「神は私たちと共に」イザヤ7:14、マタイ1:18~24
2024年12月8日(アドヴェントⅡ・左近深恵子)
先週、ルカによる福音書から、神さまが天使を通してマリアに主イエスの誕生を告げられたことを聞きました。ヨセフと婚約はしているもののまだ結婚生活を始めていなかったマリアに神さまが男の子を与えられる、その子は神のみ子であり、ダビデの血筋に神さまが約束されていた救い主であり、その支配が終わることの無い真の王であると告げられました。今日はマタイによる福音書から、ヨセフに起きたことを聞いてまいります。
マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図に続く流れでクリスマスの出来事を記します。この系図はアブラハムから始まり、ヨセフの誕生までは「〇〇は〇〇をもうけ」という同じ表現で子の誕生が述べられてゆきます。最後の主イエスの誕生は、これまでのように「ヨセフはイエスをもうけ」とは言われません。ヨセフがマリアの夫であることが述べられた上で、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と、これまでとは違う仕方で言われます。主イエスは確かにダビデの血筋にお生まれになったと、しかしこれまでの系図の延長線上にお生まれになったのではないと、示されます。この後に続いて語られるクリスマスの出来事に備えさせ、18節が、「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」と、クリスマスの出来事を語り始めます。そこで先ず述べられるのが、主イエスの母とされたマリアが聖霊によって身ごもったことです。主イエスは人の力によって誕生されたのではなく、何千年にも渡って、一つ一つの世代を導き、メシアをお与えになるとの約束に向かって救いの歴史を推し進めてこられた神さまが、マリアにおいて、ダビデの血筋にその約束を実現してくださったことが、系図と今日の箇所によって明らかにされます。
それからいよいよヨセフのことが語られます。ヨセフはマリアのことを表沙汰にせずに、ひそかに離縁しようと決心したとあります。なぜそう思ったのか、色々な解釈がされてきました。仮にヨセフがマリアからちゃんと話を聞く機会を得られないまま、マリアの妊娠だけを伝え聞いていたのなら、ヨセフはマリアが法的に自分と婚姻関係にあると見なされる立場にありながら、子を宿したことを表沙汰にすると、マリアが律法の定めに従って罰せられること、最悪の場合には石打の刑によって処刑されてしまうことを避けようと、表沙汰にせずにおこうとした、しかしマリアの妊娠は姦淫によるものか誰かの暴力によるものと思っていた、そのマリアと結婚することはできないと離縁を決意したということかもしれません。
もしヨセフがマリアから話を聞いていたのなら、神さまによって聖なるみ子の母とされたマリアの夫となることを、ヨセフは恐れたということかもしれません。そのようなマリアの夫となるにも、神のみ子の父となるにも自分は相応しくないと、だから離縁を決意した。姦淫の罪を犯したのではないマリアが裁かれてはならないので、表沙汰にすることも望まなかったということかもしれません。あるいはマリアから話を聞いたものの、受け止めることができなかったということかもしれません。マリアが語る信じ難い話しを全て受け留めることも、このことを自分のこの先の人生に受け容れることもできないと、だから離縁してマリアともこのこととも離れて生きて行こうと、マリアが姦淫の罪で罰せられることからは守りたいので表沙汰にはしないでおこうということなのかもしれません。
ヨセフが既にマリアから話しを聞いていたのか、ヨセフがどのような思いでこの結論を出したのか、福音書は何も述べません。ヨセフの決定では、マリアは今のところ身重であることが人々に知られずにいるけれど、いずれ出産したらヨセフから既に離縁されているマリアは周囲から姦淫をしたと疑われるのではないか、それともヨセフは無責任で自己中心的な元婚約者として、非難を一心に浴びるつもりであったのか、そういった私たちが気になってしまうことも福音書は説明しません。ただ、ヨセフが正しさからこう決心したと述べます。ここで「正しさ」として用いられている言葉は、聖書では多くの場合律法に忠実なことを意味します。ヨセフは正しい判断をすることを求めてこの結論に至ったのだと述べるこの言葉に、福音書がヨセフの思いに注ぐ温かな視線が伝わってきます。
