· 

天からの慰め

「天からの慰め」イザヤ6110623、ルカ22235

202515日(左近深恵子)

 

 マリアとヨセフは、婚約はしていたものの、夫婦として生活を始める準備はまだまだ道半ばであった時、神のみ子が与えられることを、み使いや夢を通して、神さまから告げられました。これから自分たちが築いてゆこうとしている家庭に、神さまが託してくださるみ業を受け入れることへと背中を押され、二人で共に備え、とうとうみ子が誕生しました。2人は、神さまの言葉に加え、人々との出会いを通して、この出来事を受け止めてゆきます。マリアは、やはり神さまのご計画とお力によって、高齢ながら子を宿したエリサベトと共に神さまを讃えました。み子がお生まれになった晩には、羊飼いたちがみ子を探してやって来ました。東方の国から、異邦人の学者たちまでやって来ました。王宮で王の子として産声を上げたわけでは無く、両親は飼い葉桶の他寝かせる場所を見出せないような世の片隅でお生まれになったみ子を、羊飼いや学者は探し出し、跪き、拝みました。学者たちは彼らの国から携えて来た貴重な品々をみ子に捧げました。マリアとヨセフは、自分たちに与えられた幼子がどんなに特別な方であるのか、自分たちの人生に思いもよらずもたらされた出来事がどんなに特別なみ業であるのか、二人の側にその特別さを受けるふさわしさがあったからではなく、ただ神さまが恵みによって与えてくださっているのであり、神さまがこの特別なみ業を担うことへと二人を導いてくださっていることを、驚き、戸惑いつつも、より深く受け止めていったことでしょう。

 

そのマリアとヨセフが、幼子を迎えた家族として行った、聖書が伝える最初のこととは、当時のユダヤの親たちと同様に、律法を守ることでありました。出産後の母と生まれて来た初子の男子について律法に定められていることを守り行うために、神殿へとみ子を連れて行ったのです。律法は、人として生きることができず、神さまを礼拝する自由を失っていた民を神さまが救い出され、ご自分の民とされ、このように生きて行きなさいと与えてくださったものです。二人はその律法を守り、神さまに感謝しつつ、神さまにお応えする道を、幼子と共に歩み始めようとしています。そのために、エルサレムまでやって来ました。エルサレムの神殿は、神さまが臨在されることを約束されたところです。二人は律法が定める祭儀を、そのエルサレムの神殿において守ることを願っています。特別な使命を担っていく自分たち家族の一歩は、神さまがなさってこられた救いのみ業と、民と共におられるとの神さまの約束の場で、神さまにお応えするところから始めようとしています。そうせずには神さまから委ねられた特別な使命を担ってはゆけないとの思いもあったかもしれません。信仰によるこの二人の行動が、シメオンとの出会いに繋がっていくのです。

 

 シメオンも、人生の土台を神さまのご意志と、神さまの約束に据えてきた人でした。「主よ、今こそあなたはお言葉通り この僕を安らかに去らせてくださいます」との言葉は死を見つめながらのものであると思われます。そのことから、シメオンは高齢であったと教会は伝統的に考えてきました。この後に登場するアンナという女性の預言者についてははっきりと「非常に年を取ってい」たと記されていることも、一緒に登場するシメオンも高齢であったとの考えを後押ししてきたのでしょう。その上で、高齢であることばかりが、死を考える理由でないとも思うのです。壮年であっても、若者であっても、生きづらさの中で毎日毎日、長い一日を必死に送るということがあります。若くても、何らかの理由で、死を絶えず身近に思わざるを得ないような状況の中にある人々もいます。死の力は、若い人には一層酷い仕方で、生きている時間を浸食してゆきます。ルカによる福音書では、クリスマスの出来事の初めにおいて、ザカリアとエリサベトと言う、子どもが無いまま高齢となっていた夫婦が最初のその報せを受けたこと、そしてクリスマスの出来事の結びとも言える今日の箇所においては、シメオンと高齢の預言者アンナがみ子とお会いできたことを感謝し、神さまを讃美し、み子のことを人々に告げ知らせたことを伝えています。神さまが人となられたクリスマスの始まりと結びで、死を見つめる4人の人生が語られます。自分の命の時間から大切なものを奪ってゆく死の力をひしひしと感じながら、神さまの約束の実現を待ち望んできた4人が、救い主が到来されるクリスマスにおいて、大切な役割を与えられ、彼らが力強くその役割を担ったことを、聖書は一人一人の名を記しながら伝えています。

 

