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マリアとヨセフの旅

「マリアとヨセフの旅」ミカ5:1~4a、ルカ2:1~7

2024年12月15日(アドヴェントⅢ・左近深恵子)

 

 渋谷の街はこの時期、キラキラした光に溢れています。夜になると光は一層存在感を増します。クリスマス商戦に力を入れる店舗の趣向を凝らした色とりどりのライト、ブルーや金一色のイルミネーションで覆われた通りの街路樹。そのような渋谷の街を歩いてきて教会に辿り着くと、この辺りは暗く感じるほどです。教会も毎日夕方になると、掲示板と1階の応接室のイルミネーションが点灯するようになっています。玄関の明かりも敢えて点けたままにしてあります。皆さんがきれいに飾りつけしてくださったクリスマスツリーのイルミネーションは、この時期私がいる間は電源を入れておきます。けれど教会のそれらの灯りは、周辺の店舗や商業ビルや通りの、プロのデザイナーと電飾の業者によって飾られた最新のイルミネーションに比べたら、電球の数もそれぞれの光量も本当にささやかです。渋谷の街には音も溢れています。店舗の音、巨大な電光掲示板の音、道を流している宣伝トラックが流す音。そういった音によって存在をアピールするお店や車が多い通りから教会に来ると、音を外に向けて流すことをしていない教会が静かに感じます。クリスマスの時期には教会という所はさぞキラキラした輝きと、完成度の高い聴かせる音楽に溢れていることだろうと思って教会を訪れてくださる人がいたら、期待していたような“クリスマスっぽさ”がないと思うかもしれません。勿論、もっと華やかな飾りつけやプロの方たちのように聴かせる音楽を奏でる教会もあるでしょう。地味に見えようと華やかに見えようと、それぞれの教会はイエス・キリストの誕生を祝い、キリストが再び来たり給う時を待ち望んで、キャンドルの火を灯し、讃美の歌を歌います。美竹教会も、ここに真のクリスマスの喜びがあると、この時こそ神さまの恵みを世に証しする教会でありたいと願って、今年もアドヴェントの時を歩んでいます。

 私たちに真の喜びをもたらすクリスマスの出来事それ自体には、私たちが期待するような特別さが無いことに、聖書を読むと気づかされます。特別な出来事です。しかしその特別さが表に現れていません。クリスマスの出来事はマタイによる福音書とルカによる福音書に記されていますが、マタイによる福音書では、お生まれになった出来事そのものがそもそも述べられていません。ヨセフに天使を通して神さまからの言葉が与えられた出来事の後に、神さまのお言葉通り、ヨセフがマリアを妻に迎え、生まれた子をイエスを名付けたと記されるだけです。「生まれた子を」と言われるので、お生まれになったことが分かる語り方です。ルカによる福音書の方は、出来事そのものを伝えます。ルカによる福音書は第1章から、洗礼者ヨハネ誕生に至る出来事とキリスト誕生に至る出来事を並べるように語り、マリアがエリサベトを訪ねる出来事で、二つの物語は交わり、二人の讃美の歌が呼応します。そして洗礼者ヨハネが生まれ、高齢のエリサベトの出産に親族や近所の人々が注目し、驚き、エリサベトのために喜ぶ様、神さまに告げられた通りに名前はヨハネとするのだと断固として告げるエリサベトの言葉、それまで口がきけなくなっていたザカリアの口が開き、聖霊に満たされて語り始めた預言の言葉が記されます。神さまのみ業の不思議さとそのみ業が人生にもたらされた一人一人の驚きや戸惑い、抗いや賛美が満ちた大きな出来事として語られます。洗礼者ヨハネの誕生がこんなに詳しく語られ、両親の言葉や行いが丁寧に述べられたのだから、キリストの誕生はどんなに表情豊かに語られるのだろうかと待ち構えている聖書の聞き手にルカによる福音書が語るのは、今日の箇所の言葉です。削ぎ落された表現で、静かなトーンで語られます。クリスマスの出来事を語るのにこれが最もふさわしい仕方だと、この福音書はこう語るのでしょう。

1~7節には、この出来事が神さまのみ業であることが記されていません。1章があるから、マリアの胎に宿っておられるのは神のみ子であり救い主であることが分かります。1章があるから、「月が満ちて」と言う表現は、ただマリアが臨月になっており、出産の時を迎えたということを示すだけでなく、これは神さまが旧約聖書の預言者たちを通して神の民に約束してこられ、ザカリア、エリサベト、マリア、ヨセフに告げてこられた救いのご計画の時が満ちたことを表しているのだと気づかされます。もし1章を踏まえなければ、1~7節に記されているのは、ただ旅先の夫婦が、出産のための場所や環境どころか自分たちの宿泊場所さえ無く、助けてくれる親族も居ない状況で出産の時を迎え、無事に男の子が生まれ、用意していた産着でくるんで飼い葉桶に寝かせた話ということになります。世界中で、この日本の社会で、人知れず起こり続けているであろう困難な状況下での出産の一つとなります。多くの人が知る不安や苦しみの中に救い主がお生まれになったことを、1章から聞いて知ることができます。

