· 

成長する種

イザヤ55813、マタイ1319「成長する種」

202498日(左近深恵子)

 

 主イエスは人々に福音を宣べ伝えておられました。ガリラヤの地域の町や村を巡って、神の国、つまり神さまのご支配が世に到来している、あなたがたの近くに神さまのご支配は既にもたらされている。だから罪に自分の日々が呑み込まれているところから、神さまのご支配の中へと移ってきなさいと、語ってこられました。この日も、ガリラヤのある家の中で人々に語っておられました。そこに主イエスの身内の者たちが主イエスを訪ねて来たことを先週マタイによる福音書から聞きました。主イエスがガリラヤで為さっていることが理解できずにいた身内の人々は、主イエスと話しをしようとやってきました。家族である自分たちが、今していることを止めさせ、連れて帰らなければと思ったのでしょう。身内の人々の来訪を耳にした主イエスは家の中の人々に、誰でも「天におられる私の父のみ心を行う人が」私の家族であると、人々に語られたのでした。

 

 語ることを終えると主イエスは家を出て、ガリラヤ湖のほとりに行き、腰を下ろしました。人々を癒し、語り、疲れを覚えたのかもしれません。主イエスは神の子でありながら人となられ、私たちと同じように肉体をもって生き、肉体を持つからこそ味わうものを私たちと同じように味わってくださいました。目の前にはガリラヤ湖が広がり、背後にはパレスティナの丘陵が続く自然の中で、一息ついておられたのかもしれません。主イエスが味わっておられたのは肉体の疲労だけではなかったのかもしれないと思います。人々は主イエスに期待を抱いて主イエスのもとに集まってきます。特に癒しを求めてきます。癒しを通して主イエスは神さまのご支配とはどのようなものであるのか示してこられましたが、その意味を見て取り、そのことを語る主イエスの言葉に深く耳を傾ける人は、僅かであったことでしょう。人々に本当の回復、本当の幸いを伝えるために、神の子でありながら主イエスは福音を宣べ伝えることに力を注がれました。そしてこの日は人々に、天の父なる神のみ心を行う者が私の家族だと、神の家族の一員になりなさい、私はあなたがたが私の家族となることを願っているのだと呼び掛けられました。その呼びかけに人々がどう応えたのか、何か応答したのか福音書は伝えていません。伝えないまま、その家を出て、湖のほとりに行かれ、そこに座わり、時を過ごされる主イエスの姿だけを伝えるのです。

 

湖畔で暫し静かな時を持っておられた主イエスですが、そのお姿を見つけた人々がどんどんと集まって来て、群衆となりました。主イエスは小舟に乗りこまれました。10節で、弟子たちが主イエスに近付いて問いかけていることから、主イエスが舟に乗りこまれた時に弟子たちも一緒に乗り込んだと考えられます。その弟子たちに命じて、主イエスは舟を少し沖へと漕ぎ出させたのかもしれません。入り江の中では、岸から多少離れた湖上から岸に向かって語る方が、近い距離から語るよりも声がよく通るので、群衆に語るために小舟に乗りこまれたのでしょう。

 

福音書は、主イエスは小舟の中で腰を下ろしており、群衆は岸辺で立っていたことを伝えます。このこと自体に不思議なところはありません。主イエスの時代、教師たちは神殿や会堂で座って教えを語っていました。教えを聞く人々の方が立っていたことも珍しいことではありませんでした。しかし今日の箇所は、座って教えを語る主イエスの姿を伝えさえすればそれで十分であるのに、人々が立っていたことをも敢えて記しているような印象を受けます。立つ人々の姿から、この前の場面でも立っていた人々がいたことを思い起こさせるような語り方です。今日の箇所の直前で、主イエスが人々に教えを語られていた家の外に立っていた身内の人々です。家の中に入ろうとせず、主イエスの為さっていることから少し距離を置いたところで、主イエスの方が外へと出てくるのを待ちながら立っていました。主イエスが今していることを止め、主イエスの方が自分たちの方へと方向転換をすることを期待して、立ったまま待ち続けていました。ガリラヤ湖のほとりに立つ人々も、主イエスに期待をしていました。自分や自分の大切な人を癒やしてくれることを期待する人々がいたでしょう。神の国の話しをし、大勢の人々を引き付けているこの方こそ、自分たちをローマの支配から救い出すために神さまが自分たちに遣わしてくださった方ではないかと、期待する人々もいたでしょう。これまでの自分の在り方を後にして、主イエスが示しておられる神さまのご支配の中へと入ってゆくよりも、主イエスの方が自分たちの期待するところへ来ることを期待しながら、彼らは立っていたのではないでしょうか。

