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イエスは神に見捨てられたのか

2024.8.25.主日礼拝

「イエスは神に見捨てられたのか」

詩編22:2-3、Ⅱコリント5:18-21 浅原一泰

 

ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた「最後の審判」という作品がある。現場に行ってこの目で見てはいなくても、私もそうであるが、多くの人が写真などを通して必ずどこかで目にしたことがあるのではないかと思う。この絵の中心はイエス・キリストであるが、それは十字架の死からよみがえり、天に昇った後に再びこの世にやって来る再臨のキリストの姿である。最後の審判が何時起こるのかは神のみぞ知る謎である。ただその時は、この世の歴史が終わりを迎える時だと聖書は明言する。その時キリストは、死の眠りに就いていた全ての者を起き上がらせ、生き残っていた者たちと合わせて最終的に生ける者と死ねる者、分かり易く言えば救いに入れられる者と滅びへと追いやられる者を分ける、と聖書に書かれている。

 

これもよく知られた話であるが、この絵の中にミケランジェロは自画像を残している。その自画像を彼は、人間の姿形の痕跡さえ残っていないような、剥がれた皮として描いている。中央の再臨のキリストの右下にいるバルトロマイという弟子がこの皮となったミケランジェロを掴んでキリストに、「先生、この男はどうしますか?救いますか?滅ぼしますか?」と尋ねているかのようである。この作品を描いた時のミケランジェロは既に老齢に達し、衰え行く肉体と精神の痛み苦しみや今後の心配に悩み苦しめられていた。「私が目指すのは死しかない」と、彼はこの時の手紙に書き残したそうである。

 

最後の審判が何時なのかは誰も知らない。キリストが何時再びこの世にやって来られるのかも謎である。しかし、もしその時が来たら、自分が生きている間の行いや言動、心の中に過った思いの全てを調べられて救いか滅びか裁かれることになったとしたら、皆さんは何を思うだろう。悪事を重ねてきた人間なら、もうこのままそっと死んだままにしておいてくれ、起こされてこれ以上拷問の苦しみなど味わいたくないと思うだろう。ただそう思うのは、悪に手を染めなかった人間も同じだと思う。自分が本当に正しく生きて来れたと自信を持って断言できる人間など一人もいないからだ。

 

ところで、イスラエル政府によるガザへの空爆による死者が四万人を超えたと報じられた。ロシアによるウクライナ侵攻によって始まった戦争の犠牲者はロシア兵は6万人を超え、ウクライナ兵も3万人を優に超えていると聞いたことがある。79年前に投下された原子爆弾によって広島では14万人、長崎では7万人の貴い命が一瞬にして奪われた。この現実に対して私たちはどう向き合えば良いのだろうか。毎年毎年、戦争の記憶を呼び起こさねばならないこの8月を迎えるたびに、私たちは同じ問いを突き付けられている。その時代に生まれていない世代の方が遥かに多い現在であっても、「昔のことは知らないし関係ない」で済ますことは、被爆国に生まれた人間としては決して選択してはならない判断だと思う。

 

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これはイエス・キリストが日常的に使っていたアラム語であり、その意味は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。先程読まれた旧約、詩編22:2にあった言葉である。教会の皆さんはよくご存じの通り、実はこれはユダヤの民衆から罵られ、嘲笑われ、ローマの役人によって死刑判決を下されて十字架にかけられたイエス・キリストが、まさに息を引き取る直前に語った最後の言葉であった。神の独り子として、人類の救い主として神のもとからこの世に遣わされたキリストが十字架の上で、このような叫び声を上げて息を引き取ったと聖書は伝えている。

 

こんな無様で惨めな死に方をした人物がなぜ救い主だと言うのか。それはこの方が、神に対して背き続けて来た私たち人間の身代わりとして犠牲になったのだと教会から、或いは聖書の教師から教えられるけれども、そんなの所詮は後の時代の教会による意味のすり替えではないのか。第一、人類の救い主がユダヤから誕生したと言うのなら、なぜ今のユダヤの人間たちは罪なきガザの一般市民を平気で殺害し続けているのか。キリスト教と関わりのない人ならそう思う。他にも様々な声があると思うが、おそらく多くの人はキリスト教に対して、そんな印象を持っているのではないだろうか。

 

