2025/2/23.主日礼拝
創世記3:1-9、Ⅱコリント2:5-11
「サタンにつけ込まれないように」浅原一泰
旧約
神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも食べてはいけないと言ったのか。」女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神は言われたのです。」蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを、神は知っているのだ。」女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。すると二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。
その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」
新約
もし誰かが人を悲しませたとすれば、その人は私を悲しませたのではありません。もっとも、多少は悲しい思いをしましたが、それは、あなたがた皆に負担を負わせまいとしたためです。その人には、大多数の者から受けたあの処罰で十分です。むしろ、あなたがたは赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。そこで私は、その人に愛を実際に示すことを勧めます。私が前に書き送ったのも、あなたがたが万事にわたり従順であるかどうかを確かめるためでした。あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かのことでその人を赦したとすれば、それは、あなたがたのために、キリストの前で赦したのです。私たちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
生まれた時からあなたの将来は既に決まっている。そう言われたら人は何を感じるだろう。出身大学がどこか。勤めている会社はどこで、どんな役職か。そういったことも、あなたがどのような家庭に生まれたかで決まっていて動かせない、としたら、人はどんな思いで生きていくのだろう。成功している人は問題ないのかもしれないが、負け組とレッテルを貼られているような人はどんな気持ちがするだろう。その人たちは明日への希望をいったいどこに見出せば良いのだろうか。
ジョン・カルヴァンという宗教改革者がいる。彼は「予定説」という教えを唱えたことで知られている。大雑把にいえば、人は生まれる前から、その人が救われるか滅びるかは神が決めており既に予定されている、というのがその内容である。今さっき話したこととどこか共通していないだろうか。クリスチャンではない一般の人々なら、こんな教えは鼻持ちならないと感じるように思う。救われるのは教会につながるクリスチャンだけであって、それ以外の人間は滅びに定められているというのか。ふざけるな。おそらくそんな思いがするだろう。しかしカルヴァンが説いたのは、本当はそんな意味ではなかった。クリスチャンであろうとなかろうと、その人が救われるか否かは神が前もって決めておられる。カルヴァンはそう言っただけである。そうであるならばクリスチャンの中でも、救われる者とそうでない者とが前もって区別されていることになる。ならば我々は救われなければならない。救われる為に抜かりなく聖書の教えを守り、最高最善の選択肢を選び取らなければならない。あるクリスチャン達はそんなことを思い始めた。何も考えずに救われた気になっている暢気な信者たちは滅びへと予定されているんだ、そうなりたくなければ常に正しくあらねばならない、と。一回でも失敗をすれば滅びという負け組に分類されてしまうのだと。
誰が救われ、誰が滅びるか。初めはクリスチャンとそうでない人との違いだと受け止められ、次にクリスチャンの中では、エリート信者達といい加減な信者達との違いだと受け止められたわけだが、それもカルヴァンが言ったこととは違っていた。その場で起こっていたのは、俗世間においても教会においても、誰が救われ、誰が滅びるかの判断を人間が下していた、という現実である。人間が人間の運命を決めることが出来るのか。絶対に出来ない。人間の運命は神のみが決めることだ。神の自由なる判断によって救いか滅びかが決められている。カルヴァンはそう唱えたかった。しかし神によってしか決められないことを、あたかも人間が神の代わりに答えを出せるかのように思い込む。そのように人間に思い込ませる。それがサタンのやり口である。そう言って間違いないように思う。
