「赦されているから」ヨナ4:10~11、マタイ18:21~35
2024年11月17日(左近深恵子)
赦せないことに苦しむこと、悲しむことがあると思います。赦すことがその人のためになるとは思えないから許さないという道を取ることも少なくないと思います。それは赦していないことなのか、それともある部分までは赦しているということなのか、よく分からないということもあるでしょう。悪い行いに対して罰を定め、それは実行されたけれども、だからといって赦せない思いが心から消え去らないということもあるでしょう。赦しということを、謝罪の申し出を受け入れるという意味で考えているのか、それとも責任を免じるという意味で考えているのか、自分でもよく分からない、相手もどう捉えているのか分からないということもあるでしょう。分からないままに、人との関係に迷ったり、悩んだりする私たちです。
主イエスは今日のマタイによる福音書の箇所で、譬えを用いて赦しを語っておられます。赦しは、18章でここまで語られてきたことの締めくくりとして、語られています。
18章の前、16章から主イエスは、それまでのガリラヤでの活動から、エルサレムへと方向を転換されました。エルサレムに行き、神の民であるはずのご自分の同胞、またその指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっていると、弟子たちに二度告げておられます。弟子たちはまだまだ主の言葉が理解しきれません。「そんなことがあってはなりません」とペトロは抗い、他の弟子たちは非常に心を痛めます。それでも彼らは主イエスと共に行動し続け、彼らなりにあれこれ考えます。彼らが何を考えていたのか、それが18章の初めで明らかになります。弟子たちは主イエスの所に行き、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたのです。これまで、主イエスが告げる天の国が近づいたとの福音を信じ、受け入れ、主イエスに従ってきた弟子たちです。“エルサレムに行き、そこで苦しみを受けると主イエスが言われるということは、いよいよ天の国が到来する時が近いのだ、イエス様がその国の王になられる時が近いのだ。ではその国で、弟子たちのうち誰が一番高い地位を得られるのだろうか、自分は他の人よりも高い地位を得たい”、そう思った弟子たちの間に言い争いが起こり、主イエスに尋ねるまでに至ったのです。その弟子たちに対して、人は互いをどのように受け容れ、互いの関わりを持つのか、主イエスは語り始めました。罪によって本来の在り方で生きられなくなっていた人々が、キリストによって新たに神さまに結び付けられ、人と人との間にもキリストによって新たな結びつきが与えられる。その人と人との神さまに喜ばれる交わりはどのようなものであるのか、18章でここまで語って来られました。神の国に入り、その一員でいるということは、私たちに置き換えれば洗礼によって神の子どもとされ、教会の一員になるということです。昔も今も、天の国の民の一人、神の家族の一人としての歩みは、世にあって日々生活してゆく一人一人の核となります。けれど、相手よりも高みに居たい、低いところにいるよりは高いところに居たい、小さい存在でいるよりは大きい存在でいたいという人の欲望、また他者や自分を主イエスに従う歩みに躓かせてしまう人の罪が、人を神の民の一員となること、一員として生きてゆくことの妨げとなってしまうことを、主イエスはご存知です。そのような弟子たちに、人の足に執拗に絡みつく欲望や罪に引きずられないようにと語られています。群れの中から一匹の羊でも迷い出るなら、その1人が失われないように、残りの99匹はそこに残してでも捜しに行くのだと言われます。そして、神の家族の中であなたに対して罪を犯す者がいたら、その人を失なってしまわないように、最善を尽くしてその人が立ち帰るように働きかけなさいと語られます。
主イエスの言葉に耳を傾けて来た弟子たちの中から、ペトロが立ち上がります。罪にひきずられないように、神の家族の一員が失われないように、為し得ることを為しなさいと語られた一つ一つを、ペトロは受け止めたのでしょう。人一倍真っ直ぐで、エネルギッシュなペトロです。互いの結びつきを強め、守るために、最善を尽くしなさいと語られる主イエスに、自分の最善を示したいと思ったのでしょう。自分に害を負わせたり、自分から大切なものを奪ったりした相手を赦すのは何回まででしょうか、7回ですか、と尋ねます。そのような相手を赦すのは、一度であろうとも本当に難しいことです。しかしペトロは7回と言ってみます。7は聖書の中で完全を表すものとして用いられることの多い数字です。ペトロの提案は決して細やかなものではありません。自分が考えられる最大の赦しという意味で、無限に赦しましょうかと言う意味で、7回と言ったのでしょう。それは口にしたペトロ自身、躊躇せずにはいられないほど高い設定です。「何回までですか。7回までですか」と尋ねる口調に、思い切って7と言ってはみたものの自信のないペトロの思いが垣間見えるようです。
