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5つのパンと2匹の魚

5つのパンと2匹の魚」エゼキエル341116、マタイ141321

2024922日(左近深恵子)

 

 主イエスが大勢の人の空腹を満たされたという、良く知られた出来事を聞きました。何が起きたのかもっと詳しく知りたいという思い、この現象を何とか上手く説明したいという思いも沸き起こりつつ、この群衆の中に私も居たかった、という憧れのような思いも抱くのではないでしょうか。主イエスが天を仰いで祈り、祝福し、分けてくださったパンと魚を、人々と一緒に受け取りたかった。この夕べの時を主イエスと大勢の人と過ごしたかったと、多くの人がこの箇所を聞いてはそう思ってきたのではないでしょうか。

 4つの福音書全てがこの出来事を伝えています。特にマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は揃って、この出来事は洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって殺された出来事の後に起こったことを伝えます。ヨハネは既にヘロデに囚われていました。ヘロデが兄弟の妻へロディアを自分の妻としたことを、ヨハネが批判したからです。律法に反することであり、神の民の領主としてふさわしくないことだったからでしょう。ヨハネを黙らせたかったヘロデはヨハネを捕え、投獄します。直ぐにでもヨハネを殺してしまいたかったヘロデですが、民衆から非常に信頼され、慕われているヨハネを殺した時の人々の反応を恐れて、殺さずにいました。へロディアもまた、自分の結婚を非難するヨハネを恨み、殺そうと思っていたができないでいたと、マルコによる福音書は述べています。この夫婦は、領民の怒りを恐れて踏みとどまっていただけでした。ヘロデの誕生日を祝う宴で舞を舞ったへロディアの娘は、その褒美にと、何でも義父に願うことができることになり、母親に唆されてヨハネの首を求めました。宴の流れもあり、王としての体面を守りたいヘロデは、ヨハネの首をはねさせたのでした。

 その頃、主イエスの噂をヘロデは耳にしました。他の人には無い権威をもって天の国のことを語り、大勢の人を癒し、ガリラヤでは行く先々に多くの人が集まっているという評判に、ヘロデはヨハネの再来ではないかと怯えます。家来たちに、イエスという者は「洗礼者ヨハネだ」「死者の中から生き返ったのだ。だから、あのような力が彼に働いている」と言ったとあります。保身と体面のためならば、人の命も奪うヘロデです。恐怖に駆られれば、主イエスに対しても何をするか分かりません。ヨハネの弟子たちから、ヨハネがヘロデに殺されたことを主イエスは聞きました。ヘロデがご自分をヨハネの生き返りと家来たちに言っていることもご存知だったのでしょう。独り寂しい所へと退かれます。どのような思いで主は寂しい所へと向かわれたのでしょう。来るべき天の国の到来を告げ、自分の後に真の王が来られると、自分はその方の履物をお脱がせする値打ちもないと告げ、悔い改め、真の王をお迎えする備えをせよと呼び掛けていたヨハネです。主イエスご自身も、ヨルダン川で洗礼をそのヨハネから受けられました。人々は確かに主イエスのことを求めていますが、主イエスが語っておられる福音を本当に受け止めることはできていない者がほとんどです。故郷ナザレでは主イエスの言葉も働きも受け入れられません。苦難多いこの道をご自分に先立って歩んでいたヨハネが、ヘロデという地上の王の力によって自由を奪われ、とうとう命まで奪われました。静かなところで祈りの時間を持ちたいと願って、弟子たちだけを伴い、寂しい場所へと向かわれたのでしょう。領主の妻としての力を利用して、消したい相手を消そうとすると王妃、裁判も開かず不当に凄惨な仕方で、その者の命を奪ってしまう領主、そのような主たちの言動を黙認する家臣たち、人の邪悪さと力が覆う地を、ヨハネと主イエスは歩まれました。今この地上で、人々が味わっているような苦しみの中に、主イエスもおられたのです。

 静かな時を願われた主イエスでしたが、それは叶いませんでした。主イエスが移動しておられることを知った人々が、徒歩で主の後を追ったのです。湖の上を進む主イエスの舟を目で追いつつ、岸辺を速足で追っていたのでしょうか。その群集をご覧になった主イエスは、「深く憐れ」んだとあります。「深く憐れむ」と言う言葉は、主イエスのみ心を示すものとして福音書に時々登場します。「内臓、はらわた」という名詞がこの意味の基にあります。はらわたは感情の宿る所だと、そして親や他者からの愛情を感じとる所と考えられていました。内臓そのものを指してこの名刺が用いられている新約聖書唯一の箇所は、ユダが主イエスを裏切った後、死んだことを伝える使徒言行録の場面です。「はらわたがみな出てしま」ったと記されているところです(使徒118)。ユダの悲惨な死に方を伝えるだけでなく、感情を宿す所、主イエスや神さまからの愛を受け留めるところを、ユダは内から失ってしまったのだと伝えているようにも受け取れる箇所です。

