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2024クリスマス「魂潤う園のように」

魂潤う園のように

2024年クリスマス礼拝

エレミヤ31:817、マタイ2118 

左近 豊

 「その魂は潤う園のようになる」(新共同訳 エレミヤ31:12。ホセア14:58、イザヤ58:11も参照)。彼らの命は水湧く泉の園となる、この言葉を聞きながらクリスマス礼拝をささげています。エレミヤという預言者の言葉です。今から遡る事、約2600年余り前、紀元前7世紀から6世紀にかけて活躍をした古代イスラエルの預言者です。「潤う園のようになる」、ということは、裏を返せば、今は潤いなく渇いている魂だということです。喘ぐほどの渇きにのたうつ命に向けて語られた言葉だといえます。例えば今日の箇所(3115)で

 「ラマで声が聞こえる/激しく嘆き、泣く声が。/ラケルがその子らのゆえに泣き/子らのゆえに慰めを拒んでいる/彼らはもういないのだから」

とあります。「ラマ」と言う地名は、紀元前6世紀に起こったバビロニア捕囚の際に、徹底的に滅ぼされて瓦礫の山となった都エルサレムからバビロンへと移送される捕虜たちが捕囚の途上で集められた中継地だったと言われます(固有名詞ではなく「高い所」という訳も可能)。このラマには、戦乱で家を失った人たち、親しい者たちを目の前で殺戮された者たち、家族も親戚もばらばらに引き裂かれた人たち、故郷を根絶やしにされた人たち、誇りも尊厳も踏みにじられ辱められた者たち、人生のささやかな夢もだれでも望めるはずの未来も潰えて、昨日までの日常が最早2度と帰らぬ過去へと朽ちてゆくのを目の当たりにさせられた者たち、生活習慣も言葉も分からない異郷の地へと敗北を抱きしめながら向かわざるを得なかった難民が、このラマに、いました。8節に出てくる障がいを負った人たちや妊娠中、あるいは臨月の女性たちはバビロニアへ行く群れから引き離されて廃墟に捨て置かれる。そこで泣くラケルの声がこだまする。ラケルという人は、先祖ヤコブの妻で2人目の子を出産した際に難産の末に命絶えた悲劇を象徴する嘆きの母として聖書の世界では伝統的に用いられてきた名前です。難民として異国へと失われゆく人たちの、慰められることさえ願わないほどの嘆きの激しさが重ね合わせられていると言えるでしょう。

 数千年前の言葉が私たちの今日に響く、ということがあります。「歴史は繰り返さないが韻を踏む」という言葉もあります。全く同じでなくても、似た現象が起こるということは、ままあります。

2024年を振り返ってみますと、世界各地から「灼けつく渇きで」(金芝河)命が干上がり、干からびた喉を枯らして、声なき声が絞り出されるのを聞いてきた、耳を傾けることを迫られた年月ではなかったでしょうか?ウクライナの廃墟から響いていた声も、ガザ地区の崩れ落ちた街角から上げられた叫びも、シリアの収容所に捨て置かれた呻きも。また選挙イヤーだったこともあって、強権を振りかざして、あだ花咲かせて勝ち誇る獰猛で傲慢で、うつし世に我が世の春を謳歌する者たちの勝鬨の声にかき消されそうに、その陰に押しつぶされた鎮痛な嗚咽が暴発の前の静けさに潜む影となって長く伸びてゆくのも私たちは目を逸らしたくても、耳を塞ぎたくても知っています。能登の地震で崩れ落ちながらも冬から春へと踏みとどまろうとしていたところに夏の水害が襲い、多くの心が折れるのも目の当たりにしてきました。抵抗できない者を滅多打ちにして、場合によっては殺して金品を奪ってでも食い扶持を稼ごうとする闇バイトが横行することに背筋が凍り、心痛め、無力感に苛まれてもきました。まことに乾ききった世界だった。干上がった命を抱えた社会にヒリヒリする痛みを覚えた年月だった。

 せめて今日はここに避けどころを見出し、親しく身近な優しい温もりに触れていたいと思う気持ちもあります。ただ、クリスマスは干上がった世界の渇きと無縁ではないのです。むしろクリスマスは渇きの只中で起こったことを聖書は語ります。「灼けつく渇き」に喘ぐ「魂は」、「潤う園のようになる」、絶望が支配するように思える中に「あなたたちには希望がある」ことを聞き、信じ、仰ぎ見る出来事、それがクリスマスなのだ、と。

 今日のエレミヤの言葉も引用されている新約聖書、マタイによる福音書は、イエスキリストの誕生、クリスマスの出来事を囲むようにして、人の世に渦巻く不安と恐れ、おぞましい虐殺と嘆きがあったことを告げています。救い主が生まれると聞いて、期待し喜びに包まれたのは、聖書と無縁の遠い異国の博士たちと、社会で隅に追いやられ、語れども語れども通じない言葉を抱きしめて、凍てつく夜のしじまに身を凝らして棲んでいた羊飼いたちでした。王も街の人たちも、救い主が来られたと聞いて、喜ぶよりも不安にかられた。動揺した。救い主の到来を待ち望んでいたとしても、今じゃない、今では困る。なぜなら、救い主が来られるということは、つまり神のご支配が世に及ぶということは、神の正義や公正が言葉だけじゃない、実現することになるから。あたかも、急な想定外の来客に玄関も応接室も散らかったままの状態。今の、決して満足してはいないけれど、何とかやりくりしながら回っている日常が、ルティーンが、目を瞑ってやり過ごしていることが、全て白日の下に晒される事になる。とりつくろった虚偽も、メッキでごまかしていることも露わになる。義に飢え渇くのではなく、力に渇き、平和ではなく、権威に渇き、世の高みに渇き、積みあがる富に眩む眼差しに渇く。そのおこぼれに渇く。

