「すべての人の王」イザヤ56:1~8、マタイ2:1~12
2024年12月29日(クリスマス後Ⅰ・左近深恵子)
先週は教会の礼拝でクリスマスをお祝いしました。日曜日のクリスマス礼拝と24日のイブ礼拝で、私たちが神さまから与えられているクリスマスの恵みの深遠さに、新たに触れることができたことで、それから足取りが軽くなったような思いがしています。自分が置かれているところ、進む足元が、進みやすい平たんで真っ直ぐな道だから、足取りが軽いのでは決してありません。私たちにとって先週は、年の瀬の慌ただしさも増した週であったでしょう。幾つもの感染症が同時に流行しており、自分や周りの人々の健康への不安は切実です。先週、親しい方を送られ、悲しみの中にある方もいます。私たちがそれぞれに抱えている問題もあります。この社会や世界も多くの問題を抱えています。深刻で悲惨な多くの問題の中で、改善される見通しが立っているものがどれだけあるでしょうか。もっと早くに改善し、解決していなければならない問題に今なお苦しめられ、当たり前の生活や健康や未来が危機に直面している人々が大勢おられることに、私たちは胸を痛めてきました。私たちの足どりを重くするものに私たちは囲まれながらも、クリスマスの恵みに光を与えられ、一歩一歩を力づけられています。神さまの独り子が私たちの間に宿られ、今も私たちと共におられるから、共にキリストを礼拝することのできる神の家族が与えられているから、私たちの内側に力が足りなくても、恐れることはありません。私たちを取り巻く困難さが私たちの歩みを重たくさせ、弱らせても、それらは私たちの全てを支配することはできません。クリスマスの恵みが私たちの一歩一歩を押し出すエンジンとなり、足元ばかりで見るのではなく、天を仰ぐ信仰の姿勢を力づけています。
クリスマスの晩にキリストが降られたところも、問題を多々抱えていました。マタイによる福音書は、クリスマスの出来事を、「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とだけ述べます。元の文では、「ユダヤの」という言葉に重きが置かれています。救い主がベツレヘムでお生まれになることは、今日の箇所の6節でミカ書やサムエル記から引用されていますように、旧約聖書を通して神の民に知られていました。ベツレヘムがユダヤにあることも、知られていたことでしょう。それでも「ベツレヘム」とだけ記すのでなく、「ユダヤのベツレヘム」と記します。神さまが約束された救い主がお生まれになったのは、ユダヤの地であると、聞き手に確認を促すように記します。
主イエスがユダヤの地でお生まれになった後、一家はエジプトに逃れたことをこの福音書は続けて伝えます。それはこの地の王ヘロデに主イエスが命を狙われたからでありました。そしてユダヤは、やがて主イエスが殺される地となります。ご自分の民の指導者たちが、主イエスの存在とお働きを自分たちの中から取り除こうと、死に引き渡すのです。福音書がここで記す「ユダヤ」とは、単なる地名ではなく、この先主イエスが受けられる苦しみと死の地であり、それを主イエスに負わせる王や民の住まう地であります。そのユダヤに、神さまは約束の救い主を降らせてくださったのです。
主イエスがお生まれになったのは、そのユダヤの地をヘロデという王が支配していた時代であったことも、福音書は述べます。ユダヤの王たちがそうであったように、ヘロデも神の民の都エルサレムを拠点としていました。ヘロデがエルサレムの住民から支持されていなかったことは、色々な資料から明らかです。ヘロデは血筋で言えば純粋なユダヤ人ではありません。そのヘロデが王の地位を手に入れられたのは、当時ユダヤや周辺の地域を実質的に支配していたローマ帝国に上手く取り入り、信用を勝ち取ったからでした。しかしローマの傀儡政権の一つに過ぎないヘロデの地位は、ローマの思惑一つでいつでも奪われかねない不安定なものです。ヘロデは王としての地位を守るためには親族すら殺すことを厭わない者です。自分のやり方に異議を唱える者を全て処刑し、自分の地位を脅かす者、脅かしかねない者も殺してしまいました。幾度か起こったヘロデ暗殺の企ても未遂に終わらせました。このヘロデ王の時代に、主イエスはお生まれになったのです。
神さまは、主イエスの誕生を東方の博士たちに知らせておられたことを、マタイによる福音書は伝えます。博士たちが星によってどのようにユダヤ人の王が生まれたと知ることができたのか、福音書は何も伝えません。伝えるのは博士たちの目的だけです。その方を探し出し、拝むためであると。それは福音書の最初の聞き手たちにとって、驚きであったことでしょう。博士たちが属する東方の国がどこであるのかは分かりませんが、ユダヤの民にとって東方は、アッシリア帝国やバビロニア帝国といった、強大な国が次々と興ってきた地です。軍事的にも経済的にも進んでいる大国が台頭しては、ユダヤもあるパレスティナの地域へと攻め込んで来ました。博士たちはそのような東方の国の社会で、エリートの層に属していたと言って良いでしょう。先進国であり大国である自国で、今手にしているものの中に安住していることもできるのに、それが常識的な判断だと多くの人が思うはずなのに、博士たちはローマ帝国に支配されている国の生まれたばかりの王に跪くために、高価な贈り物を携えてやって来たのです。
