「高ぶる者、へりくだる者」イザヤ66:1~2、マタイ23:1~12
2025年2月16日(左近深恵子)
イザヤ書の最終部分は、バビロニア帝国の捕囚となっていたイスラエルの民が解放され、祖国への帰還が赦され、帰還した民と、拉致されずにエルサレムに残されてきた民が、かつてバビロニア帝国の攻撃によって破壊された神殿と都再建の希望に沸き立った日々から数十年たった時代に語られました。再建はなかなか進まず、エルサレムの復興を望んでいない周囲の民との間に対立を抱え、楽ではない日々の暮らしの中で、神殿再建への熱意が人々の中で萎みつつありました。
自分たちの復興は都の地に神殿を再建することから始まるのだと希望に燃え、その願いがなかなか実現に至らないことに力を落とす人々に預言者は、神さまの住まいは天であると語ります。天も地も神さまのみ手の業であり、その圧倒的な存在と美しさ、恐ろしさは、全ての上におられる神さまの栄光を表します。その神さまを人が建てるいかなる地上の建造物に入れておくことも、その中に留め憩わせることもできません。神さまが人々と共におられることで人が憩うことができます。神さまによって造られた天も地の一切のものも、神さまのものです。そのご自分のものの中で、天に座しておられる神さまが特に目を注がれるものは何であるのか、それは「苦しむ人、霊の打ち砕かれた人、私の言葉におののく人」だとあります。低き人々です。低くされても、人はなかなか低くなれない者です。内なる自分を砕かれること、へりくだることを、自ら望みません。挫折や自信を喪失するような苦い経験が、へりくだりに結びつくとは限りません。神さまのみ前に自分を置くことが、へりくだることの第一歩です。み前に自分を置き、自分よりも神さまが高みにおられることを認めます。自分がその力におびえたりすり寄ったりしてしまう地上の様々な力よりも、神さまが高みにおられることに気づき、神様の言葉に耳を傾けます。神さまの言葉によってしか砕かれない頑なさを人は抱えています。モーセを通して与えられた律法や、預言者を通して告げられてきた言葉は、神さまこそ至高者であり、聖なる方であり、義なる方であることを告げます。イスラエルの民は、エルサレムを滅ぼすバビロニア帝国の軍事力に打ちのめされ、捕囚の地でバビロニアの壮大な建造物や巨大な神々の偶像を目の当たりにしました。帰還した民とエルサレムに残されて来た民は、神殿再建を阻む周辺の民との対立やゆとりのない日々の生活の困難さを味わってきました。しかしそれらの力や困難さは人の全てを支配することはできません。地を足台とされる神さまが全ての上におられます。神さまの言葉は人の高ぶりを刺し貫き、自分で自分を義としようとする人の支離滅裂さを露わにします。そうやって神さまの言葉に粉砕される苦しみを受け入れ、おののき、悔いる心を神さまは侮られず、清い心を造り、新しく確かな霊を授けてくださいます(詩51)。
時代が進み、神殿は再建され、拡張もされ、主イエスの時代には壮麗な建造物となっていました。旧約の時代には、モーセ以降預言者、士師などが民の指導者でありましたが、祭司や律法学者、ファリサイ派の人々が、神の民を教え導く立場にいました。この指導者たちの内の多くの者が主イエスを排除しようと画策してきました。主イエスはこの時、ご生涯最後の過越しの祭りの時をエルサレムで過ごし、日々神殿の境内で人々に語っておられました。神さまがご自分の民の中へと遣わされたキリストの言葉に群集は耳を傾けていましたが、指導者たちは主イエスの言葉尻を捕えて陥れようと、入れ替わり立ち代わり主イエスの所に来ました。しかし議論によって主イエスを言い負かすことをとうとう諦めたことが、今日の箇所の直前で述べられています。
主イエスが今日の箇所で語り掛けているのは、群集とご自分の弟子たちです。弟子たちの中心は、ガリラヤから主に従ってきた者たちでしょう。この人々に主イエスは、民の指導者たちの何が問題であるのか、人々はどのように信仰に歩んでいったらよいのか語られます。指導者たちが行動を起こし、主に死がもたらされる時は直ぐそこまで来ています。死を前に主イエスが人々に語られた教えが、今日の箇所から25章にまとまって記されています。
今日の箇所の前半では、指導者たちの言うことは「すべて」行い守りなさい、しかし彼らの行いにならってはならない、彼らのすることは「すべて」人に見せるためだから、と言われます。しかし今日の箇所の先を読み進めると、そこでは主イエスは指導者たちの教えの内容を問題とされています。ですから今日の箇所で、彼らの言うことを何もかも行いなさいと命じられているのではなく、彼らが「モーセの座」から語ることに耳を傾けるようにと教えておられます。律法は神さまから民にモーセを通して与えられました。その後律法を教え伝える権威は預言者や長老へと、そして主イエスの時代には律法学者やファリサイ派の人々などへと引き継がれたのでしょう。当時の会堂には、律法が納められている櫃の近くに会衆に向かって特別な席が設けられ、そこに民の指導者が座り、律法や預言書などを会衆に説き明かしたと言われています。主イエスは指導者たちに、受け継いだ権威に相応しく律法を説き明かすことを願っておられ、そして人々には、その言葉を大切に受けとめ、神さまの言葉に日々生きることを求められたのです。
