「主が進まれた道」イザヤ40:1~11、マタイ21:1~11
2025年1月19日(左近深恵子)
「一体、これはどういう人だ」。この問いをエルサレムの都中の人が、エルサレムの都に入って来られた主イエスに対して発したとあります。主イエスはどのような方なのか、それはその人の人生のその後を分けるほど重みのある問いです。この問いにエルサレムの人々がどのような答えを出すことになるのか主イエスは見つめつつ、エルサレムに至る道を歩んでこられたのでしょう。
主イエスがそれまで活動しておられたガリラヤの地域からエルサレムの方へと、進んで行かれる方向をはっきりと示されたのは、フィリポ・カイサリアで弟子たちに初めてご自分の死と復活を予告された時でした。「人の子は必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」と弟子たちに告げられました。この死と復活の予告を、主イエスは脈絡もなく弟子たちに宣言されたわけではありません。これに先立って弟子たちに、「人々は、人の子を何ものだと言っているか」とお尋ねになっています。他の人たちが主イエスをどう見ているのか、饒舌に報告することのできた彼らに、主は続けて「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われます。“私をどのような者と思ってここまで従ってきたのか”、そう彼らに問いかけます。答えに詰まる彼らですが、いつものように彼らを代表して真っ先に言葉を発するのはペトロです。ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。“預言者たちを通して示されたメシアは、あなたです。そしてあなたは生ける神です。神のみ子です”、そう答えたペトロの答えを主イエスは喜ばれ、この答えの上に私の教会を建てると言われました。死と復活を予告されたのは、その後です。この先エルサレムで間近に主イエスの苦しみを見ることになる彼らに、主イエスは苦しみと死が待ち受けていることをご存知の上で進んで行かれるのだと、この道を進むことが、救い主として、人々を救うために必要であるのだと語られました。主の弟子たちは、主イエスが捕えられ、主が死に瀕する時、死が自分たちから主イエスを奪ってしまったと、恐ろしさと孤独に呑み込まれそうになる時、ペトロが告白した信仰の土台の上に踏ん張って立ち続けて、主イエスがどのような方であるのか見つめることを願われたのではないでしょうか。
「これはどういう人なのか」、この問は、主イエスがお生まれになった時から人々が抱いてきたものでした。ヘロデ王とエルサレムの人々は、東方から来た博士たちを通して「ユダヤ人の王」の誕生を知った時、不安を抱いたことをマタイによる福音書は伝えています。博士たちは、新しくお生まれになったユダヤの王にお会いするために国を後にし、貴重な贈り物を携えて、はるばる旅をしてきました。しかしヘロデは自分の王座を脅かす可能性があるとその子を殺す計画を立て始めます。祭司長や律法学者ら指導者たちも、メシアが生まれる場所を問うヘロデに、預言者の言葉を伝えることで、ヘロデに加担する者となります。エルサレムの人々も、ヘロデの圧政を決して喜んでいないのに、新しい王誕生の知らせに警戒心ばかり強めます。彼らは、お生まれになった方がどのような方であるのか、預言者の言葉にも、東方の博士たちの言葉にも耳を傾けようとしないまま、救い主誕生の知らせに耳を閉ざして主イエスの誕生をやり過ごそうとしています。現状を維持することを最優先にして、不安に捕らわれています。それが、エルサレムの王と民の姿でありました。
エルサレムは、ユダヤの中心都市であるだけでなく、主なる神がそこに臨在されると告げられた神殿がある神の民の生活の中心地であり心の拠り所です。エルサレムは、王の都としても特別な町です。神さまが王として選び立てられたダビデが拠点とした町であり、神さまはそのダビデの子孫に、真の王、救い主を与えてくださると告げられました。救い主が現れれば、その方は王の都エルサレムに来られて王として即位されるはずだ、ダビデ王の時のような、あるいはそれ以上の繁栄をもたらしてくれる、そう人々は期待するようになっていました。その神の都であり王の都であるエルサレムが、幼子キリスト、ユダヤの王誕生の知らせに背を向ける実態が露呈しています。その姿は、その時代のエルサレムの人々だけのものとは思えません。人々と力が最も集まる特別なこの場で露わになった人の実態は、これから更に露わになろうとしています。そのエルサレムに至る道を、主は歩み続けてこられました。