この博士たちがどのような人々であったのか、明らかになっていません。「博士」と訳された言葉は、もともとはペルシャの祭司階級に属する人々の総称でありました。その後、新約聖書の時代の頃には、東方の神学や哲学、自然科学などに通じた学者を意味するようになっていました。星によってユダヤ人の王の誕生を知ったことから、聖書において占星術の学者とも訳されてきました。魔術師と訳されることもあり、使徒言行録ではこの言葉はそのように訳されています。日本語にすると一つ一つの訳によってイメージが異なってきますが、学者、占星術師、魔術師という役割は私たちのイメージよりも曖昧で、その境は流動的だったそうです。確かなことは、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に至るまで、この言葉は基本的に否定的に用いられてきたということです。星占いは神さまに背く忌むべき行為とされてきました。使徒言行録に登場する魔術師たちは、パウロとその一行の活動を妨害しています。否定したいのだけれど、東方からも他の地域からも、占星術がユダヤの地域にも流れ込んできます。天体を神として崇めない神の民の方が、少数者と言えます。占星術の影響も、占星術を評価する傾向も、内側から全て取り除くことができないのが神の民の実情です。神の民に忌み嫌われてきた人々に、神さまが星を通して主イエスの誕生を知らせたのだとこの福音書は伝えます。博士たちは星によってユダヤ人の王の誕生を知りましたが、どこにお生まれになったのかまでは星によって知ることはできません。王であれば都の王宮でお生まれになったはずだと、彼らはエルサレムにやって来ます。こうして、ヘロデという、一時的に王座を手に入れている、真のユダヤ人の王ではない者と、ユダヤ人の王を探す博士たちが、対峙することになりました。
これは、多くの人の命と人生を踏み台にして王の地位にまでのし上がって来て、その地位と権力にしがみ付いているヘロデと、真の王を探す異邦人の学者たちの対決です。真の王とは、ヘロデとは全く対照的に、ご自分をローマ帝国に引き渡す者たちが待ち受けるエルサレムへと進まれ、人々の罪を贖うためにご自分の命を十字架にお捧げになる方であります。
王を探す学者たちの行く手に立ちはだかるのは、ヘロデだけではありません。ヘロデは幾度も暗殺されかけたほど、人々から指示されていない王です。東方の博士たちの来訪は、人々に、ヘロデに代わる新しい王の到来という喜ばしい知らせをもたらしたと言えるはずですが、エルサレムの人々はヘロデ同様、狼狽えます。ヘロデは招集した祭司長や律法学者たちに、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問うています。つまりヘロデは、お生まれになったのは、自分の座を奪って王になるかもしれない人物というだけでなく、メシアであることに気づいていたということです。ヘロデはメシアの到来を待ってなどいなかったかもしれませんが、人々は待ち望んでいたはずです。しかし人々は、今、自分の日々の中に救い主が到来することを受け入れる備えがありません。ヘロデに支配された現実に妥協し、自分でその生き方を正しいのだとしてきた日々を神さまに変えられたくないのかもしれません。3節の「人々も皆、同様であった」という表現は、ヘロデとエルサレムの人々が自分たちの中に救い主を受け入れようとしないことにおいて全く一つであったことを示します。後に主イエスはこの都で不当に逮捕され、拷問され、裁判にかけられます。主イエスを「死刑にすべきだ」と口々に言い、主イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打って嘲る人々の姿が、主イエスがお生まれになったこの時、救い主を拒む人々の姿に透けて見えるようであります。神の民でありながら、神さまではなくヘロデを、あるいは自分自身を王としてしまっている人々も、真の王を探す博士たちの前に立ちはだかるのです。
