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最も大切なこと

「最も大切なこと」申命記101222、マタイ223440

202529日(左近)

 

 主イエス・キリストは、生涯最後の1週間となる日々をエルサレムで過ごしておられました。民の指導者層の人々は、かねてから主イエスに敵意を抱いていました。主イエスの語っておられることを神さまからのものと認めることは、自分たちのこれまでの在り方を問われることになってしまう、それは神さまのみ前で悔い改め、これまでの在り方を変えることにつながってしまいかねないと思ったのではないでしょうか。自分たちが指導的立場にいるこの社会で、自分たちのこれまでの在り方を守るために、主イエスの活動をこのまま放置するわけにはいかないと危機感を募らせたのでしょう。自分が世界とする領域の中で自分の思うような在り方を譲りたくない。それを妨げるものは、神からの言葉だと告げる者であっても自分の領域から取り除くことで、自分を守りたい、そのような誰の中にもある思いで、指導者たちは主イエスを敵としてきました。主イエスがエルサレムに来られ、神殿の境内で毎日人々に福音を語られている所に、指導者たちは入れ替わり立ち代わりやってきます。そして主イエスを言い負かそうとしては、かえって言葉を返すこともできず退散するということが繰り返されました。今日の箇所ではファリサイ派の人々が集まって相談し、一人の律法の専門家を主イエスの所に遣わすことにしています。ファリサイ派とは、律法を厳格に守る人々です。その中から、とりわけ律法に詳しい人を送り込むことにしたのでしょう。

律法は、モーセを通して古代イスラエルの民に与えられた定めで、十戒を中心としています。律法は、神の民にとって生活の根本にあるものです。戒めや掟と言った律法を表す言葉に、人の自由を制約し、人が生き生きと生きることを抑え込むようなイメージを抱きがちですが、律法を学び、律法に従う生活を実行できることは、神の民にとって最も幸いな生き方でありました。先ほど交読した詩編119篇も、律法を「あなたの掟」「あなたの戒め」「あなたの定め」「あなたの道」と様々に表現し、この道に従うことができるように導いてくださいと、神さまに願っています。40節には、「私はあなたの命令を望み続けています」とあります。新しい聖書協会共同訳は、この「命令」を「諭し」と、「望み続ける」を「慕う」と言い換え、「私はあなたの諭しを慕います」と訳しています。律法は神の民の生活を窮屈に縛るものではなく、神さまのみ心にお応えする道、慕い求める道であるのです。

 

ファリサイ派の人々はこの律法をよく学び、律法が教える祭儀や生活をどう守ったらよいのか、人々を指導していました。律法が生活の根本であることの重みをよく知り、実行に移していることに、自負のある人々であったでしょう。彼らが一人の者を主イエスの所に遣わせたのは、前回の15節以下の出来事からも、悪意ある意図によることは明らかでしょう。彼らが選び立てたこの人は「律法の専門家」と訳されています。「律法学者」とも訳されてきた語ですが、元の語は、「律法」という言葉が人に対して用いられる形に変化したものです。本来の意味は「律法に合致している人、律法的な人」となります。生活の根本にある律法とその人自身一体となっているような人、その人の生活が律法を映し出しているような人、そのように他者から評価され、自分も自負しているのが、「律法の専門家」でしょう。その1人が、境内の群衆の目の前で主イエスの教えの真偽をはっきりさせられる、主イエスの力量を明らかにできる問いとして掲げたのが、「律法の中で、どの戒めが最も重要であるか」というものでした。細かく数えれば何百と戒めがある律法の中でどれがより重要であるのかという問いは、彼ら自身が抱いてきたものとでしょう。暮らしの中で直面する状況は人それぞれであり、戒めの内、何を今優先すべきなのか、最も重視されるべきは何であるのか、人々を教える中で大きな問いとなってきたことでしょう。しかしこの時律法の専門家は、自分自身が答えを求めてではなく、主イエスを試すために質問しています。主イエスの答えによって、律法にどれだけ精通しているのかいないのか、人々に教えを説く者としてふさわしいのかそうでないのか、明らかにすることができると考えたのでしょう。

ご自分を試し、ご自分を追い詰めるためにしている質問であることを主イエスはご存知であったでしょう。しかし主イエスは答えます。律法を重んじるこの質問者に答えるだけでなく、そしてこの人を遣わした指導者たち、また周囲にいたであろう群衆にも、語られたのかもしれません。神さまが律法を通して求めておられる最も重要なのは「あなたの神である主を愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」だと答えられます。最初の答えは、申命記65や、本日共にお聞きしました1012などに記されていることです。第二の答えは、レビ記1918に記されていることです。聖書の律法の箇所から、二つの戒めを取り上げられたのです。