ヨセフの正しさとはどのようなものであったのでしょう。ヨセフがもし律法を規則集のように表面的に捉えていて、その規定を守ることだけを律法への忠実さだと考えていたなら、婚姻関係に無い相手との子を宿したとマリアのことは姦通罪で訴えなければ律法に忠実ではないことになります。しかし表沙汰にしないと決めたヨセフは、律法をそのように捉えていなかったのでしょう。かつて奴隷とされ、人として生きることができなかったところから民を救い出し、ご自分の民とし、感謝をもってご自分にお応えする生活を導く道標として、神さまが神の民に与えてくださったのが律法です。ヨセフは、この律法に従ってマリアが裁かれる道と、表沙汰にせずにひそかに律法の規定に従って離縁の手続きを進める道と、神さまのみ心に適う正しい道はどちらなのか、悩み考えたことでしょう。
誰にも相談することができず、一人苦悶した末、マリアが裁かれないように表沙汰にはせずに、離縁する道の方が正しいと結論を出しました。しかしそれはヨセフなりの正しさであって、神さまの救いのご計画に従うものではありませんでした。マリアに対する愛情も思慮も深いヨセフでありますが、一人で導き出せることには限界があります。そのヨセフを、神さまは本当に正しい道へと導くために、天使を通して夢の中で語り掛けてくださいました。
最初の「ダビデの子ヨセフ」という呼びかけにヨセフは、イスラエルの民が神さまの導きの中で担って来た特別な歴史と、神さまの救いの約束を担う血筋に連なる者としての使命に、目覚めさせられる思いであった。
そして神さまは「恐れずマリアを妻に迎えなさい」と告げます。神さまは、ヨセフが正しさを求めていただけでなく、恐れを抱えていたことをご存知でした。恐れはヨセフの内に、戸惑いや、疑いや、怒りや、不信の思いをヨセフの内に掻き立て、苦しめていたことでしょう。ヨセフなりの正しさは、二つの道の間で悩ませました。どちらを取るにしても、恐れに揺さぶり続けられる道です。ヨセフはその二つの内の一つ、表沙汰にしないことでマリアを裁きから守り、マリアと一緒に居る限り自分の内に消えずに残るであろう納得しきれない思いから自分を切り離せる道、つまり離縁する道を取ろうとしていました。正しさからマリアを守ろうとしていました。しかしまた、恐れから、抱えたくない思いを抱かせる状況とこれ以上関わらない所に身を置きたいと思うこころがヨセフに無かったと言い切れるでしょうか。神さまは、このヨセフには見えていなかった道を示されました。人として常識的に判断し、可能な限り思慮深く見つめようとしていたヨセフの目に、選び取れる道は二つしかないように見えていましたが、神さまの救いのご計画は別の道を備えておられます。マリアを妻に迎え入れ、生まれ来る子の父親となる道です。神さまが示してくださる道ですから、ヨセフはもう独りで恐れなくて良いのです。ヨセフが願ってきたようにマリアを守ることができます。それはマリアにこの先困難が一切降りかからないという意味の守りではなく、困難の中でも、神さまのお力によって進んでゆくことができる道です。ヨセフが、自分にはこれ以上背負いきれないと自分を切り離すのではなく、その状況の中へと入ってゆき、関わってゆく道です。
これまで理解しきれない、受け止められない、先が見えない、荷が重すぎると恐れていた状況の中へヨセフが入ってゆけるのは、この出来事が神さまのお力によることが告げられたからです。神さまのお力によってマリアは身ごもっています。誰かの裏切りや暴力がこのことを決定づけたのではありません。ヨセフがこの先に起こるのではと恐れているような、周囲の人々の非難や攻撃が、この家庭の歩みを決定づけるのでもありません。神さまがこの家庭の主です。「ダビデの子ヨセフ、恐れるな」、この天からの声が、ヨセフを縛っていた恐れから解き放ちます。恐れによって歩みを定める者であったヨセフを、神さまの言葉によって定める者へと変えます。神さまの言葉に従う者へと、神さまのご計画に自分の人生もマリアの人生も委ねる者へと変えてゆきます。自分の人生の主も、マリアの人生の主も、恐れではなく神さまであることへと目覚めさせて行きます。
神さまはヨセフに、大切な役割をお与えになります。お生まれになる方をイエスと名付けることです。ヨセフには勿論他に大切な役割があります。マリアと夫婦となり、身重のマリアと胎の子を守り、マリアと協力してお生まれになる方を育てることです。そのヨセフの働きと支えが、初めて出産と子育てに直面するマリアにとってどんなに大きな力となることでしょうか。しかし神さまがヨセフに与えられた最大の務めは、イエスと名付けることです。
ヨセフが名付けるのは、神さまが定められた名前です。ヨセフが定めるのでも、マリアが定めるのでも、周りの誰かが定めるのでもありません。ヨセフが父親とされようとマリアが母親とされようと、この家庭にこのお方を与えられたのは神さまです。名づけを通して、ヨセフは周りの人々に、神さまこそがこの家庭の主であると、神さまがこの幼子を与えてくださったのだと、証しすることになります。祭司ザカリアとエリサベトの間に神さまが与えてくださったヨハネが生まれ、命名の時が来ると、親族や周りの人々は父親の名前をとってザカリアと名付けようとします。しかしエリサベトは断固としてそれを断り、ヨハネとしなければならないと言い続けます。親族の名前を付けるのが習わしだと人々から否定されても、ザカリアもエリサベトも譲りません。それが、神さまから示された名前だからです。ヨセフも、周囲から反対をされるかもしれません。それでも神さまのお言葉に従い続けるのです。
