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私は世に勝っている

2024.10.27.主日礼拝  

イザヤ35:5-10、ヨハネ16:31-33 

「私は世に勝っている」浅原一泰

 

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。彼の時代のアメリカでは黒人が白人に当たり前のように差別され、洗面所もバスの座席も黒人が隅の方に追いやられていた。差別される側にとっても差別する側にとっても、それはごく自然のことであったと言う。その現状を正すため、キングは「非暴力」による差別撤廃を目指し、バスに乗らないように訴えた。その時、バスをボイコットして歩いた人たちが歌ったのが、先程の讃美歌(Ⅱ164)、“we shall overcome”(我々は必ず勝利する)というゴスペルであったと言う。その出来事を契機に、白人の中にも人種差別の矛盾を感じる者が続々と現れ、やがて黒人白人合い混ざった20万人もの大群衆によってあのワシントン大行進が始まった。そこで「わたしには夢がある。奴隷の子と主人の子が同じテーブルについて中むつまじく共に食事をすることを」、というあの有名な“I have a dream”で始まる演説がなされるのであるが、その時の大群衆もまたあのゴスペル、“we shall overcome”を歌いながら行進したという。その運動は時の大統領J.F.ケネディをも動かすこととなり、遂に、人種を問わずすべての国民に平等の権利を与えるという、あの公民権法が成立することになる。

 

「やられたことはやり返す」。これを聞いて皆さんはどんなことを思うだろう。「それは良くない考えだ、新たな争いを巻き起こすだけだ。」そんな風に思われる方が多いのではないかと思う。もちろんそれは良くないと私も思う。しかし現実はどうだろう。陰口やSNSを使った誹謗中傷から国を挙げての戦争に至るまで、結局は敵対する者への恨みつらみや憎しみでこの世界は回っていないだろうか。人間は自分がしてもらった良いことは忘れてしまうけれども、悪口だとか嫌なことは決して忘れない、と言う。会社員だろうが政治家だろうが経営者だろうが教師だろうが家庭の主婦であろうが誰だってそのように思っている筈だ。「やられたことはやり返す」のは「当たり前だ」と思う人は何の疑問もないだろうが、皆さんのように「良くない」と思っている人は、良くないと分かっているのにどうしてもそう思ってしまう自分を変えたくても変えられない「もどかしさ」を感じて来たのではないだろうか。誰だってそう思ってしまうそれは本能のようなものなのかもしれない。

 

聖書の中でイエスが、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言った話は有名である。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言ったこともよく知られている。そう言ってイエスは、我々人間が「当然ではないか」と思う本能に逆らってでもそうすべきだ、と求めたのではないだろうか。イエスは綺麗事としてこれを言ったのではない。神の子でありながらイエスは捕らえられた後、人から殴られ、唾吐きかけられ、罵られた上で最後は十字架の上で空しく息を引き取ったからだ。

 

冒頭にご紹介したキング牧師、そして彼の魂からの訴えに影響を受け、賛同して讃美歌を大合唱しながら歩いた群衆たちのワシントン大行進。あの時、間違いなく彼らは「やられたことを真摯に受け止めはするけれども決してやり返さない」道を選んで歩いていたのではなかっただろうか。その後、キングは凶弾に倒れて帰らぬ人となるけれども、死を目前にした彼は最後にこう言う言葉を残したという。

「“we shall overcome.”我々は必ず勝利する。たとえどんなに遠回りしても、そこに正義が存在する限り。“we shall overcome.”我々は必ず勝利する。なぜなら偽りが、永遠に存在し続けることはあり得ないから。“we shall overcome.我々は必ず勝利する。私はそれを心の奥深くで信じている」。

 

彼のこの言葉にはメッセージが込められている。天地万物の造り主なる神によって造られた一人一人の命に、身分の貴賎の区別も、能力の優劣の区別も、そして皮膚の色による差別も存在し得ない。だから決して存在させてはならない。そのことを彼は正義と呼び、そこに人々の心を立ち返らせたのであり、その正義こそが新たにされた人々の大群衆が生まれるきっかけとなった。そう言って間違いないと思う。しかしながら、死が目前に迫っているいまわの際において、キングはなぜ気丈にもあのように言えたのだろうか。キングをそのように奮い立たせて動かした力の源はどこにあったのであろうか。