福音書はエルサレムの門を進み行くこの方こそ、旧約聖書を通して示されて来たメシアであることを、預言者の言葉を次々引用しながら証しします。主イエスがろばの背にのって都に入られたことがその1つです。これまでの旅をおそらくほとんど歩いておられたと思われる主イエスが、この時はろばの背に乗っておられます。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであったと、聖書は伝えます。5節に記されている文は、主にゼカリヤ書9:9から引用されています。ゼカリヤ書9:10はその後こう続きます、「私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は断たれ/この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る」。救い主は平和をもたらす王です。それは、暴力によって実現される平和ではありません。特別な馬具で装われた背の高い軍馬にではなく、日常の荷物を運ぶ動物であったろばに乗って、都へと入られます。「へりくだって」おられるとあります。新約聖書で「柔和な」「穏やかな」とも訳される言葉です。旧約聖書では「主に従う」「主のご意志に従う」「主の僕となる」という意味の言葉です。地上の王たちのように軍馬によって軍事力や王としての威厳を誇示するためではなく、神さまの救いのご計画に従う方として、王の都に入ってゆかれます。歩いてではなく敢えてろばに乗られたのは、ご自分がどのような方であるのか、人々に示すためであったのでしょう。この時は歓呼の声を浴びた主イエスですが、この先は力や言葉による暴力、裏切り、嘲笑を浴びることになり、その苦しみは、十字架という残虐かつユダヤの民として最も不名誉な死に至るまで主に圧し掛かり続けます。そのエルサレムの都の中へと進むことの意味を、ろばによって人々に示すためであったのでしょう。やがてゴルゴタの丘に至る道を、人々に真の平和をもたらすために、神さまのご意志に従ってへりくだってろばに跨って進まれるこの方は、柔和で穏やかな王であります。そのへりくだりや柔和さは、私たちが普段人の性格や人柄を褒める時に用いるような意味ではなく、私たちの罪を私たちに代わってその身に引き受けられ、十字架の死にまで神さまに従われ、人々の罪が露わになる道を、救いの道としてくださることを示すのです。
5節の前半には、イザヤ書62:11の言葉も引用されています。62:11はこう呼び掛けます、「見よ、主は地の果てまで布告された。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いがやって来る。見よ、その報いは主と共にあり/その報酬はみ前にある」。シオンはエルサレムを指します。“エルサレムの人々よ、救い主を見なさい、地の果てまで布告され、その支配は世の隅々にまで及ぶ救い主のために整えなさい”と、預言者を通して神さまはエルサレムの民に呼び掛けて来られました。いよいよその方の到来が実現したのだと、告げるのです。
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神さまの呼びかけに応えるように、大勢の群集が自分の上着や木の枝を、主イエスが進まれる道に敷きました。地面を直に歩く必要が無いように服を敷くのは、王や身分の高い者たちに対して敬意を表し、栄誉を与える行為として、しばしば為されていたことと言われます。これまでも身分の高い者たちがエルサレムを訪れると、人々は服を敷いたり小枝を散りばめたり、花のシャワーを浴びせたりといったことをしてきたのでしょう。歓呼の声も挙げたことでしょう。主イエスにはホサナと叫びます。先ほど交読した詩編118:25の「救ってください」と訳された言葉が、「ホサナ」というヘブライ語です。「救ってください、助けてください」と、主なる神に訴える言葉です。それが主イエスの時代になると、救いを求めるだけでなく、喜びの叫びとしても用いられるようになっていたのだと考えられています。群衆は、神さまが約束された王が来られたと、自分たちを救ってくださる方が来られたと、喜びの声を挙げたのでしょう。群衆の中には、ガリラヤの地方から来て、主イエスがダビデの血筋ヨセフの子としてお生まれになったことを知る人々もいたのでしょう。主イエスを「ダビデの子」と呼んで、詩編117篇の言葉でもって主イエスを歓迎します。詩編117篇は、礼拝を捧げるために旅してきた巡礼者たちを神殿の門の所で歓迎する祭司たちの言葉と言われています。都の門をくぐって入られる主イエスに、神さまの祝福を願うのです。最初の「ダビデの子にホサナ」という叫びは、彼らが主に向かって発する歓呼でありますが、最後の「いと高き所にホサナ」は、いと高き所、つまり天にあってもこの歓呼の声が響くようにと、天使たちも自分たちのホサナに声を合わせますようにとの呼びかけと考えられます。
これは過越しの祭の時期のことでした。過越しの祭りは、神の民にとって信仰のルーツと呼ぶべき出エジプトの出来事を思い起こす、大切な祭です。普段エルサレムに住んでいない人々も、この祭りはエルサレムの神殿で祝いたいと、大勢集まってきます。エルサレムには、住民だけでなく、他の町や村から来た人々がこの時期大勢いました。門の中へと進み行く主イエスを門の所で歓迎した「群集」が、他から来た人々なのか、エルサレムの住民も混じっていたのか、明らかではありませんが、主イエスを歓迎するその姿と言葉から、主イエスの出自を知るような、他から来た巡礼の者が多かったのではないかと思われます。
