2024.9.29.主日礼拝
イザヤ65:17-20、使徒言行録10:38-43
「罪の赦しは誰にでも」浅原一泰
見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはなく、心に上ることもない。しかし、私が創造するものを代々とこしえに楽しみ、喜べ。私はエルサレムを創造して喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる。
つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです。それは、神が共におられたからです。私たちは、イエスがユダヤの地方とエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木に掛けて殺しましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活された後、食事を共にした私たちに対してです。そしてイエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。イエスについては、預言者も皆、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。
死が近づく時、人は幼かった日の頃のことを思い出す、と言われる。ドラマや映画のストーリーにおいても、登場人物が死ぬ直前になると子供の頃を回顧するシーンが見られる。空を飛ぶ鳥が自分の巣へと戻るように、或いは海へと泳ぎ出していった鮭が最後に川を上って産卵を済ませて生涯を閉じるように、人間にも最後は出発点に戻ろうとする本能のようなものがあるのかもしれない。一方で、これまでの人生を振り返って悔やみきれない思いに曝され、忸怩たる思いで息を引き取る、という人もあるだろう。死ぬ間際まで頼朝の首を持って来いと叫び続けた平清盛や、幼い息子秀頼の将来を案じて死ぬにも死に切れない思いで息を引き取った秀吉などはその典型だと思う。しかし彼らにも、そして誰にでも、年端のいかない頃には後悔という言葉も知らずに無邪気に生きていた日々があった。始めから恨みつらみを抱えて生まれて来た人間などいない。そのあどけない日々まで思い返すことが出来るなら、或いは明日を担う孫やひ孫の声を聞けたなら、どんなに悔しい思いで死を迎える人であっても、一瞬表情が和らぐことはあるのではないだろうか。
クリスチャンは死が近づいた時、どんなことが心に思い浮かぶのだろう。子供の頃の遠い過去を思い出すのであろうか。その時を迎えたいまわの際において神はその人に何を語りかけようとしておられるのだろうか。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とキリストは言われた。「生きていてわたしを信じる者は誰も、決して、死ぬことはない」とも言われた。キリストを信じる者にとって、死で全てが終わる、ということは当てはまらない、と主ははっきりと言われていたと思う。肉の衣を纏っている限り、誰もが何時かは死を避けることは出来ないけれども、その遥か向こうには光がある。決して沈むことのない朝日が昇っている。それは二度と闇に変わることのない、永遠の光なのだ、と主は告げている。その光に満ち溢れる世界こそが神の国だと聖書は言う。キリストを除いては、未だ誰もそこには辿り着いていない。「闇は光に勝たなかった」と聖書は伝えているが、しかし我々を含めて、肉を持つ人間全ては未だ闇の中に置かれている。しかしそれでも、「光は闇の中で輝いている」と聖書は言う。闇に負けないその光こそがイエス・キリストだと宣言する。このキリストを主と仰ぐ者は、その光の世界を仰ぎ望みつつそこを目指して歩むようにと招かれているのではないだろうか。だからこそ、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」、と主は言われたのではなかっただろうか。
しかし、である。頭ではそれが分かっていても私たちは未だ、この世の波に呑み込まれ、人間的な思いにしがみついてしまう。信仰と現実とは簡単には噛み合わない、というお決まりの言い訳で自分を納得させてしまう。日頃の自分と、主の日の教会での自分を巧みに使い分け、闇の中で輝き続けている光を口先では信じていると言いながら、実は我々クリスチャンが大して目を向けずに気づかないまま、平気な顔をし続けているところはないだろうか。それでも遥か向こうの彼方には、闇が勝てない光が輝いている、永遠なる光の世界が広がっている、と主は言われる。死を間近にしたキリスト者が見るもの、とはそれなのではないだろうか。先に召された信仰の先達たちも、いまわの際において、その遥か彼方の光を仰ぎ見たのではないだろうか。光り輝く神の国をその眼差しで捕らえつつ、静かに息を引き取られたのではなかっただろうか。その時、その先達たちは、これまでのこの世の人生全てを振り返って、全てはこのことの為だったのだと。そのことの為に過去があったのだと、振り返られたのではないだろうか。ある時は躓き、ある時は人を傷つけ、またある時は目先の安全を選んで御心に委ね切れなかった過去を悔い改めさせられる瞬間であったかもしれない。それでもこのことの為に、こんな自分を見捨てずに導き続けて下さった主に感謝の涙を流される時であったのではないだろうか。申し上げたいのは、我々キリスト者にとっては、目指すべき光の世界を示されて初めて、自分の過去が何の為であったのか、ということに気づかれるのではないのか、ということなのである。栄光満ち溢れる神の国を仰ぎ見る時こそ初めて、自分が歩んできた道のりの意味に、つまりこれまで自分を支え導いて来て下さった主の御心に目覚めさせられるのではないのか、ということなのである。