 主イエスがそれまで想っておられたのはヨハネのことでありました。ご自分を追う人々をご覧になって、主のみ心の深いところで、ヨハネを思う思いだけでなく、人々への思いが大きくなってゆきました。ヨハネへの想いが過ぎ去ってしまったと言うことではないでしょう。今ご自分を求める人々のことも、深みから思ってくださったのです。

この人々のところにも既にヨハネの死の知らせは届いていたかもしれません。悲しみ、怒りを抱えている人がいるかもしれません。これからヨハネの死を知る人もいるでしょう。神さまからの預言者だとヨハネを信頼し、その言葉に耳を傾け、その活躍を期待していたヨハネという偉大な指導者をヘロデに奪われてしまった現実に直面している、あるいはしつつある人々です。「深く憐れむ」という言葉は日本語ではどこか上から目線の、ネガティブなイメージを含んで聞こえるかもしれませんが、聖書が用いているこの言葉は、心から他者を思い、我が事として、自分のはらわたを痛めるように悲しみを共にし、その人のために何かを望むことを表します。

 主イエスが人々を深く憐れんでおられることが既にこの福音書で述べられていました。9章に「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。このように憐れまれたから、主は12弟子を選ばれ、12人にも天の国の福音を人々に宣べ伝える働きに参与させます。弟子たちの選びと派遣は、飼う者のいない羊のような人々を、はらわたを痛めるように思う主イエスのみ心から出ているのです。

 人々を導き守る羊飼いの姿を、先ほどエゼキエル書からも聞きました。聖書だけでなく、古来人々を治める王や神を表すものとして、羊飼いのイメージは広く用いられていました。羊飼いたちは杖など僅かな武器と、時に犬の助けによって、盗賊や野獣から羊の群れを守ります。羊たちのための働きは、夜も続きます。そのような羊飼いが居て初めて、羊たちは安心することができます。群れで生きる性質を持った羊たちは、群れを率いる羊飼いがいなければちりぢりになり、死の危機に直面してしまいます。ですから羊飼いの働きには大きな責任が伴います。もし羊が行方不明になったり、殺されたりすれば、その責任は羊飼いが負うものとされました。そのような羊飼いに、神の民の王はなぞらえられました。しかしイスラエルの王国の民を支配してきた王たちは、歴史を通して悪い牧者たちであったと、預言者エゼキエルは主の言葉を告げます。民を養うのではなく自分を養う、自分の利益が第一の者たちだと。イスラエルの牧者は、「我が身を養う」のではなく「羊の群れを養うべきではないのか」、悪い羊飼いである王たちは、「弱ったものを力づけず、病めるものを癒やさず、傷ついたものを包まず、散らされたものを連れ戻さず、失われたものを捜し求めず、かえって力ずくで厳しく支配した」と。

 真の羊飼いは、主なる神ご自身であることを、主は告げます。ご自身がご自分の群れである民を捜し出し、救い出し、導き出し、居るべき所に連れて行くと。イスラエルの山々でも、涸れ谷でも、羊たちを養ってくださるので、高い山々も牧場となり、羊たちは草を食むことができる、傷ついたものを包み、病めるものを力づけ、公正をもって群れを養ってくださると告げます。詩編23篇が紡ぎ出す、緑の野へと、憩いの汀へと導いてくださる羊飼いと呼応します。豊かに繁る青草と清い水があれば、私は乏しいことがない、たとえ死の影の谷を歩むときも恐れることはないと、詩編の詩人は語ります。民を深く憐れみ、自ら良い羊飼いとなってくださる主が、ちりぢりになった私たちを捜し出してくださり、ご自身の傍へと集め、一つの群れとしてくださるから、何が潜んでいるか分からない険しい山道を行くような時も、水が涸れた谷を行くような時も、死の力に直面する時も、いのちの糧を口にすることができます。弱り、疲弊していても、また回復へと向かうことができます。危機は消え去らなくても、恐れは内から消え去ってゆくのです。

 主イエスは、飼う者のいない羊たちのような人々の寄る辺なさ、内なる乏しさ、飢え渇きを見つめ、ご自分のはらわたを痛めるように受け留めてくださいました。舟から降り、群衆たちの傍へと行き、癒しが必要な者たちを癒やしてくださいました。キリストの癒しは、人が病の苦しみから自由になることを願ってくださるものであり、それだけでなく、人が神さまとの関わりにおいても、健やかさを取り戻すことを願ってくださるものであります。天の国とは、あなたがたに本当の健やかさをもたらすものだと示すために、これまでも主イエスは人々を癒やしてこられました。ここでも、人々が到来している天の国、つまり神さまのご支配の中で歩んでゆくことを願って、人々を癒しておられたのでしょう。