カルヴァンが予定説を説いたのは、当時の社会に深刻な問題があったからと聞く。中世のヨーロッパでは、人が救われるか滅びるかは腐敗したカトリック教会の司祭たちが話し合いで決めていた。魔女と決めつけられたり怪しいと見なされた人たちを処刑する魔女裁判が実際に行われていた。そこで富裕層たち、主に貴族階級は滅びと判断されないように教会に賄賂を贈る。腐敗した教会はそれを受け取って私服を肥やす。貧しい、力のない一般庶民はつけとどけなど出来ないために教会は彼らを冷酷に滅びと判断する。そこに神がいないのである。神によってしか決められない人の運命を、一部の人間が勝手に決めつけている。本来なら、人が救われるか滅びるかは神のみが決めることだ。カルヴァンが予定説を打ち出さざるを得なかったのは、そのような社会的背景があった。
二千年前のコリントの教会でも似たようなことが起こっていた。力のある信者たちが貧しく弱い信者たちを見下し、自分たち勝ち組は神に祝福されているが、あなたたち弱者は呪われていると決めつけ、そのために仲間割れが起こっていた。それを聞いたパウロは即座に手紙で彼らに反省を求めたのだが、そのパウロを却って誹謗中傷するような事態がコリントの教会で起こっていた。
先ほど読まれた聖書はこういう言葉で始まっていた。
「もし誰かが人を悲しませたとすれば、その人は私を悲しませたのではありません。もっとも、多少は悲しい思いをしましたが、それは、あなたがた皆に負担を負わせまいとしたためです。」
「あなたがた」と言われているのはコリントの教会である。教会は人間の単なる集まりではない。神が呼び掛け、人間がそれに答えて集まってくるところに教会は生まれる。神は常に世にある人間と関わろうとしてきた。先ほど創世記からはエデンの園の物語が読まれたが、あれは神から呼び掛けられたのに人間が神から離れ始める話である。神の言葉に背いた人間は神から逃げ隠れる。その為に人間は園を追放され、神から引き離される。しかしそれでも神は、そういう人間と関わることを止めることを決して止めない。むしろ、これでもかと関わる為に神が人となる。それがクリスマスの出来事であった。人の姿を取った神は、罪人達の誹謗中傷を一身に背負い、罵られ嘲笑われても、唾吐きかけられても、一切抵抗することなく十字架にかけられ遂には息を引き取る。なぜ神がそこまで謙らなければならないのか。なぜ神がそこまで無惨な死に方をしなければならないのか。そこまでしても、何としても、どこまでも人間と共に歩みたいのだという、それは神の熱意ではないだろうか。その熱意に打たれた人間。それは引き離されていながら、それでも十字架につけられたキリストを通して再び神を発見した人間である。途切れてしまっていた神との関わりを、御子キリストを十字架にかけてまでもやり直そう、修復させようとする神の熱意を受け止めた人間である。その神の熱意を受け入れた者たちの集まり。それが教会に他ならない。しかし人間は、一度受け入れても神の熱意を再び踏みにじり、教会を悲しませ、神をも悲しませることがある。私もそうであるが、皆さんも心当たりがきっとあるだろう。
エデンの園において、蛇はサタンの化身として登場していた。実は蛇も神によって命を与えられていた。つまりサタンも神によって存在を認められていた。蛇をエバに会わせたのも神である。それはエバとアダムが、本当に真剣に神と共に生きよう、という思いを、誰かから圧力をかけられたからそうする、というのではなく、周りの皆がそうしているからそうする、というのでもなく、自分から抱いて欲しいと、その人が本心からそう思って欲しいと、神がそう願ったからではないだろうか。どの木からも食べてはいけない、などとは神は言っていない。園の中央の木の実だけは食べるな、食べると死んでしまうからだ、と言ったのである。後は何でも食べて良いということなのか。違うだろう。礼拝さえ守れば後は何やってもいい。教会で良い子にしていれば後は何やってもいい。それも違うだろう。そこには、神と共に生きる必要性が全く感じられない。「その木の実からだけは食べるな」ということはむしろ、神にしか答えを出せないこと、神のみに委ねるべきことに人間が手を出してはならない、ということだったのではないだろうか。先ほどの予定説の話に置き換えるなら、誰が救われ誰が滅びるかなど人間は絶対に知り得ない、決めつけられない、ということだったのではないか。それに手を出したら神との関わりを人間が必要としなくなる。人間が神と共に生きる存在ではなくなる。そうなったら「死んでしまう」。神はそう言った。しかしエバは思った。ただ「死にたくない」と。神との関わりも大事だが、先ず自分が「死にたくない」と。自分の為である。神よりも自分が大事だ。そんな人間の本性を蛇に化けたサタンが見事につついた。「食べても死なないよ」。「むしろ食べれば神になれるよ」。そうか。もう自分はびくびくしなくていい。死ななくて済むし、神のようになれるのか。その時から人間は自分を神だと思った。自分を満足させる為に神がいる。そう思い始めた人間は神を御用聞きか何かに貶めた。その瞬間から人間は、神は必要な時にだけいればいいと考え、必要でない時は隠れる。忘れる。そうして人間は隣人愛よりも自己愛を優先させた。他人への親切も、自分にとって利益になるからするのであって、得にもならない相手、ましてや敵になど全くしない。自分を祝福してくれるなら神を信じるが、苦しみを与える神など信じなくなる。当時のコリントの教会にそう言う信者たちが現れ始めていた。神に成り代わって人間が人間を裁き、神が忘れられていた。カルヴァンが予定説を説いた頃の中世の教会も、おそらくきっとそうであったのだろうと思う。