 ユダヤの民にとって、律法に定められている祭儀のために生まれた子を抱いて神殿に行くと、迎えてくれるのは祭司たちです。しかし祭司ではないシメオンも、主イエスを迎えることができたのは、聖霊のお働きによりました。シメオンがたまたまそこに居たからではなく、シメオンにこの先起こることを見抜く特別な力があったからでもなく、神さまの導きによりました。神さまはそれまでも、シメオンと共におられました。「シメオンは正しい人で信仰があつく」とありますので、シメオンが律法に示された神さまのご意志にお応えする日々を心から願う人であったことが分かります。「神の民イスラエルが慰められることを待ち望み」ともあります。シメオンの、与えられている時を信仰に生きる日々と、神さまの民に神さまの救いがもたらされ、慰めが実現することを待ち望むこころを、神さまは支えてこられたのでしょう。そして主イエスがマリアとヨセフによって主に捧げられるこの日、その時、神さまはシメオンを神殿へと導かれ、マリアとヨセフに抱かれた幼子がどなたであるのか示してくださいました。その幼子を自分の腕に抱き、小さなか弱い体温を感じながら、待ち望んでいた神さまの救いがこうして民の中に宿られた現実を、大切に抱いたことでしょう。聖霊のお働きに導かれて、シメオンは神さまをほめたたえる言葉も紡ぎました。この幼子こそイスラエルの慰めであると、この方が全ての人の前に神さまがもたらしてくださっている救いであり、イスラエルも異邦人も照らす神さまの栄光の光であると告げました。

 

 シメオンがその日まで待ち望んできた慰めは、私たちを含め人が思い描くような慰めではありません。人が慰めとして期待するようなものであったなら、他のユダヤの家族たちと同じように神殿に連れて来られた主イエスに、救いを見て取ることはできないでしょう。外目には際立つものの無い家族です。そして主イエスはやがてこのエルサレムでご自分の民ユダヤの指導者たちにお働きと存在を退けられ、異邦人の手に引き渡され、人々にも見捨てられ、異邦人の支配者も保身のために死刑に加担し、殺されてしまいます。この主イエスを聖霊によってシメオンは見出し、この目であなたの救いを見たと喜んだのです。

 

生きている間だけ有効な、一時的な気休めや気晴らしとも言える慰めを期待していたなら、シメオンはマリアとヨセフを心から祝福することもできなかったでしょう。祝福の言葉に続けて、マリアに向かって、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現われるためです」と言うことなど、到底できなかったでしょう。やがて福音を宣べ伝え始められた主との出会いを与えられた人々は、主の招きに応えて主に従うのか、そうでないのか、応答を求められます。み言葉によって古い自分が倒され、その所から新たに立ち上がることへと導かれる者もいれば、主イエスが語られる福音を福音と受け止めず、主に背を向け、主イエスもそのみ言葉も否定する者もいます。気休めのような慰めを主イエスに期待した者たちは当初は主イエスを大歓迎しますが、次第に期待通りでは無かったと主イエスを退け、その流れは勢いを増し、マリアはやがてこのエルサレムの都で、我が子イエスがそれまでの働きも骨折りも退けられたまま、死刑判決を受け、十字架に架けられ、犯罪人の間で死んでゆかれるのを目の当たりにすることになります。そこまでシメオンが見通すことができていたかどうかは分かりませんが、この幼子がこれから背負うことになるものによって、マリアが深く傷つき悲しむことを、聖霊に導かれて見て取っていたことが、シメオンの言葉から伝わってきます。人が求める慰めは、主イエスによって人の思いが露わになること、その結果人々が主イエスに抗い、主イエスを殺してまでもその存在と命を自分たちの中から取り除こうとすること、露わになった人々の闇が我が子に向かってゆく様にマリアが傷つき悲しむことを、ただ忌むべきことだと、起こらない方が良いことだとしてしまうでしょう。私たちが求める慰めも、自分の思いが露わになること、誰かの露わになった思いを突き付けられること、誰かがそのために傷付くことを、視野に入れようとはしないでしょう。けれど私たちの奥底にあるのは、私たちが見たいような、他者を慮ることのできる私たちの思いだけでありません。災害や争いが起こると、私たちが内に潜めていたものが時に明らかな仕方で、時に透けて見えるような仕方で、露わになることを私たちは知っているのではないでしょうか。自分を大切に思うように、他者や隣人を大切に思う生き方は、神さまから自分に注がれている慈しみが土台にあって、その慈しみから受ける力に押し出されて、私たち自身が自ら求めることができるものとなります。マリアを傷つけ悲しませ、マリアの魂さえも貫く剣は、私たちの奥底にある闇でもあります。その剣に、マリアよりも深く、絶え間なく、主イエスはその生涯を通して貫かれ、苦しみ悲しみながら、その道を死に至るまで歩み通されました。全ての人が内なる闇にではなく神さまを自分の主とし、神さまに立ち帰り、神さまの恵みによって新たに立ち上がる者となるように、ご自分の生涯と命を救いのみ業に捧げてくださるこの方こそ、真の慰めであるのです。