そうしているうちに夕方となりました。弟子たちは初めて声を挙げます。独り静かに過ごすことを望んでおられたのに、人々のために力を注ぎ続けている主イエスです。“もう今日のお働きは十分だろう。自分たちが声を掛けないと先生は動き続けるから、言わなくては”そう思ったのではないでしょうか。「解散し、めいめいで食べ物を買うようにさせてください」と主イエスに言います。提案と言うよりも、そうしてくださいと告げる、命令のような口調です。主イエスに対し上から命じていると言うよりも、“こう強く言わないと先生は止めやしない”、そのような案じる思いからではないでしょうか。主イエスは弟子たちの言葉を一旦受け留めます。弟子たちの発言の奥にある彼らの思いも受け止められたのでしょう。彼らの言葉の全てを否定せず、「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」と、主イエスも命じる口調で答えます。弟子たちは、「ここにはパン5つと魚1匹しかありません」と抗います。“男性だけでも5,000人いる群衆に与えるにはまったく足りません、あるのはたったこれだけです”と言うのです。主は再び命じる口調で「それをここに持って来なさい」と言われます。持ってくるという動作を、繰り返すことを求める口調です。“あなたがたはたったこれだけと言うが、それらを残さず私のところに持って来なさい”、“それらは決して僅かではない。私はそれらが全て届くのを待っている”と、おっしゃっているようです。弟子たちは、主イエスの言葉に従います。5つのパンと2匹の魚を全て、残さず大切に、主イエスのところに持って行ったことでしょう。主イエスは食べ物を手に取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちに渡されます。家庭の食卓で親がするように、また弟子たちと食事をする時に主がされるように、寂しい地に広がって座っている人々の前で食べ物を感謝し、祈り、パンを裂かれる主イエスによって、大勢の群衆は一つの食卓を囲む兄弟姉妹のように、この食事に招かれました。“もう夕方だから、群衆を解散させて、主イエスのお働きも、自分たちの一日の働きも終わる”と思っていたであろう弟子たちが、主が裂かれたパンや魚を主からいただき、人々に配ります。思ってもみなかった働きを主から託され、活躍しています。食べる物を手に入れることがとても難しい所で糧を受け取る大人たち、子どもたちの驚く顔や笑顔、掛けられるお礼の言葉に触れたことでしょう。この特別な夕食の、特別な働きに携われた弟子たちは、何と幸いな人々であったことかと思います。こうして人々は、空腹も心も十分に満たされたのでした。

世の力を持つ者たちの邪悪さが、人々の歩みを阻み、自由を奪い、命までも奪う現実を、私たちも知っています。大切な人を奪う死の力の前に無力さをつきつけられる危機があります。その人が抱いていた希望、その人と共に抱いていた願いが打ち砕かれる悲しみがあります。飢えを充たす糧の乏しさ、自分たちの手の中にあるものの貧しさ、困難を解決する知恵と力の乏しさという危機もあります。不安や恐れは私たちにまとわりつき、それらがきれいさっぱり消え去ることはなかなかありません。しかし、私たちが乏しくても、弱くても、私たちの主は、真の羊飼いです。罪と死の支配から私たちを救い出してくださるキリストは、高い山や涸れ谷や死の陰をゆくような危機の中にあっても、私たちを癒し、分かち合えば分かち合うほど豊かに人を満たすいのちの糧で養ってくださいます。パンと魚で満たしてくださったこの出来事の根底には、人々のことを心から思っておられる主イエスの憐れみがありました。キリストは私たちをも深く憐れんでくださり、糧を分かち合う交わりの中に招いてくださっています。地上の糧だけで生きるのではない私たちに、天の糧、命の糧を与えてくださり、共に主の食卓を囲む交わりへと招いてくださっています。更に、弟子たちのように、ご自分のお働きに連なることへと招いてくださっています。キリストの弟子としての喜びは、キリストからの恵みを自分がいただいていることを知ることにあり、そしてその恵みを誰かに手渡しすることにあります。主と人々の間を何度も何度も往復しながら、恵みを運ぶ働きは、疲れもするけれど、ただ受けるよりも大きな祝福をいただきます。人間の乏しさ、弱さを満たしてなお余りある主の恵の大きさ、主の憐れみの深さに目を開かれる、貴く、幸いな働き人の一人となることへと招かれています。

 

ヨハネは、ヘロデとへロディアの邪悪さによって命を奪われてしまいました。しかし主イエスは全ての人の邪悪さをその身に負って、十字架へと進んでくださいました。私たちに、裂いても裂いても尽きない命の糧を与えるためです。今日の出来事は、私たちが既に与えられている恵みを示します。真の羊飼いがその命の値をもって私たちにもたらしてくださった命の糧をいただくために、礼拝の度に主の前に進み出るのです。