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栄光が現されるところ

ハガイ1:1~15、マタイ6:31~33「栄光が現われるところ」

2024年10月6日(左近深恵子)

 

 教会は木曜日に「聖書に親しむ集い」「聖書探訪」という集いを行っています。その日の聖書箇所について一緒に学び、疑問や気付きを分かち合い、祈りを合わせるひと時です。この春から聖書探訪では、古代イスラエルの民の礼拝の場であった幕屋や神殿について述べられている箇所を取り上げています。それらの箇所から、礼拝や礼拝の場について考え、最後に一人一人祈ります。教会全体のため、特別な礼拝や集会のため、礼拝に来ることが叶わない方のためといった祈りと併せて、毎回、会堂建築のために祈っています。教会のこのような祈祷会においても、会堂建築のためになされている会議や懇談会、交渉や奉仕の業のために祈ることを大切にしたいと思っています。

今日のハガイ書の箇所も、そのように聖書探訪で取り上げ、祈りへと導かれた箇所の1つです。預言者ハガイを通して、神が古代イスラエルの民に「山に登り、木を切りだして、神殿を建てよ」(8節)と告げられたことが述べられています。エルサレムの神殿は廃墟のままなのに、神殿を再建することへと動き出せずにいた人々が、神さまの言葉と力をいただいて、動き出したことが語られています。

かつてはそこにソロモンによって建てられた神殿がありました。神殿を建てることを願ったダビデ王に神さまは次の世代が神殿を建てることができると告げられ、ダビデは神殿のための土地を購入しました。ダビデの息子ソロモンが神さまの約束に基づいて神殿を建築し、神さまに神殿を捧げました。やがてバビロニア軍によって破壊され、神殿の中の全ての祭具も持ち去られてしまうまで、400年に渡って神殿は神の民の信仰生活の中心にあり続けました。

エルサレムの指導層がバビロンに強制移送されてから半世紀経ち、バビロニア帝国に代わってペルシャ帝国の時代となると、ペルシャ帝国の許可の下、バビロンからの帰還が始まりました。早速神殿の再建が着手されましたが、工事はまもなく中断されてしまいます。周囲の敵対勢力から激しい妨害に遭い、共同体の内部にも対立が起こったからでした。工事が再開されないまま、既に18年が経過しています。バビロンで捕囚の身となっている民に帰還の希望を語った預言者たちの言葉は彼らの中で色褪せ、帰還が実現した時の高揚した思いは消え、故郷での暮らしに抱いていた期待は失望に変わりました。抗争や内部対立によって貧しい生活が続く中、神殿を再建しようという熱気は遠い思い出となっていました。

この民の思いは、私たちにとっても決して遠いものではないのではないでしょうか。教会がとても裕福で、いつでも会堂を建てることができる、ということはなかなか無いことであります。人の側に余裕ができた時に教会堂を作るとするなら、自分たちの生活の再建が第一であって、今の自分たちには神殿を再建できる力が無い、今はその時ではないと、いつの時代も人は判断するでしょう。厳しい生活が続いていた帰還民も自分たちの状況から、「まだ、主の神殿を再建する時は来ていない」(2節)と判断してきました。人の目には当然に見える判断でありますが、神さまは民の指導者であるゼルバベルとヨシュアにハガイを通して、「神殿を建てよ」と告げられたのです。

この時代、礼拝は廃墟となった神殿の跡で続けられています。神を礼拝する場は、特定の建物に限定されないものであることも確かです。神さまは人間によってどこか特定の建物に閉じ込められ、人間が願う時に、願うように利用できる方ではありません。ハガイも神さまのことを「万軍の主」と呼んでおられるように、人間も、世の全ての力も従わせることのできる方であります。また神さまは、全てに宿っている神霊のような方ではなく、唯一の方であり、ご自身の自由の内にご自身を現わしてくださる方です。その方がアブラハムを通して、「私が、あなたとあなたに続く子孫の神となる」と人々に契約を告げられ(創17:7)、イサクやヤコブにも告げられ、ファラオの支配下で奴隷とされていたところから導き出したイスラエルの民との間で、主がイスラエルの神となり、イスラエルが主の民となる契約を結んでくださいました。

