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山を移す信仰

イザヤ41:8~13、マタイ17:14~20「山を移す信仰

2024年11月3日(左近深恵子)

 

ある父親が息子を連れて主イエスを訪ねてきました。しばしば発作に襲われてきた息子です。発作を起こし、意識を失って倒れればどこかを必ずひどく打ってしまいます。それによって深刻なダメージを受けるかもしれません。父親は、発作の際に火の中や水の中に倒れることがあったと言います。既に火傷を負ったり溺れたことがあるのでしょう。いつ発作に襲われるか分からず、深いやけどやひどい怪我、重い後遺症を負うかもしれず、溺れるかもしれない、死んでしまうかもしれないと、親は日々どんなに胸を痛めてきたことかと思います。

主イエスが多くの病人を癒やされたことを伝え聞いていたのでしょう。父親は主イエスに自分の息子も癒していただきたいと思い息子を連れてきたのですが、その時主イエスはおられませんでした。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちを連れて高い山に登っておられたのです。

今日の箇所は、主イエスがこれまでのガリラヤを拠点としたお働きから、受難と死が待ち受けるエルサレムへと向かうために、弟子たちに備えをさせておられるところと言えます。16章からその流れは始まりますが、主イエスはそこで先ず、ご自分をどのような方と考えるのか弟子たちに問われました。ペトロが弟子を代表して、「あなたはメシア、生ける神の子」ですと答えることができると、主イエスはペトロを祝福され、ペトロが言い表した信仰を土台の岩とすると、「この岩の上に私の教会を建てよう」と言われました。しかし、その後、主イエスがご自分の受難と死と復活を予告されると、ペトロは主イエスを脇へ引っ張って行って、「とんでもないことです」と主を諭そうとします。キリストの教会の礎となる信仰を言い表すことができたペトロですが、自分が口にしたことが本当に表しているものを、ペトロ自身、まだまだ理解していないことが露呈します。他の弟子たちも同様であったでしょう。そこで主イエスは弟子の中核的存在とも言えるペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を伴って山に登られました。これまでも主イエスは度々山に登って来られました。山と言う場所には、様々な危険が潜んでいます。山は、人が住まいを構えたり生活することは困難な場所であり、旅人の行く手を阻むような場所です。人里から距離のある山は主イエスにとっては、ご自分に癒しを求めて集まり続ける群衆から離れて過ごすことのできる場所でもあり、山の上でしばしば祈りの時を持っておられました。山の上で弟子たちに教えを語られることもありました。高い山であればその高さは、天の父なる神との祈りの交わりによりふさわしい所となりました。そのような高い山に主イエスは3弟子を伴って登られました。すると山の上で主イエスのお姿が変わり、天から「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声がしました。3弟子に、神さまが主イエスはどのような方なのか、示してくださいました。人としてお生まれになり、弟子たちや他の人々と同じように空腹も疲れも感じながら、枕するところも無いような労苦多い旅路を弟子たちを伴って歩んでおられる主イエスは、人となられた神のみ子であることを、神さまが天の光でみ子を照らし出して垣間見せてくださり、「これは私の愛する子であるのだと、み子に聴き、み子に従いなさい」と、言葉によって、弟子たちが進むべき道と、その道をどのように進むべきであるのかを教えてくださいました。

 光の輝きが去ると、弟子たちには神のみ子の栄光を見ることがまた叶わなくなりました。しかしいつもの主イエスのお姿に戻られても、主イエスが活ける神であり、神のみ子であることは変わりません。下山の道でも3弟子にご自分の死と復活を語られました。栄光に輝きながら山上に留まり続けるのでは無く、人々の無理解と敵意と嘲笑を浴びながら、十字架の死が陰を落とす地上の道を、人々に救いをもたらすために進まれることを語られました。

 そうして弟子たちや群衆が待つ麓に降りて来られると、発作に苦しむ子を持つ父親が主イエスを見つけ、主の所へと近寄ってきて、「主よ、憐れんでください」と言います。あなたの憐れみだけが自分たち家族の拠り所だと、自分の身を投げ出すように跪いて憐れみを乞い求めます。お弟子たちに頼んだけれど治すことができなかったのですと訴えます。ここでは訳出されていませんが、「お弟子たち」と言う言葉の後に「あなたの」という言葉があります。病を負って苦しんでいる大勢の人を癒やしてきた主イエスならばと子どもを連れて来たのに、主イエスの弟子たちだから治すことができると思ったのにと、弟子たちの無力さに打ちのめされている父親の姿があります。