けれど説き明かす指導者たちの中に、律法の戒めを人に見せるために実行しようとする、つまり自分で自分を義とするために律法を守ろうとする者があることを主イエスはご存知です。先週22:34以下の主の言葉に聴きました。心を尽くし、思いを尽くして自分たちの神となってくださった神さまを愛することへの求めが全ての律法の大元にあることを主イエスはファリサイ派の人々に教え、更に律法のみならず預言者が告げた神さまの言葉も、神さまを愛することに何らかの仕方で結びつくのだと教えられました。この神さまからの求めが律法の中で最も重要な戒めです。律法の中で最も重たい戒めです。指導者たちはこの重たい戒めと一つ一つの具体的な戒めを荷物を紐で括るようにまとめて人の肩に負わせ、その荷を背負って日々進み続けることを要求しながら、自分たちは主イエスが語られた本来の重みをもって律法を負う事を実行していない実態を主は明らかにされます。自分の丸ごとをもって神さまを愛するために律法を守るのではなく、律法を守る敬虔な自分の姿を人に見せるためであると。自分を義なる者、聖なる者に見せたいという動機によって振る舞う者たちの行いに倣ってはならないと言われます。
聖句の入った小箱の紐を幅広くするのも、衣の房を長くするのもすべて、自分が敬虔な者であると人に見せるためでした。敬虔なイスラエルの民は、申命記や出エジプト記に記されている戒めに従って、神さまの恵みと律法を絶えず思い起こすために額や腕などに聖句の入った小箱を身に着けていました。特に他者の目に触れる額の小箱の紐の幅を広くして、自分が小箱を付けていることを目立たせたのでしょう。また民は民数記や申命記に記されていることに従い、自分の心と目の促すままに流されてしまわないよう、それを見て律法を思い起こし、守り行うために、衣服の四隅に房を付けていました。その房を長くし、人目に触れやすくしていた者がいたのでしょう。
このような見せかけの敬虔さによって人からの評価を求める名誉欲は、他者から重んじられることを求めます。年齢や社会的立場によって席が厳格に定められる宴会の場で、主人の左右に設けられるような上座に座ることを好むのも、会堂では会衆に向かい合う特別な席に座ることを好むのもその現われでしょう。上座を与えてくれた宴会の主人や周囲の人々の配慮に感謝するよりも、会堂で特別な席に座る者にふさわしく務めを担うことができるように主に導きを祈り求めるよりも、名誉欲を満たされて喜ぶ姿は哀れですが、指導者たちだけがそのような名誉欲に弱いわけではありません。彼らが額の小箱や衣の房が目立つ姿で、市が立ち多くの人が集まる広場を歩き回れば、人々から先生と声を掛けられたり、挨拶を受けることになるでしょう。それも彼らが好むことでした。「先生」とここで訳された「ラビ」という言葉は本来「偉大なもの」を意味し、尊敬すべき相手には誰にでも用いた一般的な敬称でありましたが、この時代には律法学者のような、特別に学識を積んだ相手に用いる称号のようになっていました。指導者たちの中にはそのような挨拶を受け、そう呼ばれること好む者たちがいました。名誉欲が満たされることを求める姿は滑稽にすら映りますが、滑稽なのは彼らだけでは無いことに思い至る私たちです。彼らについて繰り返される「好む」という言葉は、「好んでする、愛する」といった意味の言葉です。そのように扱われることを求める人の中の思いは決して小さなものではなく、誰の中にもいつ沸き起こっても不思議の無い思いであるから、主イエスはこのことを群衆や弟子たちに告げたのでしょう。神様の言葉に打ち砕かれ、神さまの恵みと義に満たされるよりも、人からの評価を実感することで満たされたい思いと、主イエスはこれまで対峙してこられました。この先主イエスを十字架へと押しやるのも、指導者たちだけでなく、今耳を傾けている者の中にもあるこの思いであります。
8節以降では、主イエスは指導者たちを例に挙げるのではなく、あなた方はこうしてはならない、こうしなさいと、直球で語られます。互いに「先生」、「教師」と呼んではならない、地上の者を「父」と読んではならない、なぜならあなたがたの先生も、教師も、父も、ただお一人だからだと、「おひとりだけだ」という言葉が繰り返されながら、その根拠が示されます。