今日の箇所は、8節以下の羊飼いたちに起きた出来事と併せて一つの出来事と言えますので、8節以下も併せて聞いてゆきます。主イエスがお生まれになったのと同じベツレヘムの町の郊外で羊の世話の為に野宿をしていた羊飼いたちに、神さまは天使を遣わし、この出来事を知らせます。神さまが知らせてくださらなければ、羊飼いたちはそのようなことがこの町に起きていることに全く気づかないままであったでしょう。もし何かの拍子に羊飼いたちが、マリアやヨセフとおられる主イエスにお会いすることがあったとしても、眠っている赤ちゃんがどのような方なのか、マリアやヨセフがどのような人たちなのか、知らないままであったでしょう。神さまは天使を通して羊飼いたちに、お生まれになった方は救い主であると、この方こそ主メシアであると語ります。“可愛い赤ちゃんが生まれました”と言われたのでも、“どこかの人々にとっては救いをもたらす人物が生まれました”と言われたのでもありません。この方の誕生は「すべての民に与えられる大きな喜び」であると、この出来事は「あなたがたのための救い主の誕生」なのだと告げます。救い主は今日、「ダビデの町」にお生まれになったとも告げます。ミカ書も、このような主の言葉を伝えていました、「エフラタのベツレヘムよ/あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のために/イスラエルを治める者が出る。・・・(その方は)立ち上がり、主の力と/その神、主の名の威光によって群れを治める。・・・大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。この方こそ平和である」。このミカ書のように、救い主がダビデの町ベツレヘムでお生まれになると告げた預言者たちの言葉を、羊飼いたちは思い起こしたことでしょう。自分たちもその一員である神の民が担って来た救いの歴史に、神さまが今日、とうとう救い主を与えてくださったのだ、この方はこの自分たちのためにも来てくださったのだと、知ることができたことでしょう。

 神さまは羊飼いたちに、救い主誕生の知らせを最初に与えてくださいました。この羊飼いたちを、光で包んでもくださいました。それは主の栄光の光です。星や月の光だけが頼りの夜の闇の中で、主の栄光が羊飼いたちを包み、照らしました。主の栄光の光は、天体の光や、この時彼らが恋しく思っていたであろう町の灯りとは違います。共におられる神さまからいただく光です。神さまが自分たちと共に今いてくださる、神さまのお力がここにも働いておられる、そのことを受け止める者が知ることのできる光です。

 神さまは羊飼いたちを、賛美の歌声でも包んでくださいました。救い主の誕生を告げる天使に天の大軍が加わって、共に神さまを褒め称えたとあります。どんな大劇場よりも大きな空間に、讃美の詩が広がってゆく壮大な情景を聖書は描きます。救い主がお生まれになった出来事それ自体には、光が飼い葉桶を照らしたとも、天使の歌声が響いたとも記されていません。世の光、真の光である救い主は、照らされる必要の無い、光なる方です。天体や人工的な光とは異なる方、罪の闇、罪の内に死んで行く死の闇から私たちを救い出す光なる方です。この方が世に来られたのだと知ることができた人々を、神さまは光で包み、光で照らし、光で救い主の元へと導いてくださり、神さまを褒め称える賛美の群れに加えてくださいます。ザカリア、エリサベト、マリアはこうして、高らかに主を褒めたたえ、その賛美の音は重なってゆき、救い主の誕生の時を迎えました。羊飼いたちも栄光の光に照らされ、天の讃美の詩に包まれ、神さまに導かれて救い主を探しに行くため立ち上がりました。神さまに、あなたがたは救い主を見つける、と言われたからです。救い主を見つけるためのしるしも神さまは与えてくださっています。それは、「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」というしるしです。今日の箇所の最後、7節で、(マリアが)「初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と述べられている文に使われている言葉とほぼ同じ言葉でしるしが告げられています。7節は飼い葉桶に寝かせた理由を、「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」と述べています。人が眠る場所ではない家畜の餌箱に、神さまから与えられた大切な子を寝かせたい親などいません。マリアとヨセフがそうせざるを得ない状況の中にお生まれになりました。しかしその飼い葉桶の中で、両親の思いが現われているような産着に包まれ、眠っておられます。このことが、神さまから与えられたしるしです。今日の箇所の前後の出来事では豊かな表現と人々が発した様々な言葉が伝えられているのに比べると、今日の箇所はあまりにあっさりとしているように、み子の誕生に期待する特別さが無いように見えてしまう私たちですが、それこそが、神さまが与えてくださったしるしであったことを知ります。神さまは羊飼いたちに、これは「全ての民に与えられる大きな喜び」であると最初に告げ、そして「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言われています。産着に包まれて飼い葉桶の中で眠っておられる救い主は、私たちも含め、全ての民に与えられる大きな喜びであるのです。