 主イエスは嘆かれ、そして、人々に子どもをここに連れてくるように言われます。主イエスがお叱りになると悪霊が出て行き、子どもは癒されます。マタイによる福音書はここで初めて、この子どもを苦しめ、死の危険に晒してきたのは、悪霊の力であったことを短く述べます。この子どもが発作に苦しめられ、健康も日々の生活も脅かされている状態は、神さまのみ心に背くものでありました。しかしこの福音書は悪霊の力との対決を、今日の箇所の中心に置いていません。ここで出来事は終わりません。福音書は、親子から弟子たちへと、聞き手の視線を向けさせます。

弟子たちが主イエスの所に来て、なぜ自分たちにはあの子から悪霊を追い出し、癒やすことができなかったのかと問います。彼らは人目を避けて主イエスの所に来ています。人前に堂々と出ることができなくなっている彼らのこの行動に、彼らが主イエスの弟子である自分たち自身をどう見ているのか、表れています。主イエスという立派な先生の弟子であることが、彼らの誇りだったのでしょう。弟子としてのふさわしさが自分にあるという自負が、人々の前で弟子として立つ彼らを支えていたのでしょう。しかし、癒しを求める父親の期待に応えられず、主イエスの弟子としての力に欠けているという事実が露呈してしまった。そこで、自分を支えるものを回復する道を主イエスに求めて、人目を避けて主イエスの所に来たのでしょう。

 弟子たちを支える土台は、彼らの能力の素晴らしさではないのに、彼らは自分の力の上に自分を置こうとしています。弟子たちの土台は、神さまが弟子たちに現してくださり、ペトロが受け止め、言い表すことのできた、主イエスはどのような方であるのかという信仰であったはずです。そのことを主イエスから教えられてからさほど時が経っていないのに、弟子たちは、自分を置くところを見失っています。人の目に弟子として相応しそうな者であることが、自分を弟子としているように思っているから、自分の力に自信が無くなると人目を避けるようになります。それでいて、信仰という土台に立ちきれていないことは眼中に無いので、主イエスの眼差しは畏れていません。神のみ子の眼差しを畏れていないということは、神さまの眼差しを畏れていないということであります。彼らが最も恐れているのは、人の目、人の評価なのです。

 主イエスは彼らが神さまの働き手として力を発揮することができないのは、「信仰が薄いからだ」と言われます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら」と言われます。目に見えないほど小さな小さなからし種は、聖書では最も小さいものの代表のような存在です。そのからし種よりも弟子たちの信仰は薄いと言われます。からし種と比べるならば「薄い」というよりも「小さい」と言った方がしっくりくるかもしれません。ここで用いられている言葉は、大きさや量や程度が小さいことを意味しますので、「小さい」とも「不十分」とも「弱い」とも訳すことができます。ただ、信仰は弟子たちが拠って立つべき土台でありますので、「薄い」という訳によって、弟子たちがその上に立つこともできないほど薄いものであることを思わされます。「薄い信仰」という表現をこれまでも主イエスは用いてこられました。神さまではなく他の力を恐れる弟子たちや、守り養ってくださる神さまに信頼できずに、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い煩う者たちを、「信仰の薄い者たち」と言ってこられました。土台の岩は何であるのか、言葉にして言い表すことができたのになお、主イエスがどのような方であるのかということも、主イエスを与えてくださった神さまへの信頼も、脇へと置いたまま、自分の能力や他者の評価の上に自分を置いてしまう弟子たちです。

 主は、からし種一粒ほどでも信仰があるなら、山を移すことができると言われます。山を移すほどの信仰を主イエスは21章でも語っておられます。そこでも、信仰を持つならば山を動かすことができる、信じて祈るならば、求めるものは何でも得られると教えておられます(21:21~22)。山をまるで木のように根こそぎ引き抜き、動かすというこの表現は、聖書の時代に「何か不可能なことを行う」という意味で、よく用いられたそうです。見えない危険が潜み、生きていくことを脅かし、道らしい道も無く、死の陰が間近に迫る、圧倒的な大きさを持つ山は、人にとってまさに不可能や困難や死をも表すものでありましょう。その山を移すことができると主は言われます。それは、人のどんな願いでも叶うということではないでしょう。主イエスが救い主であるという信仰を土台に一歩、一歩、救い主に従おうとする道行きで、行く手に山のように立ちはだかる困難を克服することを祈り求めるならば、それは実現されるだろうと、あなたがたにできないことは何も無いと、告げておられるのです。