 

それまでも、律法の中で特にこの二つの戒めを重視した人はいたようです。質問者の反応は記されていませんが、質問者にとっても驚く答えではなかったのかもしれません。しかしこの二つの戒めの重みを主イエスほど知る人はいません。この二つの戒めに生きることのできる確かな道を主イエスほど見つめていた人もいなかったでしょう。

 

この二つの戒めが重要であるのは、律法の膨大な戒めを分類するとこの二つに大別することができるからではありません。生活の根本にある律法の、更に大元にあるのが、この二つであるということです。律法が、細かに定められた具体的な規定から成っていることは、生活のどの領域においても、神さまのみ心から離れてしまいかねない人間に、み心から離れ出ていることを気づかせてくれます。しかしまた、律法の一つ一つの戒めが今の自分の状況にはどう適用したらよいのか分からないということも、多くあったことでしょう。戒めを表面的に、機械的に守っていても、それは律法を与えてくださった神さまのみ心にお応えしている生活とはなりません。律法の大元に神さまを愛すること、隣人を愛することがあることを知り、その二つの戒めに生きるために一つ一つの戒めに従うことで、自分の日々を神さまのみ心にお応えするものとすることができる、この二つの戒めはそのようにして、重要であるのです。

二つの愛の戒めは、神さまのみ心にお応えしたいと願う者に、神さまとはどのような方であるのか、自分はどのような者であるのか、思い起こさせてくれます。律法とは、神さまがご自分の民とされた人々に与えてくださったものです。かつて、命も存在も自由もファラオの力によって抑え込まれていた人々をファラオの下から救い出し、ご自分が彼らの神となると、彼らをご自分の民とすると契約を結んでくださいました。神さまによって自由を回復され、どのようにも歩むことができる者となった民に、神さまをただお一人の神とする道を見出せるように、道標として律法を与えてくださいました。律法の中心にある十戒は、神さまを神とする生活は、安息日の礼拝を守ることから始まることを教えます。安息日を他の日から聖別し、その日神さまのみ前に進み出て、悔改めと、感謝と、祈りと、賛美をささげることから、7日間の歩みを始めるように教えます。十戒の後半は、神の民とされた者は隣人との関わりにおいてどのように振る舞う者であるのか教えます。これら十戒の一つ一つの戒めは、十戒の初めに告げられていることが前提となっています。「私は主、あなたの神、あなたをエジプト地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいて他に神々があってはならない」とあります。奴隷の地から導き出してくださった神さまだけを神とする、このことが十の戒め一つ一つの大元にあります。

 

律法の中心にある十戒がはっきりと示すように、神さまがどのような方であるのか知ることが、私たちの神となってくださった方を、私たちの側も神とする歩みの土台です。神さまを愛するとは、人として本来の在り方で生きることができずにいたところから導き出し、ご自分の民としてくださった方を、愛することであります。どのように愛するのか、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」愛するのだと、言われています。それは言い換えるなら、内なる自分を、自分の在り方を、自分の思考を、物事を受け止め、判断する知性を、全てをもって、自分の丸ごとでもって、神さまを神とするということです。神さまを神とすることは、自分を愛するように他者を愛することと深く結びつきます。自分を愛するとは、自分を好きかどうかということではありません。好きであろうと嫌いであろうと、神さまが自分に注いでくださる愛にふさわしく自分を大切にしようとすることです。同じように他者のことも、神さまがその人に注いでおられる愛にふさわしくあろうとするのです。

主イエスが二つの愛の戒めが律法の大元にあることについて語られたことを、三つの福音書がそれぞれ伝えています。語られた状況や言葉は全く同じではありません。このマタイによる福音書の場合は、これまで見てきましたように、主イエスに敵意を募らせる者が入れ替わり立ち代わり悪意ある質問をする、その状況で語っておられます。自分の居場所を守ろうと律法を振りかざす者に主は、律法の大元にあるのは、奴隷であった者たちを救い出してくださった神さまの慈しみとみ業にお応えして捧げる愛であることを明らかにされました。「最も重要な戒めは何か」との問いに対し、第一の答えを最重要な戒めとして告げてそこで終わることも可能であるのに、ご自分を試すために問うこの者に第二の隣人を愛する戒めも告げられました。“律法を厳格に守っていると自負するあなたの大元にあるのは何であるのか”と、“神様を礼拝しているあなたの大元にあるもの、他者に対するあなたの振る舞いの大元にあるものは何であるのか”と、問いかけておられるようです。隣人を愛することを、感情や情緒の事柄と思いがちであり、そうして隣人を愛することにしばしば困難を抱える私たちも、主の言葉によって自分の大元にあるものを見つめずにはいられません。

