「この最後の者にも」イザヤ55:1~5、マタイ20:1~16
2025年1月12日(左近深恵子)
主イエスがガリラヤでお働きを始められた時に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と人々に呼び掛けたことを聖書は伝えています。主が告げられた「天の国」とは、「神の国」とも聖書で言われ、神さまのご支配を表します。地上では絶えず様々な支配者が、自分たちの利害のために自分の力が及ぶ範囲を拡大しよう、影響力の度合いを強めよう、自分の支配領域を死守しようと争っています。その地上の支配者たちの力は私たちの生活にも、人生にも、大きな影響を及ぼします。私たちの人間関係も、他者を支配しようとする人の思いによって歪められ、損なわれることは少なくありません。そのような人間の支配の力が広がり重なり合う世にあって、それらの力を突き抜けて神さまが支配しておられるところが、天の国です。旧約の時代には主にイスラエルの民に神さまのご支配が示されてきました。そして世に降られたみ子によって、人々の近くへともたらされています。主イエスは、地上の王たちが支配する現実の中で、主こそ真の王であることを受け容れ、神さまのもとに立ち返り、そのご支配の中で日々の生活を築いてゆきなさいと呼び掛けられました。
ただ、神さまのご支配と言われても、天の国がどのようなものなのかなかなか掴みづらいところがあります。そこで主イエスは様々な譬えを用いて人々に天の国を語られました。今日の箇所でも、葡萄園を所有する家の主人に、天の国が、言い換えれば神さまが、譬えられています。主人は葡萄園に、多くの働き手を求め続けます。当時の葡萄園の作業は、小さな規模のものを除いて、日雇いの労働者によって担われていたことが背景の一つにあるのでしょう。主人は朝早くから夕方まで何度も雇った働き手たちに、最後に雇った者から順に、同じ額の報酬を与えたという話です。ストーリー自体は分かりやすいのですが、すんなりと受け入れられるようなものではありません。主が望んでおられるようにこの話を受け止めるために、この話がどのような流れの中で語られたのか、振り返ってみます。
この話の前に、二つの出来事が続いて語られています。最初の出来事では弟子たちが、主イエスに手を置いていただこうと子どもたちを連れてきた人々を叱ります。子どもたちの幼さは、主イエスのお話しを聞くにも、主イエスから手を置くと言う恵みをいただくにも不十分だと、そう退けたのでしょう。その弟子たちに主イエスは「子どもたちをそのままにしておきなさい。天の国はこのような者たちのものである」と言われました。弟子たちが思うような子どもたちの側の相応しさのある無しによって、主イエスのおそばに居ること、主イエスから手を置いていただく資格が量られるのではありません。それどころか、ただ受けることしかできない子どもたちこそ、天の国の民なのだと告げられたのです。
続いて裕福な青年が主イエスの所にやって来ます。この青年とのやり取りを通して、当時一般には神さまからの祝福とみなされていたこの青年の豊かな財産も、律法に定められた行いを実行してきたこの人の実績も、神の国に入る救い、この青年が望む永遠の命を得るという救いを可能とするのではないことが告げられます。これを聞いて非常に驚く弟子たちに、人にはできないが、神さまはこの救いを与えることがおできになると語られます。しかしペトロは、自分たちは何もかも捨ててあなたに従ったのだと、誰よりも多く捧げて来た自分たちはどれだけの報いをいただけるのかと主に迫ります。主は、新しい世界になり、人の子が栄光の座に着く時、イスラエルの12部族を裁く12の座を与えると言われ、主の名のために大切なものを捨てた者は皆、その100倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐと言われます。その上で「しかし」とこう続けます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と。この後に今日の箇所が語られます。今日の箇所の冒頭には、聖書協会共同訳や新共同訳には訳出されていませんが、「なぜなら」という意味の言葉があります。これまでのことを受けるようにして、今日の譬えを主イエスは語られるのです。
弟子たちや裕福な青年は、自分が為して来た善い行動の積み重ねや、自分が持つ神さまからの祝福と思うものが、自分を成り立たせていると思っています。他者に優るそれらによって、主が語られる天の国というところで自分は他者に優る席を得られると期待しています。確かにそれは望ましい評価とも言えます。この世界を見渡すまでもなく、良いことを地道に積み重ね、労苦や不利益を被ることも厭わずに他者のためにと頑張って来た人が、それにふさわしい報いを受けられない現実がそこかしこにあります。だからこそ、神さまならば良い行いにふさわしく報いてくださるはずだと、そうしてくださいと、彼らだけでなく私たちも、祈り願っているのではないでしょうか。