 

 

先ほど読まれたヨハネ福音書の御言葉の最後のところで、主イエスは弟子達にこう言っておられた。

「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。

Revised Standard Versionという英訳聖書にはこの言葉がこのように訳されている。“I have overcome the world.”(私は既に世に勝っている)。キングは「必ず勝つ」と歌い、主イエスは「私は既に勝っている」と言われた。イエスはこの時、既に父なる神の御許に帰る時、即ち十字架の死を遂げる時が来ていることを自覚していた。父なる神の御許、即ち神の国とこの世とは天と地以上の開きがあることは皆さんもお分かりだろう。しかしこの世にしか生きられなかった者たちの目を開き、耳を開いて、またこの世でしか歩けなかった者たちを奮い立たせ、立ち上がらせるために神の子イエスは人間の姿形を取ってこの世に来られた。先ほどのところは、そのイエスが世を去る時を目前に控えて、世に残されることになる弟子たちとの対話を締め括るイエスの言葉が記されていた。

 

イエスはお答えになった。「今、信じると言うのか。見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。」

 

イエスが捕えられた時、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去ったことはご存じだろう。「あなたを信じます」と口を揃えて言っていた彼らがその舌の根も乾かぬ先にイエスを見捨てたのである。その弟子たちの姿は、今のこの時代に教会に繋がって礼拝を守る度ごとに信仰を告白している我々クリスチャンの姿でもあるのではないか、と正直私は思っている。ひょっとしたら私たちも、イエスを見捨てて逃げ去りたくなるような試練を味わっていないだけなのではないか。あのコロナ禍に見舞われた数年間、教会に集まって賛美の声を合わせることも許されなかったあの時、教会に向かうことさえままならなかったあの時、私たちはふとこういう思いが心に過らなかっただろうか。今は身の安全、命を守ることが第一だと。キリストもきっと分かってくれるだろうと。そう思うことで、本当はどんな時にも近くにいてくれるキリストに向き合うことをしないで、実はキリストを遠ざけてしまってはいなかっただろうか。

 

「私を独りきりにする」というイエスの言葉は、弟子達が逃げ去っていくことを指している。最後まで主に従おうとしたペトロでさえも、鶏が三度鳴いた後に主を否んだ。それも死の恐怖の故であった。主イエスの弟子であることが知れたら、自分達も捕えられて殺されるかもしれないという不安、恐怖が彼らの心の中を過ったからである。主であるイエスを見捨てる。結局弟子達は、イエスのことを第一に思ったのではなく、十字架にかかるイエスを本当の意味で信じ切っていたのでもなく、己自身の身の安全を選んだ。その時、蛇に揺さぶられて神の言葉を破ってしまうアダムの原罪が弟子達の中に、そしてコロナや予期せぬトラブルの為に信仰をぐらつかせてしまう私たちの中にも顔を覗かせているのではないだろうか。我々も本音のところでは、己が身の安全の為に、己に益となる面があるから主に従おうとしているのではないのか。もし主を信じることで命の危険に曝される状況へと追い詰められたなら、「それでも私は決して主を見捨てることはない」と、どこの誰が言えるのだろう。あの原罪が何時どの様に顔を覗かせるのかは誰にも予測は出来ない。しかし誰もその罪の力を抑えることなど出来ないのではないだろうか。

 

それは私たちが、世にある人間全てがこの世に置かれているからである。父なる神の御許には、一人として誰も置かれてはいないからである。そのような我々人間の思い煩いの全てを見抜いていたからこそ、分かっておられたからこそ、主なるイエスはこう言われたのではなかっただろうか。

 

「しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

 

世にある以上、世に属している以上は、アダムのように人間は自分中心にしか考えられない。責任をエバに擦り付けてまでして自分の命を守ろうとする。そのような我々人類の身勝手極まりない罪がはびこり続けるのがこの世である。それが原因となって不正義、不正、不公平、不条理、邪悪な動きがはびこり続けるのがこの世である。そのような世の不条理に対し、人類すべてが抵抗も出来ずにただ流されているだけなのがこの世である。しかし神は人間の姿形にまで身を落として世に来て下さった。人となった神イエスは、世に流される人類すべての身代わりとなって我々罪人一人一人の弱さ、醜さ、あざとさ、傲慢さのすべて、私たちを操っていた罪の猛威のすべてを自分に向けさせ、目を背けることなく、逃げることなく、その全てを真正面から受け止めて十字架にかかって我々の犠牲となる道を進んだ。十字架へのその道を最後まで歩み抜くことを確信してイエスは、「私は既に世に勝っている」と言われたのである。

