「教会の土台」イザヤ53:1~10、マタイ16:13~20
2024年10月13日(左近深恵子)
フィリポ・カイサリア地方に行かれた主イエスは、この日弟子たちに、人々がご自分をなんと言っているのかと問われました。彼らは直ぐに人びとがどう言っているのか答えます。弟子たちの報告から、人々はまだ主イエスのことを理解していないことが分かります。領主ヘロデが勘違いをしていたように、主イエスのことを洗礼者ヨハネの生き返りと思う人もいれば、終わりの時にメシヤ、救い主に先立って再来すると人々に信じられていた預言者エリヤだと言う人もいる。中には預言者エレミヤだという人も、他の預言者だという人もいます。人々は概ね、主イエスは神さまから遣わされた特別な方だと、神さまが約束された救い主に先立つ預言者ではないかと思っていたようです。
ではあなたたちは私を何者だと言うのかと、主イエスは弟子たち自身の考えも問います。他の人々が主イエスをどのように考えているのか知るのは、弟子として大切なことです。けれど自分自身を主イエスのみ前に置かないままであったら、自分のことは脇に置いて他者を観察する傍観者になってしまいます。あるいは人々の様子を主イエスに伝え、主イエスから命じられたことを人々に伝えるだけの者になってしまいます。主イエスに従う者は誰でも、自分のこととして、主イエスはどのような方なのか考えることが問われます。考え、それを主イエスのみ前で言い表すことが求められます。主イエスは応えることを待っておられます。
主イエスはどのような方なのか、自分の中で問うということも確かにあります。その時々で、主イエスに求めること、主イエスについて強調したいところは変わり得るでしょう。自分の中だけで考えている限り、自分で考えたいように考えられてしまいます。しかし主イエスのみ前で問われたら、自分の理想や好みを言い張って、偽りの主イエス像を、主イエスご自身に押し付けることはできません。もし自分の造り出す偶像が主イエスだとしてしまうなら、主イエスに従ってきたこれまでの日々は、自分の願望に従っただけとなってしまいます。主イエスがどなたであるのかという問いは、私たちの思いと行動が何によって支えられているのか、問うことでもあります。弟子たちは漁師であれ他の職業であれ、それまでの人生を何もかも後にして、主イエスに従ってきました。主イエスから町や村に遣わされ、福音を宣べ伝える主イエスのお働きのお手伝いもしてきました。主イエスがどのような方であるのか、という問いに答えることは、彼らが何故主イエスに従ってきたのか、その理由を述べることであるのです。
弟子たちの中で口を開いたのはここでもペトロでした。他の人たちがまだ答えが定まらず、答えに自信が無く、口を開くことに躊躇していても、大抵ペトロは真っ先に口を開き、彼らの思いを言葉にします。主イエスによって召された弟子たちの筆頭であり、12弟子のリストの第一の者として先頭に立っているペトロは、弟子たちを代表する存在となっています。
ペトロは言います、「あなたはメシア、生ける神の子です」と。神さまが約束されてきた救い主はあなたですと、あなたは木や石を刻んで造ったような偶像ではなく、生ける神のみ子ですと答えます。ペトロたち弟子が、舟も網も、彼らの生計を支えていたものを全て後にして従ってきた方、そのお働きを手伝って来た方は、救い主であり、生ける神の子だと、応えたのです。
この答えを、ペトロは突然思いついたわけではありません。かつてガリラヤ湖で嵐に襲われ、逆風に悩まされ、弟子たちの乗る舟が前に進めず、死の危険の中にあった時、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちの方へと来てくださったことがありました。ペトロは、水の上を自分も主イエスのように歩きたい、嵐の激しい波の上にあっても主に従う弟子でありたいと願います。主イエスから来なさいと言われ、歩き始めます。しかし激しい風に恐れをなした途端、ペトロは沈み始めます。そのペトロを主イエスが助け上げ、ペトロと共に舟に乗りこまれると、嵐は静まります。その時舟の中の弟子たちはこの方がどなたであるのか、気づかされました。彼らは口々に、「まことに、あなたは神の子です」と言って主イエスに跪いたのです。
