「恵みに覆われて」ルカ1:26~38
2024年12月1日(アドヴェントⅠ・左近深恵子)
今この時、紛争や戦争によって苛烈な攻撃にさらされている人々が大勢います。国や地域の勢力間の対立の中、残酷な現実が日常となってしまっているところから、願っても抜け出すことができない人が大勢います。
私たちの身近な社会にも、被災した上に、復興の道筋が立たない中、生活も、健康も、心も押し潰されたままの人が大勢います。自然災害だけが復興を遅らせているのではなく、私たちの社会が抱えてきた、取り組み切れてこなかった問題が、被災した人々に圧し掛かっている面があることに胸が痛みます。
私たちも、それぞれに抱えている困難があるでしょう。それらも、この社会の様々な事柄と絡み合っています。この時代だからこその困難があり、この社会だからこそ解決が難しいという面があります。地上を歩む私たちは、その時代、その地域や社会から多大な影響を受け、関わりながら、この歩みが何よりも主に従う者としての歩みでありたいと、こうして礼拝毎に神さまのみ前に進み出て、神さまを仰ぐのです。
ルカによる福音書は、使徒の時代よりも後に書かれたと考えられています。福音書の書き手も書き手が属している教会も、主イエス・キリストにお会いしたことも、そのご生涯や死や復活を直接見聞きしたことも無い世代ということでは私たちと同じです。福音書の書き手は、使徒たちが伝えた言葉や、それらに基づく伝承や文書を受け留めてこの福音書を記しますが、その冒頭で、これから「私たちの間で実現した事柄について」書くと述べています。イエス・キリストよりも後の時代に生きていながらこう述べます。使徒たちの言葉やそれに基づく伝承や文書を、興味深いけれど自分たちには直接関わりが無い、結局過去の他人の物語とはしていません。キリストを神さまが世に与えてくださったと証しする証言であり、それは自分たちのために為されたことでもあり、自分たちの間で今も実現され続けている事柄なのだと知っています。この福音書を読む人々、聞く人々の間でも神さまが実現してくださることを確信しています。それを何とか伝えたいと、このことを知って欲しいと、福音書を書き始めるのです。
この救いのみ業が私たちの間で実現してきたのであり、実現してゆくのであることを伝えるために、この福音書は救い主が架空の物語の中にではなく、世界の歴史の中歩まれたことに重きを置いて述べます。クリスマスの出来事も、マリア、ヨセフにいきなり焦点を当てるのではなく、ユダの地で、ヘロデという王に支配されていた時代であったことを先ず述べます。ヘロデ王という名前から、ユダも含め地中海世界全域がローマ帝国の支配下にある時代であったことも示されます。この福音書はこれ以降も折に触れ当時の為政者の名前や政策に言及して、主イエスがその歴史の中で神さまのみ業を為して行かれたことを語ります。登場する為政者や人々は書き手の時代には既に生涯を終えており、為政者の顔ぶれも時代も変化していますが、主イエスによってもたらされた救いのみ業はなおも自分たちの間で事実となり続けていると、証しするのです。
福音書は救い主の誕生の前に、救い主の先触れとして活躍することになる洗礼者ヨハネを、神さまがザカリアとその妻エリサベトの間に与えられたことを伝えます。夫ザカリアは祭司であり、妻エリサベトも祭司アロンの血筋の人であります。二人共に、律法が求める規定や祭儀を守ることにおいて誰からも非難されるところが無い人生を高齢になるこの時まで送ってきました。ザカリアが、祭司として一生に一度その務めを担う機会があるかないかの特別な務めを、神殿の最も奥の至聖所と呼ばれる所で行っていた時に、神さまはみ使いを通して、エリサベトがヨハネを身ごもることを告げられました。神殿の庭でザカリアの祭儀が終わるのを待っていた神の民も、出て来たザカリアの様子に、神さまから何らかの出来事を受け止めたことを見て取りました。神の民の信仰生活の中心にある神殿の、神さまがそこで現臨されると約束された至聖所で、特別な祭儀を執り行っていた、長年経験を積んできた祭司にもたらされました。神の民も、祭儀と言う公の場でそのことを受け止めました。神さまによって神の民とされ、預言と律法と救いの歴史を受け継いできたイスラエルの民を通して、救いの約束の実現が告げられました。神さまにささげる祭儀を重んじて来た信仰生活の中心の場で神さまは告げられ、信仰の民の内側から約束の実現に備えさせてくださいました。中心から次第に周りの人々へと、神さまの祝福が広がりゆくような出来事です。