 

 「シメオンの讃歌」と呼ばれる2232節の歌で、シメオンは、預言者イザヤの言葉を多く用いて救いを言い表しています。3132節の言葉も、イザヤ書62章の言葉を思わせます。イザヤ書56章以降は、先週も触れましたように、バビロニア捕囚から帰還した民が、エルサレム神殿の再建を始めたものの、頓挫してしまっている時代です。帰還して20年ほどが経過しているとも言われます。しかしかつて破壊し尽くされ瓦礫と化したエルサレムの都はなおも荒れて、廃れたままです。エルサレムの状態は悪く、周辺の民との関係は問題多く、人々の暮らしは楽ではなく、エルサレムの人々は神殿の再建に心を注ぐことも、そこに喜びを見出すこともできずにいました。イザヤ書56章以降でその働きが伝えられる預言者は、そのような自分の暮らし以外のことに目を向ける力を失ってしまっている人々を救うために、神さまが立て、遣わした人物であることが、61章において述べられています。預言者は、苦しむ人に良い知らせを伝え、希望を与え、嘆く人に、嘆きの代わりに喜びを授けるために、主なる神が自分を遣わされたのだと述べています。神さまは人々に祝福の冠と衣を纏わせ、民を主が栄光を現すために植えてくださり、民は神さまの義の大木となると告げます。エルサレムの人々はかつて、神の民でありながら、神さまではない者を自分たちが生き残る拠り所としました。その結果都は滅ぼされ、神殿も廃墟と化し、主だった民は異国の地に捕囚として連れ去られました。周辺の民は滅びてゆく彼らを、エルサレムの民の神は居ないのだ、居ても無力なのだ、民を見捨てたのだと見做してきました。しかし預言者は、「私」という言い方で神の民を代表しながら、神さまは私を救いの衣で包んでくださると、神さまの正義と賛美を全ての国々の前で芽吹かせてくださると、見る人は皆、これこそ主が祝福された民であると認めるようになると語ります。神の民の側には何もふさわしさがないのに、ただ神さまのお力によって成し遂げられるのです。

 

こうして預言者は、国々の前で明らかになり、あらゆる民を神の民を通して救いへと招く神さまを、踊り出しそうなほどの喜びと希望に溢れて讃美します。62章では、絶望へと引きずりこむ誘惑から、神さまの元へと人々を導く為に、「私は口を閉ざさず」「私は沈黙しない」と断言します。未来に神さまがもたらしてくださる救いがあるから、預言者はこう断言することができます。光のような、松明の火のような神さまの義と救いが到来し、地上のあらゆる民も、あらゆる王も、神さまの栄光の輝きを見ることになるとの確信が、預言者の言葉に力を与えています。神の民は主が定められた新しい名前で呼ばれるようになります。名前が変わることは、その人の本質が変わること、その人が神さまが本来与えてくださっている本質を回復することを表します。神さまのみ手の中で冠となると、み手の上で王冠となると言われます。闇が消え去るとは言われていません。闇の中にあっても、神さまのみ手の業の中で神の民は闇を貫く神さまの義の光を映し出す者となります。大きな波のように私たちを呑み込もうとする諦めや絶望の中でも、神さまという土台の上で、燃え続ける松明の炎のような神さまの救いに新たに精錬され続ける者となります。イエス・キリストによってこの救いが、私たちにもたらされているのです。

 

 

 シメオンは、自分の人生の終わりを見据えながら、聖霊に導かれて、人の罪も死も打ち破る救いをもたらす方にお会いすることができたから、「私はこの目であなたの救いを見た」と言うことができました。やがてシメオンに死の時が迫り、死がシメオンの人生に幕を降ろそうとする、死がシメオンの体から力を奪ってゆく中でも、シメオンはもはや声に出すことはできなくても、主に向かって「私はこの目であなたの救いを見た」と心の内に言い、死が断ち切ることのできない神様の救いに委ねることができただろうと、思わされます。そしてシメオンが味わうことができたこの幸いは、私たちが死を見据える時にも、それまでのどのような時にも、私たちにも与えられていることを、思わされます。