名付けること自体は、一日で終わる小さな務めに見えるかもしれません。しかし、ヨセフが神さまから託された務めは、その一日のことだけではないでしょう。寧ろそれ以降、ヨセフの生涯を貫いて求められている務めだと言えるでしょう。その人の名前は、その人がどのような者であるのか示します。イエスという名を神さまは、ご自分の民を罪から救う方だから、そう名付けるようにヨセフに告げられました。クリスマスの晩にお生まれになった方を、福音書は様々な表現で伝えています。ここでは、罪から救う方であることが非常にはっきりと告げられています。人は救いを願っているようでいて、自分がどこから救われなければならないのか、自分自身で見据えることが難しい者です。罪から救われなければならないことに気づけても、救う力を他に求めたがるものです。自分の正しさであったり、自分の立派さであったり、崇拝する誰かの正しさや立派さであったり、そういったものが自分の救い主になれると思いたがります。しかし、イエスというお名前のこの方こそ罪から救うお方なのだと、そう証しする務めを、神さまはヨセフに生涯を通して担うよう、願われたのではないでしょうか。
神さまこそがこの家庭の主であり、一人一人の人生の主である、そのことに目覚め、我がこととし、自分の家庭のこととし、他者のこととする。それは預言者を通して言われていた、「インマヌエル」「神は私たちと共におられる」ということの実現だと、福音書は旧約聖書の言葉を振り返っています。それは、イスラエルの王やその民が、攻め込もうとする隣国の動向に、森の木々が風に揺れ動くように動揺していた時代です。神さまはイザヤを通してユダの王に、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」と告げます。イザヤがその後、幾度も繰り返すメッセージです。動揺する中で静かにしていること、恐れずにいられることは、神さまに立ち返ることによって初めてできることです。狼煙の火を上げる隣国のために心を弱くしてはならない、それらの国は侵略することはできない、それらの国の人間的な判断による策略に載ってはならない。あなたの神である主にしるしを求めよとイザヤは呼びかけます。しかし王は神さまの言葉に耳を傾けようとせず、神さまにしるしを求めようとしません。その王をイザヤは批判し、「インマヌエル」預言と呼ばれるこの言葉を告げます。血筋だけイスラエルに連なっていても、神さまに聞き従わず、他の力に助けのしるしを求める王や民にではなく、神さまに聞き従う人々に、主ご自身がしるしを与えられると言われ、ダビデ王家に連なる若い女性が身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶと告げます。王とその民は、神さまではない者の企みに動揺し、別の力にすがろうとしていました。それでも王が代表するこのダビデの家に、神が共におられるしるしがいつか与えられると、神さまは約束してくださるのです。
イザヤを通して告げられたこのインマヌエルという名前は、人となられた神のみ子においてこの世の現実となりました。神はその民と共におられます。神さまのみ言葉が成し遂げられることに信頼しきれず、他の力に擦り寄ってゆく人々に繰り返し語り掛けてこられた神さまが、とうとうダビデの家に救い主を与えてくださいました。救い主が全ての人を罪から救うためにお生まれになりました。遠くからではなく、人々の間に宿られ、人々の間で神さまの救いのご計画を成し遂げられます。律法が指し示した道を、この世に切り拓いてくださるのです。
ヨセフは目覚めて起きると、神さまが命じられたとおりマリアを妻に迎え、男の子が生まれるとその子をイエスと名付けたとあります。ヨセフは眠りから目覚めました。同時にヨセフは、恐れに沈み込み、目を塞いでいたところから、神さまのみ業のために人生を捧げることへと、目覚めたのでしょう。み言葉に生き始めたヨセフの姿が語られます。マリアだけでなくヨセフも今や、神さまが自分たちと共におられることを受け入れました。罪から救ってくださる方が自分たちの所に宿ってくださったことを、聖霊のみ業として受け入れました。このヨセフの目覚めが、恐れ、関わらない所から、神さまのみ業のために自分の思いも人生も全て委ねる道へと踏み出す勇気を生み出しました。「ヨセフ、恐れるな」と呼び掛けられたヨセフは、世にクリスマスの喜びをもたらす神さまのみ業に大いに用いられました。私たちと共におられる主なる神が、私たちの名も呼んで、「恐れるな」と呼び掛けておられます。