そんな日常が脅かかされる不安や恐怖に駆られると人は自らを守るために過剰に、時に常軌を逸した行動に移る例を、私たちはこれまでにも目撃してきました。地位を追われる不安や恐れから軍を動員し、暴徒をけしかけてまで事にあたってしまう愚かしさは今も昔も変わることがありません。世は神から遣わされた客人を疎んじ追い返す、果ては神の御子でさえ殺してしまう選択をした、と聖書は鋭く語ります。一帯の2歳以下の子どもたちをイエスもろとも亡き者にしようと画策した、と。

ある新約聖書の専門家が分かりやすくこの箇所を解説している中で、「イエスは懸賞金を首にかけられて生まれました」(NTライト)と言い表していました。主イエスは生まれた時からお尋ね者とされて命を付け狙われたということです。ヘロデ王は、家族の誰かが、それが妻であっても、自分に陰謀を企てているのではないかと疑ったならば、その相手を容赦なく殺しました。また自分の葬式で人々が涙を流すように、と自分が死んだときにはエリコの指導者層の市民を虐殺するようにと命令をしていました(N.T.ライト、38頁)。イエスキリストは懸賞金を首にかけられて生まれた、さらに家を持たぬ難民でした。世界が悲惨な中にある時に、独り快適さを享受しても意味がありません。世界が暴力と不正義を被っているときに、独りお気楽な生活を送っても意味はありません。嘆きと死と痛みあるところ、そこでこそのインマヌエルであられた、と。

嘗てのラマで慰められることさえ願わない母の嘆きがクリスマスの直後、2歳以下の子どもをことごとく血祭にあげられたベツレヘム周辺に響いた。今年召された加藤常昭先生がこの箇所についてD.ボンヘッファーの言葉を引きながら踏み込んで語っておられたのを読みました。「ベツレヘムにおいて殺された幼子たちは気の毒だとわれわれは言うかもしれないけれども、違う。この子どもたちは祝福されたのだ(とボンヘッファーは言う)・・・・(このボンヘッファーの言葉を)初めに読んだ時に、心の中に少し抵抗を感じました。・・・しかし慰められることを拒否するような母親の嘆きの中で死んでいった幼子を指しながら、どんなに深い嘆きの中にある者でもイエスがおられるならば、祝福されるのだと言い切ったボンヘッファーは、ヒットラーの手によって、やはり殺されたのです。幼子と同じように。そしてボンヘッファーは言うのです。この子どもたちは、イエスと共に今なお生きていると。これは実に大胆な表現です。しかし、私は、そういう言葉をいう事ができるし、信ずることができるというのが、信仰なのだなと改めて思いました」と。イエスにある死を受け止め、キリストと共にある復活を仰ぎ見る信仰です。

かわいい盛りの幼児を、殺戮することさえ厭わないような、干上がったこの世の渇きのただ中に生まれた主イエスは、ご自身がその渇きをご自身のものとされた。クリスマス、その誕生の時から懸賞金を首にかけられたイエスキリストは、キツネには穴があり空の鳥には巣があるけれど、枕するところもなく神のご支配を告げ、身をもって神の国を体現してゆかれた世の旅路の終わりに、ついに、王やローマ総督など力の極みにあるものだけでなく、そういう為政者たちの下で暴力と不正義にねじ伏せられていた人たち、そんな時代へのやり場のない怒りのはけ口を求めて暴走し熱狂し、しばし渇きを忘れて酔いしれたすべての人によって捕らえられ、十字架での死へと引き渡されることとなったことを、そして十字架の上で主イエスが「渇く」と言われたことをヨハネ福音書は伝えています。すべてのものの罪の渇きの杯を主イエスは十字架上で飲み干された。渇きの極みにこそインマヌエルであられることを示された。懸賞金をかけられたクリスマスの主が、罪と死の縄目に捕らわれた私たちを解き放つための贖い代となられ、イースターの主となられた。エレミヤ書は、この救いを遥かに望み見ながら、良き羊飼いに守られ、贖われた者たちが、喜び歌い、晴れやかになり、老若男女がこぞって喜び踊り、嘆きは喜びに変えられ、慰められ、悲しみに代えて喜びが与えられることを確信をもって告げました。さらに聖書の最後のヨハネ黙示録とも響きあうかのように、目から涙がぬぐわれること、そして「あなたの未来には希望がある」と告げられるのです。

来年、ますます濃い影が立ち込めるかもしれない世界に暗たんたる思いを抱えながらも、今日私たちはクリスマスの主イエスを信じる信仰をしっかと内に確かめたいのです。内村鑑三が書いている言葉は、今日のエレミヤ書の信仰を言い表わしていると言ってよいでしょう。

 

「(大事なのは)この世の中はけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中でなくして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中にあらずして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります」『後世への最大遺物・デンマルク国の話』54頁)

私たちの魂、潤う園のようになる、あなた方の未来には希望がある、クリスマスの主のゆえに。この信仰を携えて、聖霊によって御子のかたちに造り変えられながら、栄光から栄光へと進みゆく歩みを刻んでゆくものとされていることに感謝をささげましょう。