このただお一人の神が、ご自身から人々の所へと近づいてくださるから、その上ご自身のみ前に人々が近付くことを許してくださるから、人は神さまが共におられることを知り、神さまを礼拝することができます。そうであるのにイスラエルの民は、神さまを唯一の神とし続けることを、自分たちの生き方において貫くことができずにいました。自分たちの生き方を改めないまま、神殿で表面的に礼拝を行うことを神は喜ばれないと、イザヤやエレミヤはそのような礼拝を退けてきました。神殿と言う建造物や祭儀での人間の言葉や行為が真の礼拝を保証するのでは無いと、預言者たちは悔い改めを呼び掛けてきました。バビロニアの軍隊によって神殿が灰燼と帰し、礼拝に用いていた祭具を奪われ、捕囚とされた者たちは故郷も神殿の場も奪われたことを、民は、神さまを第一として生きることをせず、神さまとの契約を守らずにきた自分たちに、神さまが裁きを下された徴だと、受け止めたのでした。

捕囚の地からようやくエルサレムに戻ることができましたが、民は自分たちの厳しい状況から、神殿を再建する時はまだ来ていないと判断しています。しかし神さまは、人の判断の不確かさを明らかにします。神殿は廃墟のままであるのに、民の指導者たちは板張りの家に住んでいるという現実を突きつけます。「板張りの家」とは、贅沢な造りの家を指すと言われています。例えば自分が住む王宮を建てたダビデが、預言者ナタンに、自分の住まいは立派なレバノン杉で建てられているのに、神さまがそこに臨在することを約束してくださった神の箱は、今も天幕の中にあるままだ、神殿を建てたいと語っています(サム下7:2)。板の材料によっては、王の住まいにも相応しいものであります。

また「板張りの家」は、「屋根のある家」を指す、との解釈もあります。指導者たちの家は立派であったとしても、一般の帰還民の家はそうはゆきません。それでも、貧しい暮らしの中でも民は屋根のある家に住んでいたことでしょう。“あなたがたの家には屋根があるのに、神殿は廃墟のままで良いと言い続けるのか”、そのように言われているのかもしれません。この言葉に続いて「あなたがたは自らの歩みに心を留めよ」と言われています。この呼びかけは7節でも繰り返されます。神殿の再建を妨げているのは、あなたがたの貧しさではなく、あなた方自身であることに目を向けるようにと、促しておられます。

ここで言われる「心」とは、聖書の他の箇所では「霊」とも訳されている、「ルーアッハ」という言葉です。神さまの霊を指して用いられることもありますが、人にも用いられます。この言葉が示す「心」とは、人の気持ちや感情が動いている所と言うよりも、もっと深い所のことです。人が神さまのみ心を受け留める所です。また「留めよ」と命じられている「留める」という言葉は、「据える、確立する」といった意味も含む言葉です。「自らの歩みに心を留めよ」とは、自分たちのことを振り返っておきなさい、といったことではなく、「自分たちの歩みを、あなたの奥底にしっかり留めなさい、据えなさい、確立しなさい」と言われています。神の民の生き方、生活は、神さまとの関わり無しにあり得ません。神さまがご自分との交わりの中に歩んでゆく関りを、人に与えてくださっています。その本来の関わりの内に歩むことを心深く据えることが命じられています。神殿を建てるということは、第一に、人が神さまとの本来の関わりを自分の内に建て上げることなのです。

この同じ呼びかけによって囲まれている6節で、神さまとの関わりに立脚できていないと、民の生活はどのようなものとなるのか、語られます。生活のために日々為している全ての働きは、願う実を結ばず、徒労に終わります。生活の厳しさというところだけ比較すれば、衣食住がそれなりに手に入っていた捕囚の時の方が、よほどましであったように見えるかもしれません。そこから、神さまよりもバビロン帝国の王やバビロン帝国の民が崇めている神々の方が、力があるのではないかと思うかもしれません。しかし神の民の主は、バビロン帝国の王ではありません。もしイスラエルの民が、ぎりぎりであっても自分たちの労苦によって自分たちが生活できているから、結局自分を守ることができるのは自分だけだと思ったとしても、民自身が彼らの主ではありません。バビロンの地でも問題多いこの地でも、生活が安定している時もそうでない時も、主は神さまです。イスラエルの民は、バビロンの民でも、彼ら自身の民でもなく、万軍の主なる神の民です。命と存在を人々に与え、本当に人を深みから生かし、必要を備えてくださるのは、ただお一人の神であることを、人は心の深いところで知ります。信仰は、心の深みで受け止めることです。敵対する民の妨害と、共同体の中の対立と、簡単に抜け出すことのできない生活の厳しさを経て来た民に、今、神さまこそが主であることを、見出だすように、主は促しておられます。

