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宝の発見

「宝の発見」箴言8111、マタイ134450

2024915日(左近深恵子)

 

 私たちは自分が過ごす人生という時間を、ただ消費するだけのような仕方で過ごしたくはないと思うのではないでしょうか。生活をしていかなければならないのは勿論ですが、ただ日々の生活を回せればそれで良いと思っているわけではないでしょう。自分の思いやエネルギーを注ぐに値するものを見つけたいと、この歩みを少しでも意義のあるものとしたいという願いが私たちの中にあるのだと思います。“この状況で、人生を意義のあるものにするなど、望めるはずがないではないか”と、怒りや悲しみを覚えるような、困難な時もあるかもしれません。自分が自分にする期待や周囲からの期待に応えられる成果を出せていない時、自分は何のために力を注いできたのかと辛く思うかもしれません。人生を意義あるものにしたいという願いを持つには、自分は値しないものだと、自分で自分を貶めてしまう時もあるかもしれません。不安に自分の中の多くの部分がどんどん覆われてゆくような、追いつめられる思いをする時もあるかもしれません。不安に蓋をし、困難を見て見ぬ振りをして、自分がぶれなければ自分は大丈夫だと自分に言い聞かせようとすることもあるかもしれません。そのような人間にイエス・キリストは、不安に支配されない道、自分が自分の全てを支配するのではない道を示されました。ガリラヤの町や村を巡って、天の国のことを宣べ伝えられたのです。神さまのご支配があなたがたの側に到来していると、このご支配の中へと入ってゆきなさいと招かれました。

 

 主イエスの言葉を聴いた人々は、これまで自分たちが聞いてきた会堂の指導者たちには無い権威がこの方の言葉にはあると驚き、もっとお話しを聞きたいと更に集まってきました。病に苦しむ人や汚れた霊に支配された人を主イエスは癒されたので、癒しを望む人々も更に大勢集まってきました。そのように、主イエスの言葉に積極的に、好意的に耳を傾ける人々であっても、神さまのご支配が到来しているとはどのようなことなのか、なかなか分からずにいました。それぞれが思う神の国を思い浮かべて、その国の実現のためにこのイエスという方が力を発揮してくれるのではないかと期待したことでしょう。自分が思い浮かべている国と、主イエスが言われる神の国が同じではないことに気づかないまま、分かった気になっている人もいたかもしれません。人は地上のことを言い表す言葉の意味は分かっても、神さまのことを言い表す言葉の意味はなかなか理解すること、受け止めることが難しいものです。だから主イエスは、空の鳥を、野の花を取り上げて、神さまの慈しみを示し、不安や思い煩いに支配されてはならないと語ってこられました。主イエスの言葉に信頼し、その言葉を行う人を、岩の上に家を建てる者に譬え、そうでない人を砂の上に建てる者に譬えてこられました。今日ご一緒にお聞きした箇所でも、譬えを多く用いておられます。主イエスはガリラヤ湖の湖上に漕ぎ出した小舟の中に腰を降ろし、湖畔に立つ群集に向かって語っておられます。先ず神の国を、種を蒔く人に譬えて語られました。ふさわしい良い地だけでなく、道端にも石地にも茨の地にも福音の種は蒔かれ、良い地の種は沢山の実りをもたらすと。また目に見えないほど小さなからし種に譬え、空の鳥が憩うまでに育つその成長を語られました。小麦粉を大きく膨らませるパン種にも譬えられました。神さまの国は人が思い描けるものを超えています。その神さまのご支配を朧げにであっても指し示す譬えをいくつも重ねてこられました。今日の箇所では更に矢継ぎ早に、短い譬えを重ねておられます。

 

一つ目の譬えには、畑に隠された宝を見つけた人が登場します。畑や廃墟に埋まっている宝を見つける物語、とりわけ貧しかった者が見つけて多くの富を手にするという展開の物語は、古代の人々に馴染深いものだったそうです。またこのような話は、発見された宝は誰に属するのか、元の持ち主か、購入した人かと、法について考える物語としてもよく知られていたそうです。法に関しては、主イエスの時代には、以前の所有者がそこに埋まっていた宝について何も知らなかったのなら、購入した人が宝も所有できるとされることが多かったそうです。私たちはこの譬を聞いて、そもそも畑に宝が埋まっているなどということがあるだろうか、耕せば気づくのではないか、と思ったり、この宝は法的に誰のものとなるのだろうかと疑問を抱いたり、宝が隠されていることを黙って購入するのは倫理的にどうなのだろうという疑問を抱きがちですが、主イエスはそのようなことを議論するためにこの譬えを語られたのではありません。天の国を示し、その中へと招き入れるためであるのです。

 