門の内に入り、町の住民の比率が一気に増えると、主イエスを迎える人々の反応に差が現れてきます。都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言います。「騒いだ」と訳された言葉は本来「揺らす」という意味の言葉であり、そこから「騒がせる、揺るがせる」という意味を表わすようになりました。名詞になると、振動、とりわけ地震を現します。十字架上で主イエスが息を引き取られた時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け」た(マタイ27:51)とこの福音書は伝えていますが、この「地震が起こり」と訳された箇所は、今日の「騒いだ」と同じ言葉です。また主イエスが三日目に復活された時、大きな地震が起こり、主の天使が降り、石を転がし、その上に座ったと、その様を見た見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震えあがり、死人のようになったと、この福音書は伝えています(28:2~4)。ここでは「地震」という名詞も、「震えあがり」と訳された動詞も、今日の「騒いだ」と同じ語から出ています。この言葉が意味する揺れは、喜びの波というよりも、不安や恐れに揺さぶられる状態です。都の住民は皆、主イエスの到来によって不安に揺さぶられたと、都全体がそうやって揺さぶられたのだと福音書は伝えます。かつて、ユダヤの王の誕生を星によって示された東方の博士たちからその報せを受けて、不安に揺さぶられたこの町は、再び不安に揺るがされます。救い主の到来の知らせに、神さまによって新たな生き方へと変えられることを喜ぶことが当たり前ではない人の姿があります。決してベストではなくても、現状を変えられないことを求める人々の只中に神さまの方から入ってこられ、その暮らしも、その人々が固執した生き方も、根底から大きく揺さぶるのです。
「一体、これはどういう人だ」、この町の住民の問いに、ここで応えるのは群集です。「ガリラヤのナザレから出た預言者である」と教えます。ただ“ナザレ出身の預言者”と述べるこの答えは、町の門で救い主をお迎えした歓呼の言葉よりも少し後退したような印象も受けますが、群集が町の住民よりも明確に主イエスがどなたであるのか見つめ、高く評価していることは確かです。「群集」と呼ばれるこの人々の言葉と存在が、主イエスに敵対する者たちの動きにブレーキを掛けることになります。エルサレムを拠点とする民の指導者たちは、かねてより主イエスを殺す計画を立てていました。主イエスの方からエルサレムに来たということは、指導者たちにとって絶好のチャンスが到来したということになります。しかし、主イエスをメシアとして喜んで都に迎え入れた群衆を目の当たりにし、主イエスがどのような方であるのか、自分が信じることをはっきりと町の住民に述べるこの群衆が町の中に居ることが、指導者たちを恐れさせます。群衆の反応を怖れ、表立って主イエスを捕えることに踏み切れなくさせます。この後で幾度も、指導者たちが群集を「怖れた(恐れた)」と、福音書が述べている通りです。主イエスがエルサレムに入られたのが日曜日のことであり、木曜日の晩には、弟子のユダの裏切りと手引きによって主イエスは捕らえられ、金曜日には十字架に架けられます。疑念の入り混じった問いを発する住民に、主イエスを証しした群衆の言葉と存在は、数日ではあっても、主イエスが都の神殿で人々に語る時を持つことに大いに貢献したのです。
主イエスはどのような方であるのかという問いと向き合うことは、私たちの人生を分ける重みのある問いに向き合うことであります。死に至るまでへりくだられたキリストによって罪を赦され、罪が奥底で固く根を張る私たちを根底から救っていただくことが、私たちの本当の慰めであることを受け入れ、救い主に従う道を行くのか、それとも変えられないでいられる道に固執するのか、どの道を行くのか、この問いに向き合う度に問われます。この日主イエスがどなたであるのか証しすることができた群衆も、金曜日には、揺るがされたかもしれません。主イエスがローマ帝国からの独立を勝ち取り、かつてのような繁栄を今一度取り戻してくれる王となることを期待したのに、期待を裏切られたと失望し、失望は怒りに転じ、主イエスに向かって悪態をついたかもしれません。私たちの理解はいつでも主イエスの全てを見つめ、認識するには不十分です。私たちは、主イエスが真の慰め主であることに立ち続ける信仰の足を、容易く、繰り返し、揺るがされます。不安に呑み込まれ、主イエスに背を向け、主イエスを遣わしてくださっている神さまに背を向けそうになります。聖霊のお働きに導かれて私たちがキリストがどのような方であるのかみ言葉を通して受け止める時、神さまの救いの御業をいくらかなりとも見つめる時、私たちは慰めを知ります。そして、この方こそ救い主ですと私たちが発する信仰の告白は、主に受け止められ、救いのみ業に用いられることを、望むことができます。