 マリアとヨセフが飼い葉桶に寝かさなければならなかったのは、宿屋には彼らの泊まる所が無かったからでした。ベツレヘムの宿屋の人々は、もし、マリアの胎の子がどなたであるのか知ることができていれば、手を尽くしてこの夫婦のために部屋を提供したかもしれません。しかし宿屋の人々の目にも、その他の町の人々の目にも、マリアとヨセフは、困難を抱えながらベツレヘムにまでやってきた他の旅人たちと同じように見えたことでしょう。私たちがそうであるように、神さまの言葉が無ければ、聖霊の導きが無ければ、世で神さまが為さっているみ業をそうと認めることも、起きていることの奥にある神さまのご意志を知ることもできません。み言葉に心から耳を傾けることが無いまま、特別さが見受けられないからイエスと言う者を救い主だと信じない、従おうとしない人間の姿は、この町の人々だけのものでも、聖書に登場する人々だけのものでも無いことに気づかされます。み言葉がこの自分のために語られていることを知り、耳を傾ける人は、どんなに幸いな者であるのかということもまた、私たちは羊飼いたちを通して気づかされます。

 ベツレヘムの宿屋の人々は、マリアの胎の子がどなたであるのか知らなくても、他の時にマリアとヨセフが来たのなら、二人のために部屋を用意できたのでしょう。宿屋に彼らの泊まる所が無かったのは、神の民もその周りの民も支配していた時のローマ帝国の皇帝が、全領土の住民に登録をせよと勅令を出したからでした。ローマ帝国の皇帝の下には、帝国から遣わされた総督が居ます。何重にも支配の層が覆いかぶさっているような状況です。支配する側が住民に登録を命じるのは大抵、領土の者たちを徴兵したい時に備えるため、あるいは税をより領土の隅々から取り立てるためであります。支配者たちの都合と利益のために出される命令によって、人々は自分の故郷の町へと移動を強いられました。ベツレヘムの町の宿屋が埋まっていたのも、この命令の影響でありました。マリアとヨセフに困難をもたらしている最たるものは、この時代最強の大国、ローマ帝国の皇帝の権力でありました。

 その歴史の中に、その何重にも支配の力が圧し掛かっている神の民に、救いのご計画の約束を神さまは実現されたのだと、福音書は伝えます。全ての力に勝る主なる神が、この時代に、この人々の中に救い主をお与えになったのだと、それが神さまが与えてくださった全ての民に与えられる大きな喜びのしるしなのだと、伝えます。このみ業を担う者として、ダビデの血筋の者であるヨセフと、その婚約者マリアを選び立てられました。マリアとヨセフは、それぞれが、自分たちに救い主を与えられると告げる神さまに、驚き、戸惑い、抗いながらも信頼しました。自分たちに告げられた神さまの言葉がその通りに成し遂げられることを、先が見えない状況で、信頼しました。寧ろマリアにとってもヨセフにとっても、神さまの言葉が実現すれば、その先には、マリアが罰せられかねない、死刑に処せられかねない危機や、夫婦が共に信頼し合えなくなる危機が見えてくるような道でありました。その道を二人はただ神さまへの信頼によって、共に踏み出しました。ヨセフはマリアを妻としました。それからベツレヘムでこの日を迎えるまで、二人はどのような時を過ごしてきたのでしょうか。はた目には、新婚の夫婦が出産の時に備えて暮らしている、ナザレの町で決して珍しくない二人であったでしょう。皇帝の勅令によってベツレヘムへと向かう旅路も、身重であることの苦労と不安を除けば、どこにでもいる旅人であったでしょう。マリアの胎の中で、夫婦の間で、神さまのみ業は確かに出来事となっていましたが、表には特別さが何も見受けられないこのような日々を二人はみ言葉に従い続けました。その日々は、神さまに従う旅路であったと言えます。その旅の目的地でも、陣痛が始まっても、人の目に救い主の誕生に相応しいと思えるものは何も与えられない中、二人は初めての出産に奮闘し、み子をお迎えすることができました。言葉少なに語られる今日の箇所の背後に、この二人の神さまとみ言葉に信頼しつつ進む一歩一歩の歩みと闘いがあったことを思います。

主イエスは、飼い葉桶を最初に身を横たえる所とされました。困難な状況に陥っている、望む場所も、望む環境も、望む助け手たちも得られない寄る辺なさを味わっている全ての人が、自分のため、また自分が助けたいと願いながら助けきれずにいる誰かのために、キリストはお生まれになったのだと、み言葉を通して深く受け止めたいと願います。