「主の道を行く」イザヤ55:6~7、マタイ16:21~28
2024年10月20日(左近深恵子)
聖書には何度だって聴きたいと思うような主イエスの言葉が記されています。例えば、「心の貧しい人々は、幸いである」と祝福を繰り返すことから始まる山上の説教には、心にじんわりと染み入るような言葉が溢れています。聖書にはまた心に刻み付けたくなる主イエスの姿があります。ご自分を求めて集まってくる人々が、羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた主イエスの姿や、お腹を空かせた大勢の人々のために、僅かなパンと魚を取って、感謝してそれらを裂き、分け与えてくださった主イエスの姿に力づけられます。
しかし今日の箇所が伝える主イエスの言葉や姿には、非常に厳しいものがあります。赦しや安らぎを求める私たちの心をざわつかせ、強張らせます。そこまでおっしゃらなくても良いのではないか、厳し過ぎるのではないかと、抗う思いも起こるかもしれません。私たちを困惑させる箇所です。
この頃、民の指導者たちの主イエスに対する警戒が強まっていました。主イエスは弟子たちと共にガリラヤの地域で神の国の到来を告げ、悔い改めを呼び掛けてこられましたが、大勢の人が主イエスを求めて集まるにつれ、指導者たちの姿も見えてきます。12章では、律法学者とファリサイ派の人々が、「しるしを見せてください」と要求しました。主イエスが語っていることの証拠を見せてくれと、そうすれば納得すると。今日の箇所の少し前、16章の初めでも、同様の要求がファリサイ派とサドカイ派の人々から上がりました。今回は彼らが理解し納得するためではなく、主イエスを試すためにしるしを要求したことがはっきりと記されています。証拠があれば人々はより納得するぞと誘惑するためであり、証拠が出せないならお前の言っていることは信用できないことになると揺さぶるためであったのでしょう。これ以降、ファリサイ派の人々は何度も主イエスを「試そう」とします。
主イエスは福音を宣べ伝えるお働きを始める前に、既に「試す」者と対峙しておられました。荒れ野で40日40夜、悪魔から試みを受けられたことが4章に記されています。悪魔は「試みる者」とも表現されています。荒れ野の「試み」も、指導者たちの「試す」と同じ言葉で述べられています。悪魔は、あなたが神の子ならこれらの石がパンになるように命じて見せたらどうだ、神の子なら、高い神殿から飛び降りて神が遣わす天使たちに守られるところを神殿に来ている大勢の人に見せたらどうだ、そう言います。“神の子としての力を駆使して証拠を示せば、コスパ、タイパ良く福音の宣教を推し進められるではないか”と誘惑し、主イエスを自分の力の下に引き寄せようとします。ファリサイ派の人々の「しるしを見せて欲しい」という試みも、熱心さを装いながら、主イエスを神さまの道から離れさせようとするものです。この人々を後に残し、主イエスは弟子たちを伴ってフィリポ・カイサリアの地方に行かれたのです。
主イエスに敵対する者たちの攻撃は今後更に増してゆきます。その敵対者たちが手ぐすね引いて待ち受けるエルサレムへと、これから主は向かおうとしておられるのが16章です。エルサレムに向かう前に、弟子たちに、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われます。シモン・ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。シモンに主イエスがつけられたニックネームであるペトロという言葉は、遡ると岩を意味します。主イエスは「あなたはペトロ、この岩の上に私の教会を建てよう」とみ心を明らかにされます。ペトロ個人が教会の土台そのものなのではなく、ペトロが告白した信仰を、主は教会の土台とすると告げてくださったのです。ペトロはこの日、神さまが現わしてくださったことを受け止め、信じることへと導かれ、主イエスのみ前でその信仰を最初に告白することができた者となり、このことで最初に主イエスから「あなたは幸いだ」と祝福された者となりました。この日確かにペトロは、教会の土台の岩に最も近い者でありました。しかしその直後に記された今日の箇所で、ペトロは主イエスのみ業の土台となるどころか、主の歩みを遮る、妨げの石となったことを聖書は伝えているのです。