主イエスは人々によく知られていた話と少し異なるところのある話を語られました。自分たちが知っている話と違うところを、人々は特に印象深く聞いたのではないでしょうか。貧しい者が宝を見つける話がよく知られていましたが、この譬えは宝を見つけた人の経済状況について何も触れていません。僅かしか持っていなかったものが、有り余るほど豊かに持つ者となった、という話ではありません。見つかった宝は、貧しかろうと裕福であろうと、人が持っていたものとは比べようの無い、素晴らしいものです。人が持っていたものの、量や価値を増したものではありません。この宝が埋まった畑を手に入れるために、見つけた人は自分が持っていたものを全て売り払っています。畑の持ち主から畑の値段を提示され、その額に等しい自分の財産を売ったのではありません。この宝に値段などつけられないから、それが僅かであったか沢山であったか分かりませんが、全てを売り払って、これが自分の全てですと畑の所有者に差し出したのです。地上の富で換算することなどできないほど貴いものです。それを自分の手にできるなら、自分がこれまで蓄えていたものが何も無くなっても、自分が空っぽになっても、何の心配も要らないほど確かなものです。この人は心配するどころか、喜んでいます。唯一つの確かなものに出会えた喜びに溢れています。神さまのご支配はこの宝のようであると、神さまのご支配を知る者は、この人のように、喜んで全てを差し出さずにはいられず、そうやって宝で満たされるのだと、主イエスは教えておられます。

 

もう一つの譬え話には、真珠を取引する商人が登場します。この時代、主にインドから輸入されていた真珠は、貴金属や宝石の中で最も高価なものでした。私たちの感覚からすると、もっと高価なものがあるような気がしますが、当時は「全ての者の価値の最高の位を真珠が占めている」と言われたほど貴重で、人気の高いものだったそうです。

 

先の譬えでは、人はたまたま畑で宝を見つけたように語られていましたが、真珠の商人は良い真珠を探し続けた結果、その真珠と出会うことができました。先の譬えの人は、畑という、生活圏の一部のようなところで宝と出会っていますが、高級輸入品の商いをするこの大商人が探す範囲は、さぞ広いものであったでしょう。この人も、たった一粒の真珠のために、これまで商売によって蓄えてきたであろう自分の持ち物を全て売り払っています。地上の富には換算できない真珠のために、自分が出せる全ての物を差し出しています。商人ですから、次の段階として、この真珠を売って利益を得ることが当然考えられます。しかしたとえ話は真珠を手に入れたところで終わります。特別な良い真珠という神さまのご支配に出会えたこと、自分が空っぽになっても全く心配の無いほど確かな真珠と出会え、それを手にすることができたことが、この人にとって最も重要なことであるのです。

 

二つのたとえ話が示す神さまのご支配との出会いは様々です。畑に隠れていた宝を見つけた人のように、自ら求めていたわけではなく、思いがけず出会うこともあれば、真珠の商人のように、日々求め続けてようやく出会うこともあります。宝を求めてきた熱量にも、出会うまでの年月にも差があります。しかし出会うことができたなら、その宝と共に生きていく者となりたいと、すぐさま行動せずにはいられない宝であることは、どちらも同じです。人は誰でも自分の手の内にあるもの、自分が蓄えてきたもの、築いてきたものが、他の人よりも少しでも増えると喜び、少しでも少ないと不安に駆られるところがあります。そのような人間が、空っぽになることを恐れず、寧ろその宝で満たされることを願う程に貴い宝が、天の国、神さまのご支配です。この宝を私たちにもたらすために、神さまは独り子を人として世に与えてくださいました。だから私たちも、その道のりは様々でありますが、この確かな宝に出会うことができます。キリストがこのご支配を永久に確かなものとするために、ご自分の生涯も、命もささげてくださったから、私たちは安心してこのご支配を自分の土台とすることができます。自分の内側の貧しさや無力さに怯える必要が無い道、自分が持っているどのようなものよりも確かな神さまのご支配に自分を委ねることのできる道、神さまの宝に豊かに満たされる道を知ります。

 