その後も弟子たちは、主イエスのお働きを見てきました。大勢の人を癒やし、共同体の中へと回復させ、それを見た人々が神さまを崇める様子を、何度も見ました。人里離れた寂しい場所にまで主イエスを求めて集まって来た群集の空腹を、主イエスが僅かなパンと魚で満たしてくださった出来事では、弟子たち自身が主イエスからパンと魚を受け取っては、人々に分け与える働きに携わりました。この日ペトロは、かつて湖上で自分たちが言ったように、この方は真に神の子だと、それだけではなく、この方こそ救い主だ、生ける神だと、そのような思いで答えたのでしょう。そして他の弟子たちも、本当にそうだと、その通りだと、頷く思いだったのではないでしょうか。
これを聞いて主イエスは、「あなたは幸いだ」と言われます。「幸い」だと祝福しておられる言葉は、山上の説教で「心の貧しい人々は、幸いである・・悲しむ人々は幸いである・・・」と語られた時と同じ言葉です。また主イエスは以前この言葉で、弟子たちに、預言者たちや律法を守り正しいと言われた人たちが、見ることができず、聞くことができずに来たことを、あなたたちは見聞きしているから幸いだと、祝福してくださったこともありました(13:16)。主イエスは、ペトロが主イエスをメシア、生ける神の子であると答えたことを、ご自分が望んだ答えが返って来たから幸いと言われたのではなく、ペトロにとっての幸いなのだと、本当に素晴らしい、喜びに満ちたことだと、祝福してくださっているのです。
主イエスがこのように喜んでくださるのは、神さまがペトロに現してくださったことを、ペトロが受け止めているからです。主イエスが救い主、生ける神のみ子であると信じる信仰は、人が自分の力で自分を至らせることではありません。これまでも主イエスは、神さまの救いを人に現わすのは、人の持っているものによるのではないことを語ってこられました。自分たちの知恵や賢さを誇りながら悔い改めない人々のことを嘆き、天地の主である父に、あなたは「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました」と祈られたこともあります(11:25)。ペトロたちは主イエスによって従うことへと招かれ、主イエスのお働きに日々触れ、自分たち自身も助けられ、身内を癒され、空腹を満たされてきました。その彼らが見聞きし、味わってきたことは、この方こそ救い主であり、生ける神の子であることを示しているのだと、父なる神が彼らに現わしてくださいました。ペトロたちは、この真理を信じることへと導かれています。弟子としての理解や働きはまだ十分なものではないでしょう。弟子として苦労していることもあるでしょう。しかし主イエスに従う日々を送ることができ、主イエスを救い主と信じる信仰を神さまから与えられ、それを言葉にして告白することができたあなたは本当に幸いであると、主は祝福しておられるのです。
主イエスはこのペトロを通して、弟子たちに、二つの約束を与えてくださいました。一つ目は、「ペトロ、この岩の上に、よみの門も打ち勝つことのない私の教会を建てる」というものです。この時はまだ、教会と呼ばれるものは誕生していません。主イエスの復活の後に誕生してゆく教会全体のことが、ここで「教会」と言われています。教会と言う言葉は遡ると、神さまに呼び集められた民という意味の言葉であり、神の民、主の民を表わす言葉です。主イエスはこの先神の民を、岩の上に立つキリストの教会として建てると、言われます。
主イエスはこれまでガリラヤの地域を中心に福音を宣べ伝えてこられました。そして今は、ガリラヤからヨルダン川を遡るように、エルサレムとは反対のフィリポ・カイサリア地方に来ています。来た道を振り返れば、これまで過ごしてきたガリラヤの地域が見え、その先には、これから主イエスが向かおうとしておられるエルサレムがあります。エルサレムは人々から多くの苦しみを受けて、殺される地です。民の多くは今は、主イエスを神さまが遣わされた特別な人だと、救い主の到来に先立って現れるエリヤかもしれないと考えています。主イエスがエルサレムに入城されると、人々はこの方こそ救い主だと、歓迎します。しかしやがて人々は、自分たちが思い描く、自分たちが望む救い主では無かったと主イエスに失望し、「十字架につけろ」と叫ぶようになります。主イエスの言葉に耳を傾けられず、お働きを理解できず、悔改めるのではなく、自分たちが期待する救いを要求し続ける全ての人の罪をご自分が代わりに負って、十字架にお架かりになります。イザヤが告げた主の僕のように、人々から理解されないままに、人々の病と痛みを背負い、人々の背きのために刺し貫かれ、人々の過ちのために打ち砕かれます。このキリストの受難と死と復活によって、罪人である者がキリストの教会に連なる一人となる道が開かれます。その十字架の死に至る道を踏み出す前に、主は弟子たちにご自分を誰と信じるのか問いかけておられます。民が口をそろえてご自分を罵り、嘲り、弟子たち自身もご自分を見捨てることになるその前に、やがて弟子たちが中心となって形をとってゆく教会の土台は何であるのか、彼らに告げます。それはペトロというこの岩であるのだと。主の復活の後、彼らの周りに神の民が集められてゆき、教会の中心となって活躍するようになった時、弟子たちは、この日主が問いかけられたこと、主が約束してくださったことを、幾度も思い起こしたのではないでしょうか。