群衆や弟子たちが、この先、「先生」や「教師」と呼ばれるような務めを与えられることが全くないとは言い切れないでしょう。そのように呼ばれる人々の務めの重さを主が顧みておられないのではなく、名誉欲に引きずられず、ただお一人の真の師に並ぶ者はいないことを深く心に留めるのです。「教師」と訳された言葉は、知的な事柄や技術的な事柄についての教師以上の者、霊的な導き手を指します。心を尽くし、思いを尽くし、自分の丸ごとをもって神さまを愛することが求められる霊的な信仰の旅路を、糧をもって養い、安らぎと憩いを与え、道から彷徨い出てしまう者の名を呼んで探し、ご自分の元から奪おうとする者と闘い、そうして神様の家へと率いてくださる導き手は、善い羊飼いなるキリストお一人です。民の中に主から特別な務めを委ねられている者がいます。牧師もその一つの務めです。しかし主のみ前で信仰者は皆、キリストという師に従う弟子たちであるのです。また主イエスはご自分の弟子たちをここできょうだいと呼んでおられます。男性だけを意味しているのではなく、共に父なる神の子らとされた者たちという意味の、きょうだいです。ただお一人、真の神のみ子であるイエス・キリストが、私たちをきょうだいと呼んでくださいます。だから地上の者を父と呼んではならないと言われます。当時、教えを説いてくれる人、何らかの恩義を受けている人など、年長の尊敬すべき相手を、過去の人物も含め、「父」と呼ぶことがありました。真の父は神様お一人であることを人が曖昧にしてはならないということでしょう。
人が内に思うことは、その人が他者や神さまをどう呼ぶのかその呼び方にも表れるものだから、呼び方は本質的ではない、形式的な事に過ぎないと軽んじることはできないことに、主イエスは気づかせてくださいます。私たちの信仰が呼び方にも表れます。ただお一人の、その栄光は全てを超えておられる方こそ神であること、父なる神、み子なる神だけを主とすることを妨げてしまうあらゆるものを、教会は退けます。そうでなければ、見失ってはならない方を見失ってしまい、自分がどのような者であるのかも分からなくなり、絶えず人の目にどう映るのかを根拠に振る舞うことになってしまいます。
主イエスは「あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われます。エルサレムに入られる少し前にも、弟子たちに同様のことを語られました。ご自分が傍にいることができなくなった後も、人々が弟子として福音を受け止めて歩んでゆけることを願い、主は人々にもこのことを告げられたのでしょう。
人間の中に、高ぶる者とへりくだる者の2種類のタイプの人が居るわけではありません。人は誰もが自分を高くしたいと願う者です。他者と比べてそうあろうとすることもあれば、自分の基準で自分で自分を高い者としようとすることもあります。弟子たちは、主イエスの傍で主イエスが語る神の国の到来と、神の国を示す御業に触れ続けながら、誰が偉いかと互いに揉めて、仕える者となりなさいと言われました。指導者たちは、律法や預言の言葉に他の人々よりも触れる恵みを多くいただき、へりくだり、神さまと民に仕えることを率先して求めなければならないことを知っていたはずでありながら、いつの間にか名誉欲に内なる目を塞がれていました。彼らの振る舞いに、人の中にある高ぶることへの執着の根深さを垣間見るのです。
高ぶり、自分で自分を良しとしてしまう生き方に囚われ、その結果神さまを見失い、安らぎや憩いから遠くなり、飼う者のいない羊たちのようであった人々を救うために、天に座しておられる神自ら地に降られ、人となられ、よみにまで降られました。神のみ子自ら仕える者となってくださいました。キリストが為してくださったことに、私たちの高ぶることへの頑なさ、根深さがどれほどであるのか表れています。誰が偉いかと揉めていた弟子たちに主イエスは仕える者となりなさいと言われ、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのと同じように」と言われました(マタイ20:28)。キリストが私たちの代わりにその命を十字架でささげ、血を流し、肉を裂かれてくださった、それほどに私たちは頑なな者であります。キリストの命と言う身代金によって神さまが私たちに自由を回復してくださった今、神さまの言葉に打ち砕かれて、へりくだることができる道が与えられています。比較すれば違いも目につく、年齢も背景も信仰者としての歩みの長さも様々な一人一人が、神さまを父とする、キリストにある兄弟姉妹とされ、ただお一人の師を仰ぐ弟子たちとされています。キリストを通してお互いをきょうだいとして受け止められることがどんなに大きな幸いであるのか、弟子として歩む中で私たちは知ってゆきます。この道こそ自分の人生を丸ごと捧げるのに最もふさわしい道なのだと、死によって、時間の経過によって、消えてしまうのではない尊さに生きて死んでゆける道なのだと知り、キリストが先導して導いてくださるこの道を主に感謝しつつ、共に歩むことができるのです。