続いて、同じみ使いによって救い主ご自身の誕生がマリアに告げられる出来事は対照的に見えます。場所は、「ナザレから何の良いものが出ようか」(ヨハネ1:46)と言われ、人々から全く重要視されていなかった、ガリラヤのナザレです。巡礼の人々が集う神殿ではなく、その地域の会堂とも書かれていません。告げられたのは、何をこれまで為してきたのか何も書かれていない、祭司でもなく祭司の血筋でも無い、年若い女性、マリアです。一生に一度の晴れ舞台のような特別な務めを担っていたわけでもありません。当時他の大半の女性たちがそうであったように、マリアはおそらくそれまで親の庇護の下にあり、婚約し、これからは夫と共に家庭を築いてゆこうとしている人です。結婚に向けて喜びや期待があるでしょう。しかしまた、この先の生活がどのようなものとなるのか見通せないことへの戸惑いもある、人生の節目にいます。その時代の他の女性たちと同じように、際立つところの無い、小さな存在と言える人です。ただ、ダビデ家のヨセフの婚約者であるということだけがマリアについて福音書が伝えていることです。この結婚が予定通り進められ、ヨセフがマリアの胎の子をみ言葉に従って受け入れることで、預言者を通して告げられていたように救い主はダビデの家にお生まれになることになります。神さまは、ダビデ王からこれまで、3,000年近い年月にわたって続いてきたダビデ家の数多いる他の子孫たちではなく、ヨセフとその婚約者マリアを救い主の親とされました。他の時代ではなくこの時代に、約束の実現をこの二人において始められました。それはただ、神さまのみ心に拠るものであります。人には見通すことのできない神さまの選びによって、二人を特別な務めへと召され、二人に深い慈しみと力を注がれたのです。
神さまが遣わされたみ遣いは、マリアに現れ、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と告げます。マリアは、これは一体何の挨拶かとひどく戸惑います。語りかけられた挨拶自体に特別なことはなく、神の民の間で日常的に交わされていたものと言われています。しかし、年若く、特記すべきところの無い女性であるマリアのような人に向けられることはあまり無かったとも考えられています。世の一般の感覚で見れば世界の片隅のような所で暮らしていた、世が注目する要素が何も無いマリア、先が見通せない人生の節目にいたマリアに、神さまがみ使いを通して、丁寧な挨拶をもって語りかけられました。マリアにとって、日常に突然天から降って来たような出来事です。神さまに仕える祭司の働きに生涯を捧げて来たザカリアであっても、それが信仰の中心の場で、神さまに最も近いところで、祭儀を執り行っていた時であっても、自分の人生に突入してきた天のみ業を非常に恐れたのです。マリアが戸惑って当然でしょう。神さまはマリアの恐れをご存知であり、「恐れることはない」と語り掛け、救い主の誕生を告げたのです。
救い主がお生まれになり、救いの約束を実現されることを神さまは告げられます。神さまの言葉はまだ何も形を取っていません。周りの人々の目に子どもの誕生が見えるようになるだけでも後10か月を要します。しかしみ業を神さまは始めておられます。人の目に留まらないようなこの場所で、人の目に隠れた仕方で、小さな存在に見えるマリアの内に、既にそのみ業がもたらされています。「その方は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われます。この先のあらゆる時代の人々が、自分たちの間に実現していると、この真の王の支配は終わることがないと知ることになるみ業が、始められています。人の評価も視野も超える神さまのご計画によって、神の民が受け継いできた救いの歴史を成就するみ業が出来事となり始めています。世の片隅のような所に居る人々にも、この先が見えない不安の中にいる人々にも、全ての世の隅々にまで永久に及ぶ神さまの慈しみは、小さく脆く弱い胎児として世に降られた救い主によって実現されるのです。
救い主の到来は、人の力と視野を超えた神さまのみ業でありました。ヨハネの誕生は、子を持つことをもはや望めなくなっていた高齢の夫婦を通して為されます。救い主の誕生は、婚約はしたもののまだ結婚生活を始めていなかったマリアを通して実現されます。人の力では為し得ないことです。できるかできないか以前に、人が願うことが難しいことです。ザカリアもマリアも、神さまが約束されたメシアの到来を待ち望んでいたでしょう。しかし、自分の人生にそのことが起こることを自ら望めたでしょうか。神さまは、「今、あなたの人生にこの事を起こしても良いか」などと、ザカリアやマリアの都合を尋ねることなどなさいません。「あなたはこのことを願っているか」と気持ちを問うことも、「あなたにその資格ややり遂げる力があるか」と備えを問うこともなさいません。