛛、蛙、とかげ、キリスト教徒の心臓から毒物を抽出し調剤し、そこから造られた粉末がユダヤ人集団に配布され、クリスチャンが使っている井戸に投げ込んだのだ、恐ろしい伝染病はそのせいなのだと。

 

袴田事件やドラマでも扱われる「冤罪」。拷問にかけられて余りの辛さ苦しさの余りに偽りを自白するケースが後を絶たなかった。あのスイスのユダヤ人もそうであったかもしれない。いずれにせよ、人間は誰もが自分の命がかわいい。苦しみたくないし拷問など受けたくない。私もそうであるが皆さんも同じだと思う。だから強制的に虚偽の自白をさせられた人間に同情の念を抱かざるを得ない。ただ、そんな時ふと、あのキリストの言葉が聞こえて来る。

 

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。」

 

 

3月5日の灰の水曜日から来る4月20日のイースターを迎えるまで、全世界の教会は今レントの時を迎えている。レントは、命ある者すべてに罪の赦しを得させるために、罪なき神の独り子イエスが身代わりとなって十字架の死の苦しみを背負われたことを覚える時であるが、我々クリスチャンの中にこんな思いが燻ってしまうことはないだろうか。本来裁きを受けて、十字架の死の苦しみを負わなければならないのはこの私であるのに、イエスが私の代わりに死んでくれたのだと。だから私は罪赦され、死の苦しみから免れている。だからありがたいのだと。

それってどうなのだろう。そう思うだけでレントに相応しいことになるのだろうか。それは自分の罪をキリストに擦り付けていることにはならないだろうか。ありがたがっている場合なのだろうか。他ならぬ自分がキリストを十字架につけて殺した当事者であることから目を背けてその責任をユダヤ人に擦り付けて来た人間たちと同じように、それは冤罪に加担していい気になっていることにはならないだろうか。

 

イエスがこの世で神の国の福音を宣べ伝え始める前、荒れ野で悪魔から試み(誘惑)を受けたことは良く知られている。「神の子なら、石がパンになるよう命じたらどうだ」。「神の子なら、高い神殿の端から飛び降りたらどうだ」。「悪魔の私をひれ伏し拝むなら、この世界のすべてをあなたに与えよう」。

これらはすべて、こうすればこの世の全ての者がお前をいとも簡単に神と認め、崇め奉るようになる、という誘惑だった。飢饉のため、貧しさのために飢えに苦しんでいる者たちの目の前で石をパンに変えて見せたら。或いは病魔に侵され、余命いくばくもない状態で絶望している人の前で、高い屋根の上から飛び降りても神が支えて助けてくれるところを見せたら。そして最後は、悪魔にひれ伏せば即座にこの世は自分のものになる。この誘惑を仕掛けた悪魔の狙いはどこにあったのだろう。まだ知られてはいないのかもしれない。悪魔の狙いはたった一つ。イエスの十字架を阻止することにあった。イエスを十字架に向かわせないことにあった。もしイエスが十字架にかかってしまったら、例外なくすべての者が救われてしまうことになるからである。すべての者の罪が赦されたことになってしまうからである。悪魔にとってそれは何としても避けたい最悪の事態だった。

この誘惑の最後に、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と(聖書に)書いてある」とイエスは語ったために悪魔は消え去ったが、イエスがもう一度「退け、サタン」と叱りつける場面がある。それはフィリポ・カイサリアで、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とイエスが弟子たちに告げた時、弟子である自分も同じ目に遭うのではと怖気づいてイエスを諫めたペトロに向かってである。これもペトロに悪魔が入り込んでイエスの十字架を阻止しようとして言わせたセリフであった。ゲッセマネで「この杯を私から取りのけて下さい」とイエスが必死に祈ったのも、実はイエスの十字架行きを阻止するために悪魔があらん限りの力を尽くしてイエスに誘惑を仕掛けていたからに他ならない。しかしながら、荒れ野で「主を拝み、ただ主に仕えよ」と宣言したイエスは「しかし、私の望みではなく、御心のままに」と祈り切って悪魔を退けた。

 

こうして悪魔を振り切ってイエスは十字架へと向かっていくわけであるが、先ほどは新約聖書から、ゴルゴタの丘で十字架につけられたイエスに向かって、通りがかった野次馬たちが容赦のない罵声を浴びせている場面が読まれた。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救って見ろ」。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。この野次馬たちの嘲りの言葉も、イエスの十字架を阻止するためのものであった。野次馬たちは「そうすればお前を神と信じてやろう」とまで侮辱した。ということはこれらも悪魔が彼らに言わせていたに違いない。しかしイエスは無言を貫き、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、なぜ我を見捨て給うや)と叫び、最後は言葉にならない大声を上げて息を引き取った。そう聖書は伝えている。

