「主イエスの家族」詩編91、マタイ12:46~50
2024年9月1日(左近深恵子)
主イエスはその日ある家で、大勢の人に語っておられました。これまでのように、人々を癒やされ、癒しを通して神さまのご支配とはどのようなものであるのか示され、神さまのご支配がもたらされているのだから、罪を悔い改めて、神さまのご支配の中で生きてゆくようにと語っておられたのでしょう。そこに、主イエスの母マリアと主イエスの弟たちが来ました。彼らは何か主イエスに「話したいことがあ」り、やって来たのでした。
今日のこの出来事は他の福音書にも記されています。マルコによる福音書には、彼らが来た理由がより詳しく記されています。彼らは、主イエスのガリラヤでの活動を伝え聞いて、主イエスが「気が変になっている」と思ったから来たとあります。身内である自分たちが何とかしなければ、連れて帰らなければと思ったのでしょう。弟たちがそう言い張ったから、母マリアも同行したのか、伝え聞いた兄イエスの様子に心を痛める母親の姿を間近に見ていた息子たちが、母を案じて一緒に来たのか分かりません。いずれにしてもマルコによる福音書は、主イエスのお働きを止めようとする身内の思いと行動を強い表現で伝えます。マルコによる福音書をある程度基にして記したと考えられるマタイによる福音書が、マルコによる福音書のこの身内の無理解を強調する言葉を記さず、ただ「外に立っていた」という言葉で伝えていることを、大切に受け止めたいと思います。身内の人々と主イエスの距離を静かに表すこの福音書の語りに耳を傾ける私たちも、身内の者たちのここにやって来た動機を探ることに思いを向けるよりも、彼らが取るこの主イエスとの間の距離を、心鎮めて見つめたいと思います。
この日家の中には、教えを語っておられる主イエスがおられ、その言葉を聴きたいと耳を傾ける人々がいます。家の外には、主イエスと人々の輪の中に入ろうとせず、主イエスの方が自分たちの所へと出てくるのを待っている主イエスの身内がいます。身内の者は、主イエスが為さっていることと距離を取っています。主イエスと周りの人々の間に生まれている交わりとも、周りの人々の人生に起こり始めている変化とも、距離を取っています。自分たちが来たことが家の中の主イエスに届いたなら、主イエスは今していることを止めて外へと出てくるはずだと、その場に立ち続けています。屋内に居たある人が、彼らの来訪を主イエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と伝えます。この人の言葉から、身内の者だけでなく、この人も、主イエスが語ることを止めて身内の所に行くことを、当然のこととして捉えていたことがうかがえます。家の中に、そのように捉えた人は他にも多くいたかもしれません。けれど主イエスのお答えはその人が想定したものとは異なっていました。外に出て行こうとはせず、人々の側に居続けて「私の母とは誰か、私のきょうだいとは誰か」と問いかけられたのでした。
この福音書は、外に立つ身内の人々の姿を描き、私たちに心鎮めてこの出来事を見つめることを促しました。そしてこの主の言葉は私たちに、主イエスの家族とは誰であるのかとの問いに、向き合うことを促します。「私の母とは誰か、私のきょうだいとは誰か」、主イエスはこの言葉を母マリアやきょうだいたちにぶつけておられるのではありません。この時、この言葉を告げる主イエスの声が、外に立つマリアたちにも聞こえたかもしれません。しかし彼らに向かって言われているのではありません。だから“息子からこんな言葉を突き付けられるなんて”、“兄からこんなことを言われるなんて”と、マリアたちのために胸を痛めても、それは的外れの同情となってしまいます。主イエスはこれまで語ってこられた人々に向かって、誰がご自分の家族であるのか問いかけ、考えることを促されています。それは、主イエスの言葉をこれまで聞いてきた、教会に、私たちに、向けられた言葉であるとも言えるのです。
「私の母とは誰か、私のきょうだいとは誰か」、問われた人は、「それは外に立つあの方たちに決まっているではないですか」と思ったでしょう。その答えをご存知の上で主は、人々と一緒に家の中に居たご自分の弟子たちの方へと手を差し伸べて、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる」と言われます。その日弟子たちの中には女性もいたかもしれません。しかし、弟子たちの中に主イエスの肉親がいないことは誰もが知っています。そこに居た人々も、弟子たち自身も、驚き、戸惑ったのではないでしょうか。