主イエスはここからエルサレムを目指します。ご自分が何のためにエルサレムへと進んで行かれるのか、エルサレムに到着されるまで三度に渡って弟子たちに予告されます。一度目が今日の箇所です。民の指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると。「ことになっている」と言われます。この表現は、このことが神さまによって定められたことを表します。民の指導者たちによって主イエスは苦しみ、死んでゆかれるのは、主イエスが避けたいのに避けられずに追い詰められてそうなるということではありません。人々が自分たちの意志によって為す悪を貫いて、神さまが救いのご計画を進められることを意味します。この日主イエスは初めて弟子たちに、この神さまのご計画を明らかにされたのです。
弟子たちにとってそれは理解し難い内容であったでしょう。救い主、メシアを、神の民は待ち望んできました。主イエスこそその救い主であると、ペトロは信仰を告白することができました。神さまが遣わしてくださったこの生ける神であり、神のみ子である救い主が、ご自分の民に苦しめられ、攻撃する者たちにされるがままになって、ご自分の身を守ることができずに死んでしまうはずがない、そうペトロは思ったのでしょう。主イエスを脇へと引っ張って行き、諫めます。福音書を通して、拙速に行動しては主イエスに咎められる言動が印象深いペトロです。私たちは今日の箇所のペトロに対しても、“また先走ってこんなことをして、まったくペトロらしい”と呆れつつ、立派に信仰告白をしたけれど、やはりペトロにはこういうところがあると親近感を覚えたり、行動せずにはいられないその情熱に好感を覚えるかもしれません。そうして、ペトロに対する主イエスの言葉を厳し過ぎると感じ、困惑を覚えます。
主イエスの予告を聞いたペトロの受け入れがたい思いが、私たちの中にもあるからです。救い主が自分の民に理解されず、寧ろ救い主であることを民の指導者たちが率先して否定し、人々から苦しめられ、結局そのまま殺されてしまうような救い主を、誰も求めません。人々のために偉大な働きをする者が志を貫くために苦しみを受けて、死ぬということは、あり得ます。ペトロや弟子たちも、救い主に対してそのような死もあり得ると考えていたことでしょう。“主イエスは、大国ローマ帝国の支配下にある自分たちを救い出すために、厳しい戦いも辞さないおつもりだろう、民の指導者たちともいずれ激しく対峙する時が来るかもしれない、ご自分の命が危険にさらされることも覚悟の上で自分たちを救うために働いてくださるのだろう”、そう考えていたのではないでしょうか。これまで弟子たちは主イエスが大勢の人々を癒やされたり、ガリラヤ湖で嵐を鎮めたりされるのを見てきました。“そのお力を駆使してこれから大いに活躍されると、偉大な働きを為してくださると期待していたのに、攻撃されるだけなどと言われる。ただ苦しみ、ただ殺されるだけなどあり得ない。そのような苦しみからは主イエスを守らなければ、目を覚ましていただかなければ”と、ペトロは主イエスを諫めようとしたのでしょう。
自分や自分の大切な人が苦しみの中にあり、心身が傷つけられる危険や尊厳が奪われる危険、生命が脅かされる危険に直面する時、神さまに祈ることを知る者は、神さまが何かしてくださることを祈り願います。神さまに願うのは、苦しみの原因がその人の日々から取り除かれること、心身の健やかさ、尊厳、生命が守られることでしょう。不安や恐怖の内に眠れない夜を過ごし、朝日が昇った途端再び、今日一日を自分や大切な人が守られるのか不安や恐怖に襲われる、そのような日々の中にまだまだ多くの人が居るのに、悲惨で孤独な死を、ほとんどの人に知られることも無いまま死んでゆく人もこの時多くいるのに、戦いに打って出ることも無く、神殿から無傷に着地できるような力で圧倒的な奇跡を起こして敵対者たちを倒すこともなく、ご自分を敵対する人々の攻撃から守ることも無く、苦しみながら死んで行かれる方を、救い主と信頼し続けられるのか、その方への信仰を土台に信仰者の群れとして建ち続けられるのか、その一人として立ち続けられるのか、救い主をどのような方と考えているのか、問われます。ペトロだけが主イエスが救い主であることをしっかり理解していないのではありません。生きることの困難さに直面する度に、救い主が対峙してくださったもの、ご自分を捧げて滅ぼしてくださったものは何であるのか、問われます。
主イエスを脇へと引っ張っていったペトロは、主イエスを思う熱意から行動したのでしょう。救い主を待ち望んでいる他の人々のためにも、主イエスを受難から守り、主の道を正そうとしたのでしょう。ペトロの思う正しさに添った、ペトロの善意から出ている言動に見えますが、主イエスはペトロをサタンと呼びます。荒れ野で主イエスを試みたサタンのように、ペトロの言動は主イエスを神さまの道から引き離そうとするものであります。引き離して、救い主を自分の意に従わせようとするものであります。神さまのみ心が実現することを求める心からではなく、自分の願いに救い主が貢献することを求めるペトロは、主イエスが祝福された岩から今や離れた者と、妨げの石となってしまっています。それはサタンに同調することなのだと、告げるのです。