神さまのご支配と出会う喜びは、宝を世にもたらしてくださっている神さまのみ心を知る喜びでもあります。私たちに先立って私たちを招いてくださり、イエス・キリストによって道を切り開いてくださった神さまの慈しみを知る喜びでもあります。主イエスは三つ目の譬えでこのことを語るために、神さまのご支配を、魚を囲み入れる網に譬えられます。この網は、漁師ペトロとアンデレが主イエスの弟子となる前にガリラヤ湖で用いていたような、立って湖に投げる円形の投げ網とは異なります。主イエスがここで言われている「網」は、「底引網」を指します。投げ網は漁師一人でも扱えるかもしれませんが、底引き網はそうはゆきません。ガリラヤ湖で用いられていた底引き網は、横幅は2メートルほどで両端をロープで舟に固定したそうです。反対側の端には重りが付けられ、沈むようになっていました。網の長さは250mほど、長いものでは450mにもなります。私たちが小学校などで見慣れている25メートルプールを思い浮かべると、網の長さに驚きます。これは魚を群れごと囲み入れることができるサイズです。漁師たちは舟でこの網を沖に運び出し、固定した部分以外は水に沈め、その後陸地へと引いてゆきます。主イエスは譬えで、この網が「いろいろな魚を」囲み入れられることを強調しておられます。神さまのご支配は、特定のグループの民ではなく、あらゆる人々を次々と囲み入れてゆく網であることに気づかせてくださいます。大きな網で囲まれた魚たちの中には、網の中が魚でいっぱいになるまで自分が網の中に居ることに気づかないものも多くいるでしょう。人も、神さまのご支配が自分を包んでくださっていることになかなか気づくことができません。神さまのご支配は、そこにあることが誰の目にも明らかなようなものではありません。畑の中に埋められた宝のように、あるいは一粒の真珠のように、世に起きていることの表面を眺めているだけでは見えてこないものであります。しかし探し求めるものは、既に世を覆っている神さまの網を見出すことができるでしょう。

網に覆われていることを全ての人が知る時がきます。主イエスはこの譬えを続けて、網がいっぱいになると人々は網を陸に引き上げ、腰を降ろし、中の魚を食べられるものと食べられないもの、あるいは売り物になるものとならないものといった基準で選別し、食べられない魚、売り物にならない魚は投げ捨てると言われます。神さまが人々という魚たちをご支配の網いっぱいに囲み入れたと思われる時、それが神さまがその時と定められ世の終わりの時であります。神さまは網を岸に引き上げ、裁きの座に着かれ、良い魚と悪い魚の選別を始められます。主イエスは他の場面でも終わりの時のことを、「人の子が栄光の座に着」き、人々を裁くことになると、キリストに従ってきたものは報いを受け、永遠の命を受け継」ぐと言われています(マタイ192829)。別の場面でも、人の子が「栄光の座に着く」と、「すべての国の民がその前に集められ」、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、人々に問い、主に仕えるように人々に仕えた者たちは永遠の命に入ると告げておられます(マタイ253146)。この譬えは、ガリラヤ湖の湖上の舟の中で腰を降ろしておられる主イエスが、岸辺の群集に語っておられます。人々がこの湖で日常目にしている漁の風景と重ねるように語られるたとえ話は、この日常の日々に、既に神さまのご支配がもたらされていること、やがて陸に網ごと引き上げられるように、神さまのみ前で一人一人の全てが明らかにされる神さまの裁きを告げます。

 

なぜ悲惨な状況に人は苦しみ続けなければならないのかと嘆き、なぜ力を悪用する者たちが世で力を持ち続けるのかと問いながら、神さまに祈る私たちも、この譬えを通して、神さまの底引き網に囲まれていることに思い至ります。あるいは厳しい裁きの目を誰かに向け、神さまに成り代わって裁きの座に着こうとしているところから、神さまの網の中の自分へと、我に帰ります。そして、神さまのみ心が天になるように地にもなりますようにと祈ることへと、自分が網の所有者であるように思い違いをしていたところから、真の網の所有者である主に、み心がこの地に為されるために、為すべきことを示してくださいと、祈り求めることへと、導かれます。あるいは、自分の熱情や、努力や、捧げて来たものの大きさや、費やしてきた年月の長さによって、畑に隠された宝のような、良い真珠のような、神さまの福音と出会うことができたように思ってしまう時には、私たちが願う前に既に神さまが漁師キリストを世に遣わされ、私たちが求める前に私たちを網の中へと招いてくださっていたことに、気づかされます。

 

 

箴言の8章は、道沿いの高きところの頂や、街道の四つ辻や、町の玄関である門の傍で、知恵が呼び掛けていると、語ります。大勢の人が行き交う所で、人々の欲望に訴えかける声や、人の自尊心、優越感を掻き立てる声があちこちから発せられる喧噪の中で、神さまのみ心に聴き、神さまのみ心にお応えして生きる生き方を受け継ぎ、その道に生きるようにと告げる人々が、声を挙げています。世にあってそれらの声はかすかなものでしか無いかもしれません。けれど、神さまの福音に生きる「知恵は真珠にまさり、どのような財宝も、これに並びえない」ものであります。自分の内なる貧しさを満たして余りある神さまの宝を日々祈り求める者も、今神さまのご意志に従いきれていない者も、神さまの福音をまだ知らない者も、私たちがお応えする前から一人一人を招いておられる神さまの呼びかけに、心鎮めて耳を傾け続け、そのみ言葉に生きる道を祈り求めたいと願います。