外にいたマリアや弟たちは、血縁が自分たちと主イエスとのつながりであると考えていたでしょう。主イエスにマリアたちを取り次ごうとした人も、そう考えていたでしょう。それは間違いではありません。マリアや弟たちと主イエスは家族です。福音を宣べ伝える働きを始める30歳頃まで、主イエスは父親ヨセフの仕事を受け継いで働き、一家を支えておられたと思われます。十字架の上で大変な苦しみの中にありながら、主イエスはご自分が去った後のマリアのために心を砕いておられます。そのような聖書の言葉から、主イエスが親やきょうだいたちを大切にしてこられたこと、身内の者たちを軽んじて、弟子たちを「ここに私の母、私のきょうだい」と呼ばれたのではないことが伝わってきます。
家族の根拠は血縁だと、血縁という同質性が互いを家族にさせるのだと、血縁が近ければ近いほど、家族としての関係は近いのだとする家族観があります。しかし主イエスが示されるのは、同じ血縁にあることに依り頼むのではない家族です。血縁にある者が家族では無いと言っておられるのではありません。血縁に有ろうと無かろうと、そこが家族であるかないかの境界線とはならない家族です。血縁が最優先にならないつながりです。主イエスの身内の者たちは、主イエスがおられる輪の外から主イエスの為さっていることを判断し、主イエスが為さっておられることよりも、血縁によるつながりが勝ると、血の繋がりによって主イエスを動かそうとしました。家の中に居た人々の中にも、そのように輪の外から血縁の者が主イエスの働きを判断し、介入し、輪の外に引っ張り出そうとすることを、受け入れようとする者がいました。しかし主はその者に、血縁が支配することの無い家族のつながりを示されました。血縁が人の働き、生活、人生、互いの交わりの最優先事項とならない人と人とのつながりを示されました。父なる神のみ心を行うことだと、父なる神のみ心を行うならば誰でも、主イエスの本当の家族なのだと言われるのです。あなたも、あなたがたも、父なる神のみ心を行うならば、私の本当の家族になれる、あなたがたに、私の本当の家族になって欲しいのだと、人々に呼び掛けておられるのです。
血縁が家族の全ての根拠ではないことは、旧約聖書を通して語られてきたことであります。「兄弟」という言葉は、神の民、イスラエルに属する者たちを指してきました。イスラエルの民がモーセに率いられエジプトを後にしたとき、その群れは古代イスラエルの民と雑多な人々から成っていたことを、出エジプト記は伝えています(12:38)。そしてシナイの山の麓で、神さまから与えられた契約を民は結びました。神の民とは、特にアブラハム、イサク、ヤコブにご自分を示され、古代イスラエルの歴史を貫いてご自分が神であることを示され、導かれてきた神さまをただお一人の神とし、神さまの声に聞き従い、神さまの契約を守る者であります。血縁という同質性を持つ人々も多く含まれていましたが、そのような人だけでなく、そして彼らが拠って立つのは血縁ではありません。血縁が無くても互いをきょうだいと呼び、神さまによって神の家族とされている恵みを大切にしてきました。主イエスがこの日人々に問いかけられたのは、この神の家族の在り方の再確認とも言えるのです。
主イエスも、神さまのみ心を行う者が、ご自分の家族だと言われました。神さまのみ心を行うことを、私たちはどのように受け止めたら良いのでしょう。主イエスが「見なさい」と人々に呼びかけ、「ここに私の母、私のきょうだいがいる」と示された弟子たち、この弟子たちに、神さまのみ心を行うとはどのようなことなのか、見出すことができるはずです。
神さまのみ心を行う者は、神さまのみ心を知っている者ということになります。神さまのみ心は、神さまの言葉を通して知ります。自分一人では知ることができません。聖書を読んで、ここに書いてある神さまのご意志はこのようなことだと、全て明確に分かる者などいません。説教者もそうです。聖霊の導きを祈り求め、聖書に示されている神さまのご意志を受け止めるために、教会が聖書と取り組んできた、教会の歴史の中で蓄積されてきたものに助けられ、示されたものを何とか言葉を紡いで伝えようとする者であります。誰も自分一人で神さまのみ心を知ることはできないのに、私たちはそうできるように思いたがります。自分の限られた知識と洞察力と経験で充分であるかのように、自分が望むように聖書を読み、望むように受け止め、それが神さまのご意志であると主張したい、その思いに絶えず引きずられそうな者であります。それは神さまのご意志ではなく自分を基準とすることであり、自分を基に行動するなら、神さまのみ心を行っているのではなく、神さまのみ心と距離を置いたまま、自分の思いを行っていることになってしまいます。