  ここで、17節の主イエスの言葉に戻ります。厳しく、耳を傾けるのが辛くなるような言葉です。この箇所を飛ばしても、出来事は十分流れるようにも思えます。子どもは癒され、父親は願いが叶えられました。理解が不十分であった弟子たちは、主イエスから新たに教えを告げられました。これで良いではないか、さあこの程度にして次の出来事へと先へ進もう、そのように思いたくなる私たちにとって、今日の出来事の中心にあるこの言葉は、道の真ん中に現れた、大きな壁のようです。

 主イエスは、なんと「不信仰で、歪んだ時代なのか」と言われます。「時代」と言われていますので、子どもを癒やすことができなかった弟子たちだけでなく、この時代の民全体に向けられていると言えるでしょう。更に、不信仰で歪んでいる、あらゆる時代とそこに生きる教会に向けられているとも、言えるでしょう。主イエスのお働きに貢献できない自分に自信を失う弟子たちの姿に、自分を重ね見ずにはいられない私たちです。この弟子たちのように、主イエスを知りながら、主イエスが生ける神のみ子、救い主であることに、自分を据えることができず、主イエスによって救いをもたらしてくださる神さまに信頼しきれない一人一人の不信仰と歪みを、キリストは嘆いておられます。

主イエスは、「いつまであなたがたと共にいられようか、いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と言われます。私があなたたちと共にいられるのはいつまでなのか、私たちがあなたに我慢しなければならないのはいつまでなのかと、嘆き、問いかけておられます。マタイによる福音書は主イエスが共にいてくださる救い主であることを特に大切に伝えています。福音書の初めで、天の使いがヨセフに主イエスの誕生を告げますが、この方は「インマヌエルと呼ばれる」と、インマヌエルとは、「神は私たちと共におられる」という意味であると告げられています。福音書の終わりでは、復活の主が弟子たちを全ての民に伝道するため遣わされますが、その結びにおいて、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と弟子たちに告げておられます。福音書全体が、共におられる神のみ子キリストと伝える言葉で囲まれています。その中で伝えられているのは、神のみ子が、私たちと共にいてくださるために世に降られ、人となってくださったということです。「いつまであなたがたと共にいられようか」と嘆かれながらも、世の終わりまで共にいてくださるために、死者の中にまで降られ、復活され、福音を宣べ伝えるために遣わす弟子たちを力づけてくださるということです。

「いつまであなたがたと共にいられようか」と言われながら、主イエスに共にいていただくには相応しくない弟子たちと主イエスは共におられます。「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆きながら、我慢できないほど不信仰で歪んだ弟子たちを我慢してくださっています。そして、弟子たちの無力さや挫折を主イエスが引き受けられて、発作に苦しむ子どもを癒やしてくださいました。信仰をどこかに忘れたまま、頼れるものはないかと彷徨い、不安や恐怖の内に思い煩ってしまう私たちを、丸ごと主が背負われ、私たちが為すべき働きを先ず為してくださっています。 主イエスから、不信仰で歪んだ自分の実態を見据えられてしまうことを避けながら、主の道を進もうとしてしまう私たちでありますが、17節の主の言葉とお働きがあるからこそ、主イエスを通して自分の弱さ、無力さへと目を向けることへと、そして主イエスがどのような方であるのか知ることへと背中を押されます。

 信仰を土台にしきれていなかった弟子たちですが、主イエスに「どうして、私たちにはできなかったのですか」と助けを求めることはできました。どうせ自分にはできないのだと諦めることをせず、他の力に助けを求めることをせず、行くべき方の所に行き、人には見せられない思いまでも注ぎ出すことができました。主イエスはこの弟子たちに、もう共にいられないと言われるのではなく、これ以上我慢できないと弟子たちを見捨てるのではなく、信仰を土台とすることへと新たに招いてくださいました。私たちも礼拝の度に、主イエスのみ前に進み出て、弟子たちのように、「主よ、どうして私たちは悪に勝つことができないのですか? どうして力を与えてくださらないのですか? どうして困難な道を歩ませるのですか?」と思いを注ぎ出すことができます。主のみ言葉によって、自分が土台しているものを問い直され、聖霊によって新たな者とされます。「恐れるな。私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神である。私はあなたを奮い立たせ、助け 私の勝利の右手で支える」と預言者を通して告げてくださった主なる神に、礼拝の度に、私たちの信仰を新たにされるのです。