アダムとエバが蛇に唆されて背いた一部始終を神は見ていた。神と共に生きることよりも自分の満足を優先させた二人は、神など必要ないという選択をした。ある意味彼らは神の存在を掻き消して神を殺した当事者になった。神は彼らを裁いただろうか。怒りを露わにしただろうか。そうではない。「どこにいるのか」。二人に神はそう呼び掛けた。そこに、たとえそうであっても、何としてもあなたがた人間と共に生きたいのだ、という神の思いが見え隠れしている。何とかして、アダムとエバが自分から悔い改め、神と共に生きたいと自分から思ってくれるように、という神の切なる願いが現れている。なぜ人となった神であるキリストは迫害され、嘲笑われ、しかも十字架の上で惨めな死を遂げなければならなかったのか。そこまでしなければ、背いた人間ともう一度共に生きたいという神の熱意が伝わらなかったからではないか。人間に、自分は道を誤り、神に背き、神を殺しさえしたのだ、と自分から気づいて欲しかったから、そうして自分から悔い改めて欲しかったからではなかったか。自分から神を捨てた人間の為にキリストを通して神は、自分の命を捨ててまでして、何としてももう一度共に生きようと言う決意を露わにした。それは世にある人間全てが、悔い改めて、神と共に生きたいと自分から思ってくれるようにという神の切なる願い、熱意であった。あの手紙を書いたパウロにはその神の苦しみがひしひしと伝わっていた。だからこそ彼はこう書いていた。
「その人には、大多数の者から受けたあの処罰で十分です。むしろ、あなたがたは赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。そこで私は、その人に愛を実際に示すことを勧めます。」
「あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かのことでその人を赦したとすれば、それは、あなたがたのために、キリストの前で赦したのです。私たちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」
悪には悪をもって答えさせ、やられたことに対してやり返さずにはいられなくさせるのがサタンのやり口である。神の言葉を、あれは神がお前たちに対して良からぬ思いを持っているからだ、自分と同じ力を持って欲しくないからだ、だったらお前たちが神になってしまえとアダムをたきつけるのがサタンのやり口である。憎しみをぶつけ、これでもかと侮辱してくる相手にどうして平然としていられよう。どうして憎み返さずにいられよう。それが人間の本性である。そこをサタンはつつく。我慢ならないと復讐心を燃え上がらせて自分の気が晴れることを求める人間は神から離れていく。しかし神はご自分の気を晴らそうとはしない。そのような人間の為にこそ自分を捨てる。途絶えた関係を取り戻す為に自分の命を捨てる。人からの憎しみを受けても無言を貫き、嘲られても忍耐して十字架で息を引き取る。それが神の正義であった。それは、勝利することが正義だと思い込んで人を蹴落とし優越感に浸るような安っぽい人間の正義感とは全く違う。「わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。」パウロのこの言葉は、私もその神に従わなければならない、キリストの後を従っていかなければならない、という思い以外の何ものでもなかったと思う。
サタンにつけ込まれないように。サタンはうまい話を造り上げて神からその人を引き離す。誰だって失敗したくない。そこにサタンは囁きかけてくる。こうすれば失敗しない。失敗しないためにもこうした方がいい。人間はその囁きに抵抗できない。心惹かれてしまう。でも神は見ておられる。キリストは、この世的に見れば大失敗した生き方を我々に見せてくれた。それは、誰も彼もが神の前では取り返しのつかない失敗を繰り返していることを、神が身をもって見せてくれたのではなかったか。そのような人間に神の方から歩み寄って、もう一度やり直そうとする。その思いを神はキリストを十字架にかけてまでして実現した。そしてそのキリストをよみがえらせて神は、成功失敗に囚われず、結果に囚われず、敵味方もなく、憎しみではなく愛をもって共に生きる新しい生き方を私達に示したのである。サタンにつけ込まれない為に、その神に委ねる他に道はない。キリストを信じて、キリストに倣う以外に道はない。そうではないだろうか。人間が自分の知恵や力でサタンを追い払えると思うなら、既にサタンの術中にはまってしまう、そうではないだろうか。間もなく迎えるレントの季節を前に、我々キリスト者が立ち帰るべき原点、見つめ直すべき立ち位置がそこにあるように思う。