 

そして主イエスは更に、この質問者の想定を超えたことを告げられます。「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」と。二つの愛の戒めに、律法だけでなく、旧約聖書全体で告げられてきたことが何らかの意味で結びついているのだと。

 

神さまは、律法を与えられながら、神さまをただお一人の神とし続けることに躓き続けてきた人間に、この二つの戒めに生きることのできる確かな道を与えるため、独り子を世に与えてくださいました。神であるみ子が、私たちと同じ人間となってくださいました。戒めに従いきれない人間のただ中でみ子は、神さまに心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、ご自分の全てをささげてくださいました。このみ子によって私たちは、どれほどの愛が私たちに注がれているのか、知るのです。主イエスはかつて弟子たちに「仲間を赦さない家来」の譬えを語られました。一生かかっても返済できない膨大な借金を帳消しにする主人のように、神さまはただ憐れみによって人が自力ではその値を払うことのできない罪を赦される方であります。そして、主人に帳消しにしてもらった額に比べればまことに僅かな額であるのに、仲間が自分に負う負債を赦すことのできない者のように、他者が自分に対して犯す罪は赦すことのできない人間の姿を明らかにされ、赦されたように赦すことを告げられました。そしてこの主イエスが、自力で罪を償うことも、他者の罪を赦すこともできない私たちに神さまの赦しを得させるために、人の弱さや背きを代わりに担い、人の罪に対する裁きの全てをその身に負ってくださいました。かつて主イエスは、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ517)と言われました。主イエスは律法を引き継がれ、ご自身の命をささげて律法を完成してくださいました。だから私たちは律法の細かな規定を超えて、主イエスが律法の大元にあることを示された二つの愛の戒めに生きることができるのです。主イエスが律法を完成してくださったのですから、寧ろ私たちはこの二つの戒めを、より一層自分の生活の根本に位置付け、この二つの戒めが私たちの日々の歩みを通して実現されることを求めるのです。

 

 

神さまを愛するということは、分かるようでよく分からないものです。寧ろ神さまの教えに忠実に生きなさい、神様の戒めを守りなさいと言われた方が、まだ分かるような気がしてしまうのです。一時的な高揚感や情緒的な満足感を、神さまを愛していることだとしたくなる誘惑もあります。エジプトから導き出された後、荒れ野で幾度となくイスラエルの民は、エジプトで奴隷だった時の方がましだったと、なぜエジプトに置いていてくれなかったのかと、神さまに不平の言葉を繰り返したことを聖書は伝えます。神さまが真の王であられるのに、地上の王たちの力の強さに怯えたり惹かれたりするイスラエルの民は、厳しい預言者たちの言葉よりも、耳に心地よい聴きたい言葉を語ってくれる者の言葉に耳を傾けたことも伝えています。キリストを与えられ、キリストの血によって赦しを与えられながら、神さまを愛することも、隣人を愛することも求め続けられない私たちの実態も、神さまはご存知です。それでもなお、私たちに二つの戒めに応えることを求めておられます。神さまから注がれている愛、それが最も明らかに示されているキリストの十字架が、神さまにお応えすることを願う私たちの根拠であり、お応えすることへと背中を押す推進力であり、お応えする道を見出すよう助ける矢印です。神さまを愛することに心と魂と思いを尽くすなど非現実的だと、この世で生きていくためには心や魂や思いを注がなければならないものが他に幾らでもあると、自分の生活を守るためにはそれらの方が実際には優先されるのではないかと、迷いは繰り返し内側に沸き起こります。主イエスは山上の説教の中で、「思い煩ってはならない」と語られました。「思い煩ってはならない。あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なことをご存知である。先ず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」(63133)。私たちのために十字架に命まで捧げられたキリストが先立って行かれる道であります。世にあって神さまを愛し、隣人を愛するとは、荒れ野の中を見えない道を求めて進むようなことに思えてしまいますが、キリストの後に従おうとする者は、この地にも既にキリストの苦しみと神様の恵みが染みこんでいることを知る者であります。神さまに信頼して、神様の諭しを慕う幸いな道へと今週も踏み出したいと願います。