主イエスも、善い行いに報いることを決して否定しておられません。今日の箇所の直前で、“主の名のために、大切なものを捨てた者は皆、その100倍もの報いを受ける”と言われています。主の名のために、言い換えれば、世で他者を支配するために力を振りかざす者たちではなく真の王のために、自分の時間や労力を犠牲にしても他者に仕える人が大きな報いを受けることを、主も望んでおられます。その上で、19:30で「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」のだと、神さまのご支配はそこに留まらないのだと告げられます。そのことが、今日の譬えによって更に語られるのです。
この家の主人は、自分の葡萄園で働く人を求めて、夜が明けた途端に出かけます。譬え話の後半には管理人が登場しますので、管理人も置くことができる、決して小規模ではない葡萄園が思い浮かびます。誰かを遣わして働き手を探させることもできるのに、主人自ら出かけてゆきます。
労働の時間は、日の出から始まる社会です。雇われたい人々がその時間、町の広場などで雇い主が現れるのを待っていたことでしょう。その人々に主人は1日につき1デナリオンという報酬を提示し、人々は同意します。1デナリオンは当時の労働者の普通の1日分の賃金だと言われます。当時のある書物には、一人当たり年に200デナリオンが生存のための最低限度と記されているそうです。1デナリオンで年に200日働けば生活してゆけるという額となりますから、1デナリオンは、労働者が不満を覚えるような額では決してないはずです。譬えの労働者たちも、主人に直ぐに同意して葡萄園に向かいます。
主人はその後も働き手を求めて何度も町に出てゆきます。譬え話を聞く弟子たちは、9時に主人が探しにゆくことを聞いて、9時にもまた雇いに行くのかと思ったかもしれません。12時に行ったと聞くと、それは雇うには遅すぎるのではと抵抗を覚えたかもしれません。3時となると、流石に雇ったところで数時間しか働けないではないのに、そのようなことがあるだろうかと思ったかもしれません。最後の5時までくると、それでは働けて1時間あるかないかではないかと、非常に驚いたことでしょう。
主人が探しに行く間隔も聞く者に驚きを与えます。二度目以降、9時、12時、3時と、3時間ごとに出かけてゆきますが、最後は3時間経っていない2時間後の5時に出てゆきます。6時になってしまうと、日が暮れて働けなくなってしまうことでしょう。ぎりぎりまで働く人を何とか見つけたいと願う主人の熱意が伝わってくるようです。
最初の夜明けのグループには主人から報酬の額が伝えられましたが、それ以降は具体的に示されません。二度目のグループには「それなりの」と告げられます。「公正な」という意味の言葉です。聖書において神さまの義さを表わす時、また信仰によって私たちが神さまから与えられる義さを表す時にも用いられる言葉です。主人が正しいとする額を約束し、労働者たちは主人に信頼して葡萄園に行きます。三度目、四度目の人々も「同様に」雇ったと短く述べられます。最後のグループについては、報酬のことはもはや何も述べられません。主人はなぜ「何もしないで一日中ここに立っているのか」と問い、それに対して「誰も雇ってくれないのです」と人々は応えます。その場に一日中立ちながら働く場を得られなかった人々とはどのような人たちなのか、彼らはどのような思いでその一日を過ごしてきたのか、考えさせられるようなやり取りです。一日の労働時間がほぼ終わりかけているこの時間に雇ってくれる主人に、報酬について具体的な説明を求めるよりも、働けることをただ喜んで葡萄園に行くのではないでしょうか。結局、報酬の額を示され、同意したのは最初のグループだけです。後になればなるほど、働きの機会を与えられたことへの感謝と、自分をこの時間にもかかわらず雇ってくれることへの驚きを抱きつつ、葡萄園に向かったことでしょう。
報酬を手にする喜びが、最後の5時のグループから与えられたこと、彼らに1デナリオンが与えられたことにも、驚きを覚えるのではないでしょうか。そして、朝一番に働き始めたグループに至るまで、全ての人に同じ1デナリオンが払われたことを知ります。他のグループよりも長い時間、炎天下で働き続けてきたのに、見返りが他のグループと同じ額であるのはおかしいと不平を言う彼らの思いと言葉を、尤もだと思います。自分の心の中にくすぶっていた、自分であれ、自分がその苦労を良く知る誰かであれ、納得のいかなかった記憶がよみがえり、自分をこのグループに重ねるように、彼らの不平を聞くかもしれません。自分たちこそ誰よりも先に主イエスに従い、そのために家族や地元の人々との生活も、生業としていたものも、全て捧げたのだと主張した弟子たちも、この不平に自分を重ねながら主の譬え話を聞いたのではないでしょうか。自分を成り立たせているのは自分の善い行いである、善い行いが天の国で良い席を自分に確保する、そう自分を見ている弟子たちに、主イエスは19:30節で語られたのと同じように再び、「後にいる者が先になり、先に居る者が後になる」と語られたのです。