捕えられ、十字架にかけられ、惨めにも殺されることのいったいどこが勝利だというのか。罪に支配されたままのこの世にどっぷり浸かっている人間はそう思う。そのようにしか物事を見ることが出来ないこの世に染まってしまっている人類に、このイエスの十字架への道のりが声なき声で、しかし消えることなく訴え続けるものがある。先ほど読まれた預言者イザヤの言葉を思い出していただきたい。

 

「その時、見えない人の眼は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口の利けない人の舌は歓声を上げる。」

 

見えない者、聞こえない者、歩けない者、口の利けない者を切り捨てるのがこの世である。勿論それに抗い、その者たちが生きて輝ける場所を作ろうと努力を重ねて来た善良な人々はいる。しかしこの世においては、この世である以上は、世の片隅へと片付けられてしまうのが現実なのではないだろうか。8年前の津久井やまゆり園で起きた悲惨な出来事が二度と繰り返されないという保障はどこにもないことも歴然たる事実ではないだろうか。あのような悲劇が起こるや否や、世に住む我らは余りにも簡単に希望を失い、この世を憂えるだろう。

 

それでも、だからこそ、イエスは言っておられる。「しかし勇気を出しなさい」。「私はすでに世に勝っている」と。人となった神イエスは、見えない者の目を開くため、聞こえない者の耳を開くため、歩けない者を立ち上がらせ口の利けない者に歓びの声を挙げさせるために世に来られていた。それを実現、完成させるためにイエスは罵られても罵り返さず、右の頬を打たれたら左の頬を差し出し、唾吐きかけられても無抵抗を貫き、十字架への道を最後まで歩み抜かれた。そのイエスを神は死からよみがえらせた。まさしくそれは、この世でいかなる苦難があろうとも、いかなる不公平、不条理がはびころうとも、やられたことをやり返すことなく、浴びせられた罵声や受けた苦しみに対して仕返しすることなく、イエスに倣い、イエスを信じて、またこのイエスを死からよみがえらせた神を信じて心に燃え立つ正義を、自らが信じる道をひたすら歩き続ければ良い、という神の声ではないだろうか。

 

「“we shall overcome.”我々は必ず勝利する。たとえどんなに遠回りしても、そこに正義が存在する限り。“we shall overcome.”我々は必ず勝利する。なぜなら偽りが、永遠に存在し続けることはあり得ないから。“we shall overcome.我々は必ず勝利する。私はそれを心の奥深くで信じている」。

キング牧師、そしてワシントン大行進を歩いた群衆は、歩き続けることを通して「しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」というあのイエスの言葉に応えていたのではないだろうか。

 

先日、日本から51年ぶりに被団協がノーベル平和賞を受賞した。広島、長崎のあの日から79年。既に数多くの被爆者は世を去っている。しかしその方々も、この世の生涯に幕を閉じたとしてもきっと諦めることなく、終わることなく、核兵器廃絶と真の世界平和を求めて「我々は必ず勝利する。たとえどんなに遠回りしても、そこに正義が存在する限り」と歌い続け、叫び続けておられたと思う。その魂の声がようやく認められた。しかし世に核兵器が存在する限り、更に言えば人の心に渦巻く邪悪な思いがくすぶり続ける限り、ワシントン大行進の人々の歌も、被爆故に犠牲となった方々の叫びは決して終わらない。終わらせてはならないと思う。

 

勝ち組でいたいがために目先の勝利ばかりを追い求めるのか、たとえ理解してもらえなくても、正義を信じて自分の行く道を定めるのか。教会につながる私たちも、世にある以上はその選択を迫られ続ける。しかしながら、人となった神が言った「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というあの言葉を心に刻んで、主であるイエスの道を最後まで歩き続ける群れでありたいと心から願う。