 

主イエスはこの人々に舟の上から多くのことを語られました。ここでは、譬えを用いて語られました。主イエスの譬えには人々の生活に馴染み深い事柄が多く登場します。最初に語られた今日の種蒔きの譬えも、人々にとって身近な営みを通して語られます。

 

この辺りの丘陵地帯では、畑とそうではない部分が明確に分かれていない所も少なくありません。私たちに馴染深い農業は、ここという場所にのみ種を慎重に蒔いたり、種の発芽に最適な別の場所で育てた苗を畑に植えます。しかし譬えが背景としている農業では、種蒔く人は、畑とそうではない部分の境界線が曖昧な大地に、種袋から種を掴んではばらばらと蒔き、また種を掴んでは蒔くことを繰り返します。畑ではない所に落ちる種もあります。人々が通って踏み固められた道端に落ちる種もあります。そのような種は直ぐに鳥たちに食べられてしまうでしょう。この辺りには下が岩地の部分も多くあります。岩の上には薄い層の土があり、一見他の土地とあまり変わりがなく、そこも土があるからと種が蒔かれることがあります。しかし発芽しても薄い土の層では根が張れず、水分も保てず、強い陽射しが照り付ければあっという間に干からびてしまいます。茨が生えている場所や、地中に昨年の茨が残ったままの畑に落ちる種もあります。発芽しても、成長の早い茨に覆われ、日光も栄養も奪われてしまいます。種の質が悪いからではありません。種が落ちた場所が種を受け、育むのに十分な土地ではないからです。同じ種袋から同じ人が蒔く種が、良い土地に落ちれば、その種はやがて大きく成長し、花を咲かせ、沢山の実を結びます。あるものは一粒が100倍にもなり、あるものは60倍、あるものは30倍になります。種が本来はこのように大きく成長する力を持っていることが示されます。種蒔きの際に、種が蒔かれた場所によって、その後の収穫量に大きなばらつきが生じることを、人々はよく知っていたことでしょう。しかし、100倍という収穫量は当たり前のことでは無かったでしょう。主イエスが語られた譬えの種は、誠に質の高い、大きな力を内に秘めた、素晴らしい種であることが分かります。そして譬えの最後に主イエスは、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。今日はそこまで読んでいただきませんでしたが、この後弟子たちに答えられる中で、主イエスはこの譬えにおいて種は神さまの言葉であると教えられます。道端や岩地、茨の地は、聞くには聞くが、悟らない者であり、良い土地はみ言葉を聞いて悟る人であると言われます。この譬えを通して主イエスは、「耳のある者は聞きなさい」、神さまの言葉をよく聞いて、受け止めなさいと呼びかけ、その人は豊かな実を結ぶと約束してくださるのです。

 

譬えで語られた種を蒔く人とは、誰よりも主イエスのことでありましょう。これまでも預言者たちや洗礼者ヨハネが、神さまの言葉を語ってきました。そして今、彼らの所に主イエスが来られ、神さまの言葉を語っておられます。町や村を訪ねては、出会う人々の内にこの素晴らしい種を蒔くように、日々語っておられます。その種が芽吹き、しっかりと根を張るかどうか、強烈な日差しが照り付けるような危機にあっても、茨のような力に覆われそうな困難が続いても、可憐な花を咲かせ、実を結ぶかどうかは、語られた人次第です。人々が馴染んでいる農業は、蒔いた種に対し、全体としてある程度収穫量を得られれば、結果良かった、ということであるでしょう。しかしこの譬えはそのようには語っていません。主イエスは福音の種を蒔いておられる人々を、一括りに見ておられるのではありません。誰かが多く実を結べば、それで全体としては良いのだと、み言葉がその人の内で芽吹かない人、成長しない人がいてもそれで良いのだと、そう見ておられるのではありません。「耳のある者は聞きなさい」と言われる主イエスは、一人一人を見ておられます。蒔かれた種がその人の内で成長することを願って見ておられます。しかし主イエスの目に映るのは、ご自身が蒔かれたみ言葉を、鳥に奪われるようにあっという間に失ってしまう人の姿かもしれません。薄い土の層の下に大きな岩が潜んでいる岩地のように、一見聞いているようで、み言葉を受け容れたくない強固な岩盤層を内に持ち、み言葉を退ける人の姿かもしれません。み言葉に聞きたい思いを持ちながら、神さまではないものを優先させてしまい、茨に覆われるように、結局はそれらに自分が支配されてしまうような人の姿かもしれません。それでも主イエスはそのような人々の内深く届くようにと願って、福音の種を蒔き続け、み言葉を聞いて、受け止めるようにと、呼び掛け続けてくださっているのです。