主は約束の一つ目で、ペトロと呼びかけておられます。主イエスがかつてシモンに着けられたニックネームであるペトロという言葉は、遡ると岩を意味します。“岩の名を持つペトロよ、私は岩の上に私の教会を建てる”と約束しておられます。かつて主イエスは、主の言葉を聴いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ていると語られました(7:24~27)。砂地の上に建てた家と異なり、大水や強風に襲われても、岩を土台とした家は倒れないと語られました。この譬えのように、教会を「岩」の上に建てると約束しておられます。主が「岩」として見つめておられるのはペトロという個人ではなく、寧ろペトロが神さまの恵みによって言い表した信仰です。砂地の上に家を建てるよりも岩の上に建てる方が遥かに苦労が多いように、信仰の上に教会を建て上げてゆくのは、決して容易いことではありません。国籍、人種、世代、性別、思想といったものや、設立時に中心にいた人物、特別に貢献のあった人物、今力を持っている人物といった、目に見えるものを土台にした方が、よほど人は一つとなりやすいでしょう。しかし教会の土台は神さまから与えられた信仰です。主によって建てられた主の教会の土台を信仰に置き続け、その上に神の民がしっかりと立ち続けるのは、多くの困難を伴います。しかし、主イエスは救い主であり、生ける神の子であるという岩の上に建つ主の教会はその土台によって、大きな流れに襲われても倒れることが無いのです。
一週間の生活の中から礼拝のための時間を聖別し、体調を整え、ここに集う私たちの思いと行動を支え一つとしているものも信仰です。この教会がキリストのお働きを担っていくことができるように、キリストの手や足として教会の様々な働きに賜物を捧げてくださっている一人一人の労苦と互いの結びつきを支えているものも、この場に集うことを願いながら叶わない方々の家庭での礼拝と日々を支えているものも、キリストこそが私たちの救い主であると、キリストは生ける神の子であるとの信仰であるのです。私たちに罪の赦しを得させるために、ご自分の命を捨て、よみにまで降られた主イエスへの信仰が土台であるのですから、この信仰を土台とする教会に、よみの門、つまり死の力も、打ち勝つことができないのです。ここには、死の力によっても滅ぼされない神さまの救いと、神さまのご支配があります。このキリストの教会の一員として生きる、そこに私たちの幸いがあります。
主イエスが与えてくださったもう一つの約束は、この土台によって主に建てられている教会に天の国の鍵を授け、その教会が結ぶことは、天でも結ばれ、解くことは天でも解かれるということです。それは、罪の赦しを告げる権威が委ねられているということです。ここでもこの権威はペトロと言う個人に授けられたものではなく、信仰を土台として建っている全ての教会に委ねられていると考えられます。同様の約束を後日弟子たち全体に対して告げておられることからも、明らかです(18:18)。
人の罪を本当に裁くことができるのは、神さまだけです。本当に裁くことがおできになる方であり、人を赦すために独り子を世に与えてくださった神さまが、罪と死の力に脅かされている人々に、罪と死から救い出し、死が断ち切ることのできない命に至る道を世に与えてくださいました。この救いの道が、主イエスを救い主、生ける神の子と信じる人々に開かれていることを世に告げ知らせ、人々をこの道へと招き、この福音を信じる主のみ前で信仰を言い表す人々に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、キリストに命じたことを全て守るように教える使命を、教会はキリストから与えられています。キリストがペトロに与えてくださった祝福と同じ祝福の中、歩んでゆける幸いを感謝する民です。この幸いを多くの人と分かち合えることを願って救いを宣べ伝えています。その方たちが信仰を与えられ、主のみ前で信仰を告白し天の国の扉が開かれることを願って、神さまの導きを祈り求めます。