 

 

極端すぎるかもしれないが、この世は「自分の命を守るためなら他人はどうなってもいい」という思惑、陰謀に満ち溢れているように思う。勿論人によって個人差はあるが、突き詰めるなら「他人の子供よりは我が子」、「見ず知らずの他人は勿論、結局は友人の命よりも自分の命が大事」と言う思いは誰の中にも、どんな善人の中にもあるのではないかと思う。「食べれば死ぬ」と宣言していた神から問い詰められて「悪いのは私ではない。この女が食べろと私に勧めたから食べたのだ」と責任をエバに擦り付けたアダムの罪を誰もが受け継いでいる。自分が死なないためなら、自分が救われるためならどんなことだってする。そんな思惑が誰の中にも燻っている。そうではないだろうか。

狡猾にもそこをつついてくるのが悪魔である。「こうすれば死なない」。「こうすればお前は神にだってなれる。いや、今すぐにでも神と認めてやろう」。藁に縋ってでも助かりたい。そう思えば思うほどいともた易く悪魔の術中にはまっていく。そして、その者たちはすさまじい速さでその情報を拡散していく。先ほど読んでもらったもう一か所の聖書、旧約のヨブ記には、そんな人間の典型的な言葉があった。

「神に向かって両手を広げるとき、手に不義があれば、それを遠ざけよ。あなたの天幕に不正を住まわせるな。そうすれば、あなたは汚れのない顔を上げ、揺るぎなく立って、恐れるものはない。こうしてあなたは労苦を忘れ、それを流れ去った水のように思う。」

 

どん底へと貶められていたヨブを悔い改めさせようとするツォファルという友人の言葉である。ヨブを助けようとする彼の言葉がなぜ悪魔の術中にはまっていることになるのか。友人のくせに、神への真摯な姿勢を貫いていたにも拘らずどん底の境遇に突き落とされたヨブの呻き苦しみを真正面から見ることもせず耳も貸さずに、救われたいならこうすれば良い、こうすればお前の人生は太陽のように輝くのだと説教していたからである。他人事ではない。自らを含めて、そんな人間ばかりなのではないだろうか。こうすれば健康になれる。こうすれば資産が倍になる。このバイトをすれば直ぐに大金が手に入る。それらも実は陰で悪魔がしかけているものなのかもしれない。ユダヤ人がどんな悲惨な目に遭っていても、自分に害がないから見て見ぬふりをする人間、彼らはキリストを十字架につけた民族なのだから当然だと安易に納得する人間、自分の疚しさをユダヤ人に擦り付けて来た人間しかいなかったから、ホロコーストのような悲劇が起こってしまったのではなかったか。現実の中で、悪魔を退けている者と術中にはまっている者と、果たしてどちらが多いかと問われるなら、その術中にはまっている者なのだろう。それは何時の時代であれ、変わることのないこの世の現実だったのではないか。

 

しかし、この世がそうであるからこそイエスは、イエスだけははっきりと告げていた。「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4:22)のだと。この世がそうであるからこそイエスはあのように宣言していた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。」

 

「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。これも悪魔の術中にはまっていた野次馬からの嘲りであった。周りにいた群衆も、すさまじい速さでそれに賛同してイエスを侮辱し、あの時のゴルゴタは、イエスへの罵声でどよめいていたに違いない。それでもイエスはその挑発に乗ることなく、その誘惑にはまることなく、彼らに対してはひたすら無言を貫いた。自分をこの世に遣わした神に向かってのみ、「エロイ、エロイ」と祈って息を引き取った。「自分を救えない」のではない。罪ある者すべてのために「自分を救わない」のである。そのイエスの姿はまさに、「自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである」というあの自らが語った言葉を十字架の上から実践するもの、証しするものではなかっただろうか。

 

偽物のメシアは、自分が救われるためなら他人に罪を擦り付ける。しかし真のメシアは、自分を捨てて他人を救う。先日卒業した中学三年生の三学期の授業で伝えた言葉である。命尽きるまで、いや、命が尽き果てても、最後の最後まで悪魔の術中にはまることなく、命ある者すべてのために、ここにいる我々のためにも十字架を背負い、死の苦しみを担って下さった方によって建てられたこの学校で学べたことをどう思うか。最後の試験に出した問題であったが、多くの生徒が「誇りに思う」と書いていたのを見て嬉しく思った。我々も、いや我々クリスチャンこそ、まさしくその方に出会ったからこそ今、礼拝者とされている。教会に連なる者とされている。ならば、十字架のキリストを見上げさえすれば罪赦されて苦しみから免れる、と安直に思うのはどこか間違っているのではないだろうか。

 

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」

 

この主の言葉を重く受け止めてわが身を振り返る。我々が過ごすべきレントはそこにあるのではないだろうか。