 

今日の譬え話で語られた全てのことは、「耳のある者は聞きなさい」との最後の呼びかけに向かって行きます。自分はこの道端かも知れない、岩地かもしれない、茨の地かもしれない、そう自分のことを思うのであれば、それは、この譬えを用いられた主のみ心にお応えする第一歩でありましょう。しかしそこで留まってしまっては、この譬えを途中までしか聞いていないことになってしまいます。良い土地では無い自分の実態に気づくと、私たちはそのことに捕らわれ、結局、自分のことを思うことに留まってしまいがちです。そうして開き直ったり、他者と自分を比較することへと向かってしまいがちです。しかし主イエスは、「耳のある者は聞きなさい」と呼び掛けてくださっています。神さまは私たちを聞く心を持つ者として、聞いて神さまにお応えすることができる者として、造られた者であります。だから聞きなさいと、主イエスは呼び掛けておられます。

 

神の国の到来を告げる主イエスの言葉は、神の民たちがこれまで聞きたいと願いながら聞くことができなかった福音です。預言者であっても、神さまのみ心に生きることを心から願った人々であっても、聞くことが叶わなかった福音を、あなたがたは今聞くことができている。このことがどんなに貴い恵みであるのか気づいて欲しい、そして私が語る言葉を、良い土地となって受け止めなさい。自分の頑なさを福音によって砕かれ、砕かれた柔らかな魂に種を宿し、深いところでその言葉に耳を傾けて欲しいと願っておられます。神さまの言葉は、聞いて直ぐにそれがどのようなものであるのか、人が悟ることができるようなものではありません。種が芽吹くまでの地中の変化は、人の目には隠れています。芽がどのような姿の植物となるのか、どのような花を咲かせ、どのような実を結ぶのかも、種を見ただけでは分かりません。神さまの言葉も、そこからどのような喜びが花開くのか、私たちにおいてどのような実りをもたらすのか、直ぐには分かりません。み言葉を聞くということは、受け留め、宿し、内に根が張ってゆくために、時間と忍耐を要することであります。けれどその聞くことに奮闘する日々の中で、耕され、岩を砕かれ、茨を取り除かれるような神さまのお働きを知ります。み言葉が自分の人生に豊かさをもたらし、実りを結んでいると、振り返って気づかされる時が来るのです。

 

この譬え話は、私たちがどの土地であるのか、ということに留まらせず、イエス・キリストのたゆまぬ種蒔きを思うことへと私たちを導きます。無駄が多過ぎるように思える種蒔きです。その働きをしてくださっているのは、私たちではなく主です。本当に耳を傾けようとする者がなかなかいない、虚空を打つような日々の連続であっても、一人一人に福音を宣べ伝えられる主の熱意と、労苦と、寛容によって、私たちも今、福音に触れることができています。

そしてこの譬え話は、種であるみ言葉の力を私たちに示します。聞いて受け止める人において、必ず豊かな実を結ぶのだと、み言葉に信頼することを私たちに教えます。私たちは柔らかに耕されたふかふかの畑のようなこころでありたいと願いながら、そうあり続けられない者です。その私たちにみ言葉を蒔くために、ご自身が一粒の麦となるために、神のみ子ご自身がその命をささげてくださいました。

 

福音は、神さまのご支配が既に私たちにもたらされていることを、私たちに語ります。私たちに神さまのご支配を決定的なものとするために、神の子である主イエスが、真に人となられ、人々が自分の期待する言葉ではないと耳を貸さず、理解せず、それどころか抗い、主イエスの働きをその命ごと取り除こうと、十字架に追いやる、その人々の無理解と罪を背負われながら、十字架で死んでくださったことを伝えます。この福音を聞いて信じる者は、神さまのご支配の中に入れられ、キリストの家族の一員となると伝えます。このような仕方で神さまのご支配を世に実現してくださることを、私たちの誰が予想し、期待し、求めることができたでしょうか。「私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なる」と主なる神が告げられた通りです。「私の口から出る私の言葉」は「空しく私のもとに戻ることは無い。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる」と、み言葉に聞き、主に従う「あなたがたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれていく」と、預言者イザヤを通して告げておられます。主に従い、主の言葉に信頼して歩む者の道には喜びが共にあり、茨やいらくさに代わって美しい糸杉やミルトスが育ち、茨に覆われるのではなく平和に包まれる、そのような道が示されています。神さまの望んでおられることを伝えるみ言葉に聞き続け、私たちの日々に神さまのご支配が出来事となってゆき、いつか豊かな実を結ぶことに信頼して、主の後に従うことへと、主が招いておられます。