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暗闇を照らす曙の光

2024.11.24.主日礼拝

イザヤ60:1-5、ルカ1:67-80  

「暗闇を照らす曙の光」

 

 

十年以上前に、NHKプレミアムで「エチオピアのクリスマス」という番組をやっていた。その内容は、クリスマスの日に向けて、ラリベラという聖地を目指して、エチオピアの様々な人々が巡礼の旅に出ていく様子をインタビューを交えながら紹介するものであった。ラリベラに向けて多くの巡礼者達がなんと五百キロ、千キロという途方もない距離を徒歩で、しかも裸足で歩いていく。番組では青ナイルの源流近くのある村から向かう巡礼者達を取材していたが、その巡礼者達は決して若くはない。七十台半ばの女性もいた。インタビュアーが彼らに無事に辿り着けるかどうか不安はないのかと聞くと、皆、神が共におられるので一切不安はない、と答えていた。その表情は実に晴れやかで、本当に純粋に信じている様子がよく分かった。その長い道のりの途中に、絶壁の崖の上にある修道院がある。登るのは至難の業で、足を踏み外したら奈落の底へ転落するような絶壁を修道士達は岩のくぼみに巧みに足をかけながら修道院まで登っていくのである。修道院の司祭が話していたのだが、昔28人もの人ががけから落ちたことがあったが、そこに神が現れたと言う。その神によって全員が救われ、怪我一つしなかったと司祭は話していた。司祭の顔には、どこかの新興宗教がやるような大げさな作り笑いとか偽善に満ちた表情は全くなく、本当に疑いなくそのことを素朴に信じていた。先ほどのインタビュアーが巡礼者達に、何故そんな大変な距離を歩いてまでして、クリスマスに聖地を訪ねたいのか、と尋ねると誰もが、天国へ行きたいからさ、当たり前のことを聞くな、と答えていた。

 

来週から全世界の教会はアドベントに入る。クランツの一本目のろうそくに火が灯される。クリスマスは如何なる闇の力をもってしても消すことの出来ないまことの光が生まれたことから始まった。それは始まったけれども終ってはいない。これからもクリスマスは必ず毎年訪れる。アドベントも必ず毎年やって来る。それは、まことの光を知らない人がこの世に残されているからである。既に知ってはいても、信じていても、罪と闇の中の生活に慣れきってしまってまことの光なる御子イエスを見失ってしまうクリスチャンが少なくないからである。恵まれすぎているこの日本で、クリスマスを喜び祝う為に五百キロや千キロ歩かなければならないとしたら、一体何人のクリスチャンがその旅路に参加しようと名乗りでるだろう。何人の牧師が手を上げるだろう。生きるのがそれほど辛くも苦しくもない今の日本で、自分の身を削らなければクリスマスは迎えられないと言われたら、そこまでしてクリスマスを迎える為の備えをしようとする人がどれほどいるだろうか。私達は安易にクリスマスを迎えられてしまう。古い自分のままでクリスマスを迎えられてしまう。しかしそのように簡単に迎えてしまう分、本当のクリスマスは終わっていない、決して終わらない神の御業だ、ということに私達は気づいているだろうか。あの時のクリスマスはもう過ぎた過去だと、簡単に安っぽい思い出に変えてはいないだろうか。しかし、救い主の誕生によって輝き始めた光は消えてはいない。その輝きは二千年前のベツレヘムの夜と比べて弱くなっているわけでもない。弱くなっているのは、クリスマスをただの昔の思い出にしているような、それを自分だけの喜びや楽しみに思って平気で済ませているような我々クリスチャンの信仰だと思う。もしクリスマスを迎える為に五百キロ、千キロ歩かなければならないとしたら、その長い道のりを歩き通して晴れてクリスマスの夜を喜びと感謝で迎えることができるのだとしたら、それほどの思いで辿り着いたクリスマスを決して終わらせてはならない。そんな思いが強くなるのではないだろうか。

 