神さまのみ心を行う者は、み言葉に聴き続ける者であります。弟子たちは、主イエスが語られる神さまの言葉を誰よりも耳にしてきた人々です。主イエスの言葉に聴き続ける者が、神さまのみ心を知る者であります。弟子たちもまだまだ理解が不十分な者たちであることは、福音書のあちこちで明らかになっています。彼らも絶えず、自分の思いを神さまのみ心と勘違いし、それを主張したい思いに引きずられている者たちです。けれど彼らはまた、主イエスの言葉を毎日のように間近で聴くことのできる者たちです。主イエスの言葉によってみ心を新たに受け止め、神さまのみ心から離れ出てしまったところから引き戻され、新たに歩み直すことができる、幸いな人々です。この、主イエスの言葉を聴き続けている弟子たちが、私の家族なのだと、主イエスは弟子たちを示されました。言い換えれば、主イエスの弟子とは、主イエスの言葉を聴き続ける者であります。主イエスの弟子の群れから成る教会も、聖書を通して神さまからの言葉を受け止め、キリストの約束の言葉に従って聖餐のパンとぶどう液を分かち合うことを通して、主の言葉に聴き続け、神さまのご意志を行い続ける神の家族です。洗礼を受け、キリスト者となり、教会の一員となるということは、教会と言う神の家族の一員となるということです。輪の外から批評する者ではなく、お客さんでもありません。主イエスが差し伸べてくださった救いの手を受け止め、主イエスに結び付けられ、そうして兄弟姉妹としてのつながりを与えられた、神の家族の一員であります。この福音書の終わりで、復活されたイエス・キリストは弟子たちに、「あなたがたは行って、全ての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことを全て守るように教えなさい」と告げられます。この主から弟子たちが託されている使命に生き、神さまの家族の一員となることへと人々を招き続けるキリストの招きを、人々に伝えることこそ、神さまのみ心を行うことであります。これらの言葉の最後にキリストはこう告げておられます、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)。神の家族とされた弟子たち、またキリスト者たちには、どのような時も、キリストが共にいてくださいます。キリストが世の終わりまでいつも共にいてくださるから、私たちのキリストとのつながりも、神の家族としての互いの結びつきも、私たちの死によって断ち切られることは無いのです。
主イエスは今日の箇所で弟子たちに手を差し伸べて、これが私の家族だと言われました。この腕の中に、あなたも、あなたがたも、入ってきて欲しいのだと、招いておられます。主が弟子たちに差し伸べられた手、それはこれまで律法でその病にかかっている者は汚れているとされる病で苦しんできた人に差し伸べ、その人に触れ、癒してくださった、神さまの愛と力に溢れた手です。この後、ガリラヤ湖でおぼれそうになる弟子のペトロに、差し伸べてくださった、命も存在も丸ごと呑み込もうとする圧倒的な力の中で守ってくださる手です。助けが必要な、自ら手を差し出すこともできなくなっている一人一人に、主は語り掛け、手を差し伸べてこられました。主が差し伸べてくださるから、人も主に向かって手を伸ばすことができます。人がキリストに向かって手を差し伸べる、それは祈りの姿とも言えるのではないでしょうか。「手を差し伸べる」とここで訳されているのと同じ言葉によって、主は今日の少し前、安息日の会堂で、片手が萎えた人に「手を伸ばしなさい」と語り掛けておられます。その人が主の言葉に信頼し、自分の手を伸ばすと、もう一方の手のように、元通り伸ばすことができるようになったとあります。この時、この人は自分に語り掛けてくださった主に向かって手を伸ばしたのではないかと、この情景を思い浮かべずにはいられないのです。
助けが必要な人々にみ手を差し述べてくださる神さまの守り、神の民が与えられてきた安らぎは、旧約聖書の時代から証されてきました。詩編91編もその一つです。神の民の日々は、危険が絶えず迫り、繰り返し追いつめられるような困難多いものでありました。危機的状況が消え去ることの無い人生を生きている神の民一人一人にとって、神さまが隠れ場であり、逃れ場であり、城であります。神さまこそがその守りに人々が信頼すべき方です。神さまは苦難の中からその人をご自分の翼のもとへと救い出し、守ってくださいます。「災いはあなたにふりかかることはなく/病もあなたの天幕に近づくことは無い」と言われる完全な守りと安らぎがそこにあります。身を寄せる雛たちを翼で覆い、守る親鳥のように、私たちをみ腕の中へと招いてくださり、どんな苦難も奪うことのできない安らぎの中で憩わせてくださる救いと守りを、み子イエス・キリストは、ご自分の命をもって実現してくださいました。主のみ腕の中に、主の懐の中に自分の全てをもって飛び込む私たちを、主はご自分の家族としてくださいます。主のもとで味わう安らぎを互いに分かち合い、喜び合い、この神さまの家をより神さまのみ心にかなうものとするために共に力を合わせる神の家族の一員に、一人でも多くの方が与えられることを、心から願います。