「良くそこまで言った」と主イエスが褒めてくださることをペトロは期待していたかもしれません。しかし主は「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」と言われます。赦す度に数えて、490回までは頑張りなさいと言っておられるのではなく、赦しに限りは無いのだと言われているのでしょう。ペトロも無限のつもりで7回と言いました。しかし主イエスは、人が考え得る、実現が不可能だと思いながら背伸びをして掲げた最も遠いところを遥かに超えて、赦しを見つめておられるのです。
赦すということの難しさは、誰にも覚えがあるものでしょう。悪を行った側はことを矮小化し、過去のことと過ぎ去らせようとしますが、悪を向けられた側にとっては、思い出したくもなくても、過ぎ去ってくれないものでありましょう。心身の傷を抱え続けることも少なくありません。悪を生みだす罪は、深く、長く、人と人との関わりを破壊し続けます。その執拗さを超えて、法や常識で考えられる程度を超えて赦すことを、主イエスは神の民に求めておられます。
今日の箇所で「赦す」と訳されている言葉は元来、法的な責任からその人を解放することを意味します。新約聖書では、相手の罪や過ちに対し、罪を償う必要が無いと、その責任を免じることを意味します。相手に怒りや不快感を感じているかどうかは問われていません。赦しは、人の感情次第で変わることではなく、感傷的なことを指していません。この福音書を聞いてきた人は、主の祈りに登場したこの言葉に既に馴染んでいたでしょう。6:12で「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と主イエスが教えてくださった祈りで、「赦す」と訳されている言葉が同じ言葉です。神さまが既に、神さまに対する私たちの負い目を赦してくださっています。赦し続けるためにみ子まで私たちに与えてくださっています。それは感傷的な事柄ではありません。独り子をお与えになった神さまのみ心とみ業と、み心に従い通されたみ子のご生涯と十字架によって与えられている赦しです。本来私たちが償わなければならない、私たちが神さまに対して負っている罪の値を、み子の贖いによって免じてくださったということなのです。
神さまからの赦しをいただき、新たに引きずられてしまう罪の力の中でも神さまに赦しを願う道が与えられているから、神さまの恵みに感謝し、お応えしようと、私たちも自分に負い目のある人を赦すことができますようにと、主の祈りで祈ります。この祈りに生きることを忘れてしまうペトロと全ての者に、7の70倍と言う途方も無い数によって、人の思う無限を超えた赦しを語られた主は、「そこで」と譬えに入ります。天の国の民がいただく、神さまからの限度の無い赦しを、王と家来の譬えで語られます。
譬えの中の王は、家来の借金を帳消しにします。その額を表す「タラントン」は、新約聖書で用いられる金額の単位の中で最大の単位です。1タラントンは6,000日分の賃金です。その1万倍が、家来の借金でした。人が一生涯働き続けても、家族総出で働き続けても、到底達することのできないとてつもない額です。このような額で、天の国の王、神さまに対して人が負っている罪の重さが示されているのでしょう。人が自分の力によっても、用いられる力をかき集めても、周りの人を犠牲にしても償うことのできない、それほどに深いものであります。この家来は、自分の力が及ばないことを知りながら、家族や大切なものを失うことを先延ばしにしたくて、ひれ伏し懇願します。王から返って来たのは、この家来が期待すらしなかった驚くべき言葉です。家族を奪い財産を没収する猶予を与えるのではなく、家来を赦し、借金を帳消しにすると告げます。王はただ憐れみによって、赦しを与えます。「憐れむ」という言葉は、内臓を痛めるように相手の窮状を共に深く思う状態です。主イエスが語られた他の譬え話でも、重要な部分に登場します。家を出て放蕩の限りを尽くし、無一文となっていた息子が帰って来たのを遠くに見つけた父親は、憐れに思って、走り寄り、首を抱き、接吻し、家に迎え入れます(ルカ15:20)。「良いサマリア人」は半殺しにされて道端に置き去りにされていた人を見て、憐れに思い、応急処置をして宿屋に運び、介抱します(ルカ10:33)。失われていた人、失われつつある人へと自ら手を差し伸べ、赦し、受け入れてくださる神さまを伝える言葉です。主イエスご自身も、人里離れた場所へと向かわれたご自分の舟を追う大勢の群衆をご覧になり、深く憐れまれ、舟を降り、必要とする人々を癒されたことがこの福音書でも語られていました(マタイ14:14)。家来が負っている、返済しなければならないけれど、額が膨れ上がり返済不能となっている借金を帳消しにした王の決断は、はらわた痛めるような憐れみによるのだと、天の国とはこのようなところだと、主イエスは語られます。