私たちが葡萄園の働き手であるとするなら、私たちの目は、自分の後に来た人々のことは見えることでしょう。自分よりもどれだけ後に来たか。どれだけの仕事をしたのか、よく見えるでしょう。しかし、自分の前の人々については、よほど自分で見ようとしない限り、その人々がどれだけ長い時間、どんなに多くの労苦を重ねてきたのか、見えてはきません。葡萄園の主人である神さまは、全ての人のことを、その善い行いも含め見ておられます。私たちが働きを主のために捧げたのか、それとも人から良く思われるため、利益のため、自己実現のため、自己研鑽のためといった、自分のために為したことなのか、内なる思いも全てご存知です。そのお方が、働きに対する見返りとしてではなく、私たちの一日を支えるのに十分な恵みを与えることを願って、与えてくださるのが1デナリオンです。この神さまに、私たちの善い働きや義さは、もっといただいても良いはずだと言うのは、的を得た不平なのでしょうか。
日の出から日が暮れる直前まで、行ったり来たりを繰り替えしながら働き手を求め続け、一人一人に声をかけ続けた主人のように、神さまは私たちを招いてくださいます。“私のもとに来なさい、他の地上の王たちの畑ではなく、私の葡萄畑に来て、豊かな実りを生み出す天の働きにあなたも加わりなさい”、そう一人一人を招いておられることを、私たちは日々、そして特に礼拝において知るのです。15節の「私の気前のよさを妬むのか」という主人の言葉は、直訳すると「私が善い者だから、あなたの目は悪いのか」となります。この箇所について述べる多くの人が、同じこのマタイによる福音書の6章で、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い」と言われた主イエスの言葉を思い起こしています。神さまの義さを見つめる人の目は澄んでゆき、その人の存在丸ごとに明るさが伴います。勿論、私たちの日々は喜びばかりではなく、労苦や悲しみが消えることはなく、私たちには自分を救う力も他者を救う力もありません。ただ神さまだけが救うことがおできになります。その神さまの義さに堅く信頼する人の発する言葉や行動、あり方や生き方が、神さまの栄光の光を映し出すように、明るさを帯びてゆきます。しかし神さまの義を見つめることのできない、濁った悪い目で見るならば、その人の全身も暗いのだと言われます。
譬えの主人は、報酬に不平を言う者、そしてその背後で心の内に不満を募らせている全ての人に対して「友よ」と呼びかけ、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか」と問います。人の側のふさわしさによってではなく、神さまの自由の内に、神さまの定められた順に、恵みを与えてくださる神さまの義を、あなたは澄んだ目で見ているのか、それとも濁りに遮られて見えなくなっているのか、そう問いかけます。労働者たちが主人の最後の問いにどう答えたのか触れることなく、主は譬え話を終えています。その問いに答えるのは、この譬えを聞く一人一人なのだ、あなた自身なのだと、言われているような結びです。
神さまはご自身である独り子を、罪にひきずられている私たちに与えてくださいました。み子は、私たちの罪の赦しを得るために、ご自分の生涯も命も十字架において捧げてくださいました。神さまはみ子の命の値によって、永遠の命という確かな慈しみを約束され、天の国へと招いておられます。神さまが与えてくださるこの救いという恵みは一つです。同じ一つの救いを、私たちのふさわしさによってではなく、憐れみのみ心とその全能のお力によって与えてくださるのです。
主のみ前では私たちは自分を、夕方5時にようやく招きを受け止めることができ、そこから数多の信仰の先達の後ろについて主のお働きに加わった者たちの中に見出すかもしれません。あるいは、長いこと神さまの元にありながら、いただいている恵みを見る目が塞がれてきた、朝一番組の中に見出すかもしれません。神さまの義さに気づくことへと導いてくださるのは、主のみ言葉と聖霊です。預言者イザヤも、その時代に、飢え乾きを満たさず、いのちを与えない糧を、少しでも多くこの手に掴もうとさまよっていた人々に「私によく聞き従い/よいものを食べよ。そうすれば、あなたがたの魂は/豊かさを楽しむだろう」と語りました。終わりのない他者との比較に明け暮れるよりも、納得する見返りを求め続ける魂の飢え乾きの危機の中でうずくまっているよりも、神さまのもとで、神さまの豊かな恵みに満たされることへと、神さまが招いておられます。私たちの一日一日を、同じように招かれている人々と共に、互いの違いを超えて神さまのお働きに捧げる道が与えられています。