先ほど、ザカリアの預言として知られる箇所が読まれた。ザカリアはエリサベトの夫で、あの洗礼者ヨハネの父親である。1:76でザカリアは言った。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる」。この幼子とは洗礼者ヨハネである。しかしこの預言は、洗礼者ヨハネについて語られたものではない。「幼子よ」と呼びかけられてはいるが、幼子が重要なのではない。重要なのはこの幼子ではなく、この幼子が将来、語らなければならないものである。「イスラエルの神である主はほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖い、我らのために救いの角を、僕ダビデの家に起こされた」とザカリアは言った。その言葉は確かにある過去の出来事について語っていた。しかしその救いの角とは、約束されたメシアなるイエス・キリストご自身のことである。そしてこの幼子が語らなければならないものとは、神がダビデの家に起こされたこの救いの角なる救い主が今より後、あなたのために、友のために、世界のすべての命ある者のために、敵のためにも何をなされるのか、という今より後の、まさにこれから来たらんとする将来のことがらだったのである。

 

だとするならば、現在の我々がクリスマスを単なる過去の思い出にしてしまっているのはどうなのだろう。この言葉が洗礼者ヨハネと同じように、神に選ばれ信仰を与えられている私達に対しても将来にしなければならないことがあるのだ、と告げているのだとしたら、クリスマスを思い出として余韻に浸っている暇なんかないのではないだろうか。キリストによってこの身にもたらされる神の業。それは過去の思い出なんかではない。今現在の我々に向けても神はキリストを通して働きかけている。それだけではない。クリスマスは終わることなくやって来る、と先ほど申し上げた。これから後も終わることなく神は御子キリストを通して我ら一人一人に、我らの肉の命が終わろうともその次の時代を担う将来の世代に向かって神は働きかけて下さる。神の国が完成するその日その時まで、神は世にある人間を決して見放すことなく、御子を通して働きかけ続けて下さるのである。世にある人間は、その神の働きかけを拒むことなく受け入れることが求められている。そのために招かれ、選ばれたキリスト者こそ神の御手に委ねるようにと招かれている。ならば幼子ヨハネに向けられたザカリアの言葉は、この方イエスこそキリスト、メシアであることを信じるキリスト者すべてに向けられている言葉ではないだろうか。私たちはこれを他人事としてではなく、この自分に向けられた言葉として聞かなければならないのではないだろうか。

 

71節でザカリアは救いの角なるイエスをこう言い表した。

「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」。

この言葉が語るのは過去についてではない。今、そして今より後の遥か将来を見越して語られた言葉であった。おそらくザカリアは分かっていた。幼子ヨハネが、またキリスト者、教会は世にある以上、敵対する者たちに脅かされ続けることが彼には分かっていた。敵と言ってもそれは武器をもって攻撃してくる相手だけではない。最も恐れなければならない敵は実は我々の中にいる。それは我々の中にある不信仰という敵である。神によって生かされている命であることを忘れて、自分が満足する為に神が存在している、自分の利益の為にイエスはこの世に生まれたのだ、と思い込み始めることである。それこそが最も警戒しなければならない敵である。

 

しかしながらこの方は、その敵の手からも我らを救ってくださる角だ、と言うのである。我々がクリスマスを過去の思い出にしてしまってもこの方は、これから後のあなたを、私を、神の御心を見失わせるようなものから救って下さる。この方が我々一人一人が神によって生かされた命であることを思い出させて下さり、神の栄光の為に我々に信仰が与えられていることに目開かせ続けて下さる、と言うのである。信仰とは、世にある一人一人に働きかけて下さる神の業である。人としてお生まれになった御子を通して一人一人に神が与える恵みの賜物である。その神の働きかけは、クリスマスをもって始まってはいるが終わってはいない。神の国が完成するまで、我々一人一人が神の御国に迎え入れられる時まで、決して終わることがない。その神の変わらざる御手を、世にある我々は拒んでしまう。見失いそうになる。自分を大切にする余り、自分を中心にしか考えられない余り、何でもかんでも自分の為にしか物事を考えられない余り、我々はそのような過ちを繰り返している。しかしそこからも、この方は救ってくださると言うのである。これからも、御手を伸ばして、我々を神の御心へと振り向かせ続けて下さる。幼子よ、キリスト者よ、あなたがたは主を知らない世の人々に先立って道を備え、彼らに罪の赦しによる救いを知らせるのだ。それは我らの神の憐れみの心によるのだと。ザカリアはそう預言していたのである。