続けて、家来の立場が逆転した状況が語られます。問われる借金の額が60,000,000万日分から100日分に減り、家来は債務者から債権者になっています。同じような状況であるからこそ、王とは異なる家来の言動が際立ちます。王に赦され、外に出た家来は仲間を見つけた途端、いきなり捕まえて首を絞めて借金の返済を迫ります。仲間は先ほど家来がしたように、しかし今回は仲間同士、同じ民同士でありながら、家来の足元にひれ伏し、家来と同じことを言って返済の延期を懇願します。自分が先ほど言ったのと同じ言葉を聞きながら、家来はまったく逆の結論を下します。仲間の言葉に耳を貸さず、相手のためにはらわた痛めることなく、この者に代わって家族が借金を返すまでと拷問係に引き渡すのです。
王はこの家来を「不届き者」と呼びます。文字通りに訳すなら「悪い家来」です。王は、世間の常識やその当時の法に照らし合わせて、この人の行動の良し悪しを評価しているのではありません。自分は赦されていながら、人を赦さない。自分は憐れみを受けながら、人を憐れまない。自分が受けた赦しは、人の決意や熱意や努力を結集しても、一生かかっても到達できない、王からの憐れみ、天からの憐れみであり、自分が求められているのは一生かからなければその穴埋めをすることができないようなものではない赦しでありながら、赦すことができない、ここにこの家来の悪があります。ヨナ書は、悪に満ちたニネベの人々が悔い改めたのを神さまがご覧になって、ニネベに災いを下そうとしておられたのを思い直され、ニネベの王と民を救うことにされたのを見て、ヨナが怒り、「生きているより死んだ方がましだ」と神さまに訴えたことを物語ります。神さまはヨナに、「あなたはとうごまのことで怒るが、それは正しいことか」と問いかけられます。自分自身の為に神さまの恵みを満たし、深い憐れみを注ぎ、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直されることは受け入れ、当然のようにその憐れみを受け入れるのに、他者にその憐れみが向けられると死ぬほど怒るヨナです。たとえ話の家来やヨナはこの自分だと、鏡を見るような思いがします。自分と他者と、異なるものさしで神さまから受ける赦しを測るヨナに告げられた神さまの言葉が、ヨナのような私たちにも語り掛けます。
マタイの譬え話の終わり、33節で「憐れむ」と訳されている言葉は、先ほどの「憐れむ」と訳された言葉とは別の言葉です。更に「憐れんで助ける、慈しむ、慈悲を施す」といったことも含む言葉です。家来は王の憐れみに倣うことをせず、王の憐れみによって自分に与えられた、王の慈しみの内に生活してゆくことのできる恵みに留まることを、自身の悪に妨げさせてしまいます。主イエスはペトロだけでなく弟子たち全体に向かってこの話をしておられたことが、「あなたがたも」と最後に弟子たちに呼び掛けておられることから分かります。この家来のようになってはならない。神さまから深く憐れまれ、赦されていながら、自分は心から相手を赦さない者となってはならない。神さまのご支配の中に入ること、神さまの恵みの内に留まることを自分の悪に妨げさせてはならないと、語られます。
キリストが、悔改めてこの中へと入りなさいと招いておられる天の国は、王なる神の慈しみが満ちているところです。1万タラントン赦された家来のように、私たちも、莫大な負債を赦された者です。良い羊飼いが、99匹を残して獣が潜む危険な岩場や、草も水も無い荒れ野を捜しまわり、抱き上げて家へと連れ帰ってくださった1匹の羊です。人よりも高みに居たいという思いが内側から消えない弟子たちのような者です。神さまのみ心から離れた言動が自分のみならず、他の人のことも躓かせてしまいかねない者です。その私たちの只中にまでみ子が降られ、私たちの悲惨さの中へと分け入ってくださり、み心から離れて道を見失って彷徨っている者を訪ね歩いてくださいました。自分が何故道を見失っているのか分からず困窮している者、自分が困窮していることに気づかず、自分が自分の王であると自分の熱量と努力が自分を押し上げるのだと虚空を打つような戦いをしている者、戦いに力尽きて諦めと不平の中に沈み込んでいる者、一人一人をその所から救い出すために、み子は私たちの負債の値をその命をもって払い、私たちを神さまのもとへと取り戻してくださいました。
私たちが既に与えられているこの慈しみを、他者と自分の関わりにも心から注ぐことを、慈しんで助けることを、主イエスは求められます。赦しの根拠は、人の我慢や善いことをしようとする頑張りではなく、神さまが憐れみから注いでくださっている、私たちが考える無限を遥かに超えた慈しみにあります。共に嘆いてくださり、罪を滅ぼしてくださった十字架に根拠があります。神さまに赦されている者であることを受け入れ、礼拝において7日毎に悔い改め、新たにされるところから、このキリストの言葉に生きる一歩が始まるのです。