ザカリア・エリサベト夫婦にとってもマリアにとっても、子の妊娠は最悪のタイミングとも言えるものであります。妊娠は望まない状況を引き起こしかねません。実際に子どもが望めない年になっていたエリサベトは好奇の目に晒されないように身を隠さなければならなくなり、結婚生活を始めていないものの婚約によって法的にはヨセフの妻とみなされるマリアは、姦淫の罪で裁かれてもおかしくない立場に置かれます。私たちは、人生のどの時点に居たとしても、他者からの理解や賛同を得るのは非常に難しい、寧ろ好奇の目に晒され、非難されかねない神さまのみ業が自分の人生において出来事となると告げられ、神さまから都合や気持ちや相応しさを問われたら、「はい、大丈夫です」とは応えられないのではないでしょうか。私たちは自分の都合と自分の計画が守られることを最も重要なことと思いながら、社会や時代から様々な誓約を受けて苦闘しています。自分を内側から歪める自分の罪から救っていただきたい、能力や秀でているもので自分や他者を評価するのではなく、ただその存在を喜べる者でありたい、自分の命も他者の命も心から喜んで生き、死んでいく者でありたい、そう神さまに救いを求めながら、神さまのお言葉が自分の身や自分の人生に実現されるよりも、自分の願いを実現させるために神さまの力を使いこなしたいと思ってしまう歪みを捨てきれない者です。神さまに従うよりも、自分が自分の人生をどこまでも支配していたいという思いに引きずられ続けている者であります。
この日神さまが告げたマリアの人生は、これまで以上に具体的な道のりが見通せないものでありました。マリアにとって大きな危険まで孕むものでありました。マリアの力も思いも超えて、神さまはマリアにキリストを宿らせてくださいました。マリアはこの先の人生の土台を、自分の力でも自分の願いでもなく、神さまがこのことを願っておられる、そのことに据えました。神さまは、できないことは何一つない方であることに信頼し、神さまのみ言葉を受け容れました。自分は主なる神に仕える者であると、神さまがそう願っておられるから、自分も、神さまの言葉が自分の身と自分の人生に実現することを願うと答えることができました。目に見える確かさが無くても、み言葉の実現はマリアを大きな危機に陥らせるかもしれなくても、神さまの言葉に自分を丸ごと委ね、その人生を生きていくことを決断したのです。
その後のマリアは、姦淫の罪で罰せられることは無く済みますが、福音を宣べ伝える働きを始められた主イエスの為さっていることが理解できない苦しみを味わい、主イエスの受難と死を目の当たりにすることになります。当時の民の指導者やユダの王とローマ帝国総督の間の政治的駆け引きや保身のための言動を背景に、主イエスは人々から嘲られ罵倒され、死刑に処せられます。それは母として、自分が危険に晒されるよりも辛いことであったでしょう。それでもこの日天使はマリアを「恵まれた方」と呼び、「主が共におられる」と告げました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」と言いました。苦しみと死の闇を歩み通される救い主の母となること、救いのみ業に我が身と生涯を通して関われることを、神さまは「恵み」と言われます。私たちが「恵み」という言葉で願っているものが、神さまが言われる恵みと同じとは限らないこと、マリアにとっては自分が願っていたであろう恵みからかけ離れたものであることを思わされます。私たちの人生の計画に貢献するものが恵みなのではありません。神さまが共におられること、救い主のご支配が共にあること、救いのみ業に参与できることが恵みであるのです。
マリアを苦しみや死の力が襲う時も、神さまはマリアをそのお力で覆ってくださいました。その時々の世の評価がマリアを小さくしようが大きくしようが、マリアは主の恵みに覆われた人でありました。神さまがマリアを通して実現してくださった恵みは、私たちの間で今も実現しています。時代と社会の流れに道を狭められ、引きずられても、世の片隅のようなところで先が見えずに不安に呑み込まれそうになっていても、キリストによって神の民とされた者たちを覆うのは何よりも、できないことは何一つない神さまのお力です。キリスト者は神さまの力を帯びた者です。神さまが救いの御業を全て成し遂げられる終わりの時、キリストが再び来られる時に備えて、闇の行いを脱ぎ捨て、イエス・キリストを着る者です(ローマ13:12~14)。キリストの恵みを纏う者です。今も私たちの間で恵みであり続け、終わることの無いイエス・キリストのご支配が、お言葉通り、この身に成りますようにと、共に祈り願いながらアドヴェントを歩み出したいと思います。