 

こう言われて、皆さんは何を感じるであろうか。神は正しい者の為の神ではないのである。神は信じる者の為だけの神ではないのである。むしろ、不信仰極まりない我々人間を憐れみ、そこから解き放って下さる神なのである。信仰が完成している人間など何処にもいない。我々が神に全てを委ね切れないでいるならば、神はその御言葉の力によってそのような弱い人間の心を打ち叩いて下さる神なのである。我々が本当に神に全てを委ねきれるようになるまで、御子イエスを通して我々に注がれている神の惜しみない愛を我々が本当に心開いて受け入れられるようになるまで、神はこの御子を通して何度も何度も我らを赦して下さる。憐れみをもって罪の赦しを得させて下さるのである。

 

76節以下のザカリアの言葉、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」。この言葉は、今のクリスチャン、今の私に、そして皆さんに向けられている。あなたは、未だ主に出会っていない人々、これから主に捕えられる人々に先立って行き、その道を整え、罪の赦しによる救いを証しするのだと。皆さんのようなクリスチャン、世の教会に向けて言われている。まさしく教会は、主の救いを世に証しする為に、地の塩として建てられている。この私にそんなことは出来ない。証しするなんて無理だ。そう思う人もあろう。クリスマスを迎える為に五百キロ歩くなんて到底出来ない。そう思う人はもっといるだろう。そんなことまでしてしなければクリスマスを迎えられないなんて馬鹿げている、と思う人だっている。そう考える人達は、またもや神を自分の都合で考えている。自分でやれること、自分が出来ることしかやろうとしていない。けれども我々が地の塩になるのは、我々自身の力によってではない。我々の意志の力によってではない。神の憐れみの心によって、である。「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。ザカリアはそう言ったのである。

 

曙の光。それは雲一つない青空に燦然と輝く真昼の太陽ではない。闇の只中にあって、暗い空をこれから明るく染めていく夜明けの光である。決して過去になんかならない。それが救いの角としてお生まれ下さった御子キリストである。それはどんなに闇が押し寄せようとも、どんな困難や不安に押し潰されそうになっても、決して消えることなく我らを照らし続けておられる救い主なるメシアである。この方が我らを不信仰という敵から守り、救い出し、平和の道に導いて下さる。神の国、永遠の命へと続く希望の道に導いて下さる。この方を信じて、この方に全てを委ねて、ただひたすら来る日も来る日も歩んで良いのだと。神は憐れみの心をもってザカリアを通して今、我らに語りかけておられるのではないだろうか。

 

初めにご紹介したエチオピアのクリスマス。五百キロ千キロ歩いて巡礼者達が聖地ラリベラに辿り着く。各地から大勢の巡礼者が集って来るのは1月6日のエピファニー、即ち三人の博士らが馬小屋の飼い葉桶に眠る神の御子を訪ねて献げものを献げたと伝えられる日である。その地方では1月6日がクリスマスであり、その日の夜からラリベラのクリスマスは盛大に行われていく。その夜、様々なところで、一晩寝ないで翌朝まで賛美の歌が歌われ説教が語り続けられ大勢の人々が踊り続ける。翌朝クリスマスのセレモニーが終わると、巡礼者達は徹夜した疲れを感じる暇もなく、足早にまた自分の住む場所へ帰っていく。その彼らはとても満たされた顔をしていた。それは、これで神の国に辿り着けると確信する表情であった。

 

我々はどうであろう。この世の事柄に追い立てられ、古い自分のままでクリスマスを迎えようとしてはいないだろうか。神と共に生かされていることを忘れてはいないだろうか。だからこそ、曙の光は今年も我々の心の中に輝くと聖書は語っている。我々は罪という闇に直ぐにでも誘惑され神を見失うところにいるが、だからこそこの曙の光は我らを照らし続ける。神を見失うことがないように、永遠の命への道を歩み続けることが出来るように、我らを照らし続ける。我々が神へと振り向くまで、この光は我々に向かって終わることなく輝きを放ち続ける。500キロ歩かないまでも、その光の輝きを浴びていることに気づかされていくような、そんなアドベントへの一歩をご一緒に踏み出して参りたい。