主イエスによってペトロも、他の弟子たちも、そして私たちも、神さまが与えてくださる救いを知りました。救い主を与えてくださった神さまを通して、自分や他者を見ることを教えられました。ペトロが信仰を告白したものの、なお自分たちが何から救われなければならないのか、本当の救いとは何であるのか、明確に見えていないことに気づいていないように、私たちも自分の不十分さ、不正確さが見えていないことをなかなか受け入れられない者です。ペトロのように、自分の願いから出る善意と熱心さを信仰と勘違いし、自分に主イエスを従わせようとしてしまう過ちから、決して遠い者ではありません。
ペトロに主イエスは、「サタン、引き下がれ」と言われました。荒れ野で「退け、サタン」と言われた時と同じ言葉を用いつつ、荒れ野では言われなかった「私の後ろに」という言葉を加えてています。サタンにはご自分から離れることを命じましたが、ペトロには身の置き場所を改めなさいと、ご自分の後ろに下がりなさいと言われています。「引き下がれ」と訳された文は、「私の後ろに、行きなさい」という文です。かつてガリラヤ湖で漁をしていたペトロとアンデレを弟子として召してくださった時も、主イエスは「私の後ろに付いて来なさい」と言われました。この日再び、「私の後ろに、行きなさい」と呼び掛けてくださり、弟子としての唯一居るべき場所を示してくださいました。「引き下がれ」という言葉によって、“悔い改め、私に立ち返り、私につながり続け、従い続けなさい”と呼び掛けておられます。この主の言葉を、厳しすぎると私たちは言えるのでしょうか。
そして主は弟子たち全体にも、信仰者とは主イエスの後からついて行く者であることを教え、信仰者のあるべき姿を教えます。それぞれの内側に、自分の思う自分の道に救い主を従わせたい、自分の思いに救い主を仕えさせたいという思いを潜ませている一人一人の心に、神さま抜きに人間の思いで自分や他者を救おうとする自分を捨て、主に従うことを教えます。苦難から解き放たれることが救いであると思う人の心に、そのような自分を捨て、キリストに従うゆえに負う一切の重荷を、共に担ってくださる主に支えられながら負いつつ、キリストの後を従うように語ります。苦難を受けることそのものを理想化し、苦しみ多いことに価値を見出し、誇る人の心にも、そのような自分を捨て、人の苦しみでは代価にならない人の罪を背負われ、人の罪のために苦しみと死を受けてくださったキリストの後に従うように語ります。自分の命を救おうと思う者は、それを失うと主は言われます。ここで語られている自分の命とは何であるのか、様々な言い方があり得るでしょう。自分が最も大切にしているもの、自分が最も関心を寄せているものとも言えるでしょう。それが最も大切なのだと言う思い、それが最も重要だと言う考えを、神さま抜きに貫こうとしてしまうこころが私たちの中にあります。神さまから与えられているものとして自分の命を喜こぶことができるようにと、神さまにつながって生きることができるようにと、独り子を与えてくださった神さまに対してさえ、自分が主である道を譲ることができない者は、結局自分の最も大切なものを守ることができません。罪の中死に滅ぼされて終わってゆくことを恐れる私たちが、神さまに赦されている平安の内に、死を超える命を与えてくださった神さまを仰ぎながら生きていくことができるように、受難と死が待ち受ける一筋の道をみ子は行くしかないと神さまは定められました。この道を進んでくださり、ご自分の命を捨ててくださったキリストに、自分を譲り、委ねることができない者は、結局自分の最も重要と思うものを守ることができません。キリストは、私たちが自分だけを見つめ、自分で自分の後を行くような、キリストさえも自分に従わせるような道を求めるのではなく、私たちの罪の値を代わりに背負ってくださり、罪の内に朽ちて行くしかない死を滅ぼしてくださり、終わりの時に再び来られ、救いを完成してくださるキリストの十字架と復活を見つめ、背中を見つめつつ歩むようにと、呼び掛けておられます。
ペトロとペトロが代表する一人一人に向けられた厳しく聞こえる言葉は、信仰者が口にする信仰の告白を真の告白としてゆくために、救い主とはどのような方なのか、救い主に従うとはどのようなことなのか教え、導いてくださる言葉です。預言者イザヤも、「悪しき者はその道を捨て、不正な者は自らの思いを捨てよ。主に立ち帰れ、そうすれば主は憐れんでくださる」と、私たちの神の赦しを語り、悔い改めを呼びかけました。主を自分の道へと従わせようとする心に呼び掛けてくださるキリストの言葉に耳を傾け、キリストを尋ね求めつつ、その後を共に歩んで行くのです。