ヘロデは祭司長や律法学者たちを問いただし、預言者の言葉からメシアがどこにお生まれになるのか知ります。本来神の民の礼拝を司り、彼らを神様の元へと導く務めを担っていたはずの祭司長や律法学者たちは、救い主を殺そうとしているヘロデの共犯者となってゆきます。ヘロデは聞きだした聖書の言葉を学者たちに伝え、後で自分の所に戻ってくるようにと、自分も拝みたいからと言います。学者たちを上手く嵌めたつもりのヘロデと、祭司長や律法学者たちの聖書の知識を通して、学者たちは神さまのみ言葉に触れます。星だけでは救い主を探し出せない学者たちを救い主のところまで導いたのは、神さまの言葉でした。地位を保つためには親族の命さえも奪うヘロデの権力と策略が救い主の命を狙うこの地で、学者たちに救い主と見えることを実現させてくださったのは、預言者たちに救いの約束を託され、世の歴史を貫いて救いのみ業を推し進めてこられ、ヘロデの策略さえも呑み込み、み言葉を伝える者とされた神さまであるのです。
学者たちはキリストのみ前に進み出て、跪き、拝み、宝の箱の蓋を開け、彼らが携えて来た、彼らにできる最大のささげものを主に捧げました。今日の箇所には三度、「拝む」という同じ言葉が出てきます。一つ目は学者たちの願いとして、二つ目はヘロデが学者たちを騙すために付いた嘘として、三つ目は学者たちがとうとうキリストを礼拝したことを伝える言葉として登場します。自分たちの地位や暮らしに安住するよりも、真の王を礼拝する人生を願って踏み出した学者たちが、ヘロデの嘘や策略という困難を潜り抜けて、とうとう真の王のみ前にひれ伏すことへと至ります。この後、主イエスの助けを求める人々や、復活の主にお会いした弟子たちが、この「拝む」という言葉によって主にひれ伏します。その人々の礼拝の先頭に、神さまの招きに信頼して救い主を探し求め続けた異邦人たちの礼拝があるのです。
それから神さまは、夢において学者たちに取るべき道を示してくださいました。神さまが遣わされた王が自分の支配の中に入ってくることを阻止しようとする地上の王の策略から、神さまは学者たちを守ってくださいました。学者たちは、ユダヤ人の王として救い主をお与えになった神さまは、ヘロデの策略も、ユダヤ人と自分たち異邦人の間にある壁も超えて、自分たちと共にいてくださり、導いてくださる方であると、喜びを与えられて、帰途に就いたことでしょう。この博士たちの姿は、預言者たちを通して神さまが告げてこられた終わりの時の場景と重なります。先ほど共にお聞きしましたイザヤ書56章も、主なる神は追い散らされたご自分の民を、神さまの家に集めてくださると、全ての民が捧げ物を携えて主の元へと集まって来て、神さまの家で喜びに満たされると告げています。
この預言が告げられた時代も、神の民は困難の中にありました。バビロニア捕囚から解放されて、エルサレムの都に戻ってから20年ほど経った時と考えられています。破壊され廃墟となっていた都の再建が着手され、捕囚の間は叶わなかった、神殿で神さまを礼拝することも始められました。けれど、捕囚の時に預言者を通して告げられた神さまの言葉が示す、栄光に満ちた、素晴らしい帰郷の約束は、今の自分たちの状態からほど遠いものに思えます。都の再建も共同体の再建も、先の見えない困難な道のりであり、見えてくるのは、踏み出そうとする思いを挫けさせるような現実です。その民に主なる神は預言者を通して、公正を守り、正義を行えと呼び掛けます。自分たちに都合の良い状態を守るのではなく、主が与えてくださった秩序に今一度立ち返り、主のみ心にかなった状態を作り出し、保つために行動せよと、主の救いが到来し、主の正義が現れる時は近いのだからと言われます。主に立ち返り、主のみ心にかなった状態を作り出す最大の行動とは、安息日を守り、これを汚さないことなのだと続けて語られます。主なる神だけを神とし、神さまを礼拝することを日々の生活の核とするのです。地上の王たちの力や保身のための策略によってこの核が脅かされてはならないのです。自分が自分の王でありたい自分の思いによって、この核が汚されてはならないのです。主を礼拝し、主に喜ばれるあり方を守り、主の契約を固く守る人、主に仕え、主の名を愛し、その僕となる人は、異国の民であろうと、神さまの聖なる山に導かれ、祈りの家で喜びに満たされると告げます。神の民の血筋に生まれようと異教の地に生まれようと、共に祈り、共に神さまを礼拝することへと、神さまによって皆招かれています。周囲には都の再建を阻もうとする勢力が機会をうかがい、自分たちの手の業は一向に目に見える成果を生み出さないように見える現実の中にある人々に、神さまは、私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。私の祈りの家で、私が喜ばせようと約束してくださっています。そしてクリスマスの晩に、神のみ子、イエス・キリストをユダヤの地に与えてくださいました。大人になられ、福音を宣べ伝えるお働きを始められた主イエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」でありました。ご自分に従うようにと、一人一人に呼びかけ、招かれました。このキリストにお応えし、東方の学者たちと、全てのキリストの弟子たちの後に続くように、主を礼拝し、主からの喜びに与かり、主によって世へと遣わされる旅路を歩んでゆきたいと願います。