先ほどの使徒言行録の中で、ペトロも自分が歩んできた道のりの本当の意味に目覚めさせられようとしていた。カイサリアに住むイタリア人の百人隊長コルネリウスという人物の前で今、ペトロはあのイエスの生涯について語り始めていた。かつては我が身可愛さにイエスの十字架を遮ろうとして「退け、サタン」と戒められたペトロが今、神もイエスも全く知らない異邦人に向き合っていた。かつてのペトロなら尻込み、躊躇したかもしれない。しかし十字架の死からよみがえられたイエスに出会い、聖霊を受けていたこの時のペトロは大胆に、「ナザレのイエスは、バプテスマのヨハネの後、神の国の福音を告げ広め始められたこと」、「方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです」と語って、イエスの生涯を思い起こしていた。コルネリウスにただ情報を提供していたわけではない。イエスと共に旅をした思い出に浸っているわけでも絶対にない。ペトロはこの時、聖霊の力、神の導きという自分の外から働く力によって振り向かされていた。その力によって今、ペトロはイエスの辿られた道のりを鮮やかに思い起こしていた。
39節以下でペトロは言っていた。
「私たちは、イエスがユダヤの地方とエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木に掛けて殺しましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、食事を共にした私たちに対してです」。
「私たちに対して」。民全体ではなく証人として選ばれたこの私たちに対して、よみがえられたイエスを神は現して下さった。異邦人コルネリウスの前で、己自身に言い聞かせるように、神が与えられた自分の使命が何かを確かめるように、一言一言噛み締めるように、ペトロは口を開いていたに違いない。この私を、異邦人であるあなたに神が出会わせてくださったのは、主イエスはよみがえられたと、その証しを私にさせる為だったのだと。更にペトロは、神が求めておられることに加えて、イエスが何を命じておられるのか、復活のキリストは何をお命じになったのかを、一言一言噛み締めるように、次のように思い起こしていた。
「イエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました」。
全てのものの造り主なる神の前で、また、全ての命の贖い主なる主イエス・キリストの前で、神に造られた人間においてはいかなる違いもない。いかなる区別も差別もない。ユダヤ人も異邦人もない。支配する者も支配される者もない。力の優れた者も劣った者もない。神とキリストの前で被造物を分ける唯一の線引きがあるとするならば「生きている者と死んだ者」の違いしかないのかもしれない。それが神と共に生きて生かされる者と、神に背を向けて罪に操られるままの者との違いなのだと。それは旧約聖書の神を信じて、割礼を受けて十戒を守ってきた自分たちユダヤ人だけに言われていたことではなかった。終わりの日、主イエスは世にある全ての命から、生きている者と死んだ者とを裁く審判者として再び世に来られる。選ばれた者達だけを生かされるのではない。この方を木にかけて殺したユダヤ人だけを裁かれるのでもない。今、私の目の前にいる異邦人達をも、そして私がまだ出会ったことのない、世にある全ての国民をも、そしてまだ生まれていない、これから産声を上げる明日の命をも含めて、復活の主は、生きている者と死んだ者とに裁かれる方であると。
ペトロの眼差しの向こうにはこの時、あの光に包まれた神の国が輝いていた、と考えることはできないだろうか。永遠の命の光がはるか彼方に顔を覗かせてはいなかっただろうか。そこは人種、民族、階級の違いなど一切ない、神と、神の子らしかいない神の国であるのだと。イザヤはその世界をこう預言していた。
「そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる」のだと。それが神がお創り下さる「新しい天と新しい地」なのだ、と。
この新しい天と新しい地の幻を遥か彼方に仰ぎ見つつ、だからこそペトロは更に、主イエスが世にお生まれになった意味を、この方が十字架におかかりになった本当の意味を、預言者を引き合いに出しながら、噛み締めるように一言一言語り始めた。
「イエスについては、預言者も皆、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」。
そうだ。イエスが十字架にかかったのは、信じる者全てに罪の赦しを得させる為であったのだ、と。目の前にいる異邦人も、私がまだ出会ったことのない世にある全ての国民も、そしてまだ生まれていない、これから産声を上げる明日の命をも含めて、世にある全ての者に罪の赦しを得させる為に、そうして泣き声も叫び声もない、全ての者が神に感謝し、神の御名をほめたたえる、あの光の世界へと招き入れる為にイエスは十字架の死を遂げて下さっていたのだと。異邦人コルネリウスを前に、ペトロはかつて共に歩んだ主イエスの生涯を、イエスの教えと癒しの業全てを、そしてあの十字架の死の意味をも、神の力によって思い起こさせられていた。永遠に光り輝く神の国の幻を鮮やかに示されたからこそ、本当の意味で主イエスの生涯、その十字架と復活の意味を振り返らされたのである。この方が死んで下さったのは、私だけではない、この異邦人達をも、そして世に生まれた全ての命にも、罪の赦しを得させる為であったのだと。悲しみも涙もない神の国の民として迎え入れて下さる為であったのだと。そう口を開きながらペトロは、自分は何の為に使徒とされたのか、神とキリストは今、この私に何を求めておられるのか、そのことを一言一言確かめるように言葉を搾り出していた、そう思えてならないのである。
我々がキリスト者とされたのは何の為であろうか。我々に信仰が与えられたのは果たして何の為なのであろうか。それも、神とキリストが我々に何かを求めておられるから、なのではないだろうか。信じる者全てに罪の赦しを得させて、神の国の民とする。聖書の言葉全て、神の御業全て、主イエス・キリストの恵みのすべてはこのことの為にあったのだと。そのことを我々もいつの日か訪れる、いまわの際において振り返らされる為に今がある。そのことをしかと胸に刻みつけておきたいと思うのである。ああだった、こうだったと好き勝手に過去を振り返る為の今ではない。どんなに予期せぬ事態に見舞われようとも、「信じる者全てに罪の赦しを得させる為、そうして神の国の民とする為」に神は御子を世に遣わし、十字架におかけになり、その死からよみがえらされたのだと。全てはそのことの為に、そのことを信じさせる為に我々はこの世を生かされていたのだと。そのことにいつの日か本当の意味で振り向かされる為に今日も生かされている。そのことを忘れないで信仰の道を共に歩んで参りたい。