奥底から神さまとの関りを建て直した者は、その神さまとの関わりの内に、行動することができます。神さまは3つの動詞をもって民が為すべきことを告げ、2つの動詞をもって神さまが民に応えてくださることを示されます。さあ、あなたがたは「山に登りなさい」、「木を切りだし」、「神殿を建てなさい」、そうすれば「私はそれを喜」び、「栄光を現わす」と言われます。「栄光を現わす」とは、ご自身がこの民と共におられることを現わしてくださるということです。このように民が礼拝の場を整えたなら、喜んでその場にご自分を現してくださる、この契約の民との交わりの中に喜んで降ってくださると、だから、願ってくださる神さまの言葉に応えて、この神さまとの関わりの内に、行動を起こすようにと、背中を押してくださいます。礼拝の場とは、人が感じる必要性という、人の状況判断や心持という不確かなものを源に備える場ではなく、神さまとの本来の関わりを自分たちの深みから築き直した契約の民が、共におられるとの神さまの言葉を土台に、整えてゆく場であります。

イエス・キリストも、自分たちの生活の安定と保証を求めて、絶えず不安を抱えている民に、「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われました。神に仕えることを第一とするのか、それとも生活の安定を第一とするのかと、あれかこれかと思い煩っている人々に、「誰も二人の主人に仕えることはできない」、「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)、だから「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い煩ってはならない」(6:31)。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなた方に必要なことをご存知である。先ず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」と約束されました。

天の父は、心の表面でだけ状況を見ていては私たち自身も気づくことができない、本当に私たちに必要なものをご存知であり、それらを与えるために預言者を通して語り掛けてこられました。み子までも世に与え、人が神さまから与えられた命と存在を喜び、どんな時も私たちの主である神さまへの信頼の中、歩んでゆける、死も阻むことのできない道を与えてくださいました。その道を歩んでゆくようにと、自らの歩みに心を留め、真の礼拝を捧げよと、心の最も深い所に呼び掛けてくださっています。

ハガイを通して呼び掛けてくださった神さまの言葉に、民は耳を傾けることができました。神さまはこの民に、再び「私はあなたがたと共にいる」と約束し、霊を奮い起こされたので、彼らは彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取り掛かったとあります。ここで「霊」と訳された言葉は、5節、7節で「心に留めよ」と言われているところの「心」と同じ言葉です。神さまのみ心を受け留める人の深みから、神さまが一人一人を奮い起こしてくださいました。人の目には再建事業の先延ばしは止むを得ないとされて当然の状況の中で、このように神のみ業の力強い働き手となることができたのは、神さまからの語り掛けに耳を傾けることへと導かれたからでしょう。礼拝の場を整え、守ってゆく必然性を、神さまから与えられている関わりに見出したからでありましょう。

万軍の主は、罪の奴隷状態にあった私たちを救うために、独り子を私たちのただ中に宿らせてくださいました。かつて神の民に、契約の箱がおさめられた神殿をご自分の名を置くと告げられましたが、イエス・キリストによって、私たちと共におられることを、聖書と、パンと杯の置かれた聖餐の食卓を通して、思い起こし、見つめ、知ることができるようにしてくださいました。礼拝の場を整え続け、今から後も礼拝を捧げることができるように礼拝の場を守ってゆくための私たちの努力は、今も、この先も、礼拝に共におられ、真の礼拝を捧げる信仰を喜んでくださり、信仰者の群れを通して神さまの栄光を輝かしてくださる神さまにお応えし、捧げるものであります。この捧げものがみ心に適うものでありますようにと祈り願いつつ、この場を整え、新たにし、守ってゆくのです。