二千年前、イエスは確かに同じユダヤ人たちから非難され、捕えられた。それは、ユダヤ人たちの存在の根拠であった神の律法をイエスが易々と踏みにじったからである。例えば、安息日には何もしてはならない、という律法の決まりに逆らってイエスは敢えて安息日に、足の不自由な人や重い病に冒されていた人に癒しの手を差し伸べた。当時ユダヤを間接支配していたローマ帝国からはイエスは反乱扇動者であると疑われて十字架刑に処されるのだが、それだけではない。旧約の申命記21:23には、「木にかけられた死体は神に呪われたものである」という律法の言葉がある。つまり木の十字架にかけられたイエスはまさしく「神に呪われた者」として死んだことになる。先ほど紹介したイエスが最後に十字架上で叫んだ「わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」という言葉が示していたように、イエスは「神に見捨てられた者」として、「神に背いた罪人」として死んだのである。先程読まれたⅡコリント5章のところでも、「神は、罪を知らない方を」、これはイエスのことであるがその彼を「私たちのために罪となさいました」とはっきり書かれていた。

 

では、そのようにイエスを十字架の死へと追いやった世界はどのような世界であったのか。それは光ならぬ闇が、愛と許しではなく憎しみと怒りが、善ではなく悪が、神ではなく悪魔と罪の力が支配する世界であった。それから二千年が経過した今、我々が置かれているのも同じ世界である。見えないだけで、また狡猾にも尻尾を出さないだけで、実はこの世を操っているのは悪魔なのだ、と聖書は見抜いている。その世界ではすべてが死で終わってしまう。だから誰もが死にたくない。出来る限り死を遠ざけたい。だからこそ、それを逆手にとってある国は、核兵器を引き合いに出して他国を脅し、力ずくで服従させようとする。それでも敵対するならば、その国の人民を平気で殺害し、滅ぼそうとする。良心的な人間は、そんな悪を憎むことは出来る。戦争に反対し、平和を求めることはできる。しかしながら限界がある。それが言えるのは、自分たちの平和が脅かされない限り、という前提のもとでしかない。世界のどこかで争いが発生しても、先ず自らの平和を守ることが優先されてしまう。罪なき者の死に心を痛める者がいたとしても、結局はどこかで、自分がそうなっていないことに安堵している。そこには、神の御心のままに生きている人間などいない。どこかで神に背いて自分を守ることにしがみついている人間しかいない。最後の審判の時が来たら、誰だって滅びの判決が下されて当然である。

 

イエスは、まさしくそのような人間たちによって十字架につけられた。しかしイエスは最後まで無抵抗を貫いた。なすすべなく「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、負け犬の遠吠えにしか聞こえない言葉を最後に叫んで息を引き取った。この時神は、本当にイエスを見捨てたのだろうか。イエスの無残な死は、紛れもなくそれを証明しているのだろうか。

 

先程読んでいただいた新約聖書、Ⅱコリント5:18以下にはこう書かれていた。

「これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。」

 

この手紙を書いたのは、当時ユダヤにいた人間しか知らなかったキリストの十字架の出来事を海を渡って異国にまで伝え広めたパウロというキリストの弟子であった。このパウロは別の手紙の中でこう書いている。ローマ5:8のところであるが、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」と。

 

見た目では、神の独り子であり救い主と言われていた一人の男が無残極まりない姿で息を引き取ったとしか思えないこのキリストの十字架は、実は、キリストが私たちのために、そしてすべての人のために死んでくださったことなのだと。しかもそれは、私たちすべての人間に対する神の愛であったとまでパウロは断言した。なぜそんなことを言えたのだろう。

 

イエスとは、神が世に遣わされた独り子なる神だと聖書は宣言する。イエスは神が人間の姿形を取って世に来られた方だと聖書は宣言する。神であるなら、イエスが罪を犯す筈がない。そのイエスが世に来て十字架の死を遂げたのは、しかも「なぜ私をお見捨てになるのか」と叫んで神に見捨てられた者、呪われた者、罪人となって死んだのは、神に背き続けるこの世にあって、神なき者、救われる値打ちもなく死で命が閉ざされ滅びゆくしかない者、神に見捨てられた者たちのために、そのような者たちに代わって、あの「最後の審判」をキリストが受けた、ということだったのである。神はその時、どこにいたのか。5:19でパウロは記していた。「神はキリストにあって世をご自分と和解させた」と。「人々の罪の責任を問うことなく」和解させたと。「神はキリストにあって」というのは、十字架でエロイ、エロイと叫び苦しむキリストの内に神はいた、ということである。惨めな死を遂げるキリストの中に、見えなくても神はそこにいた、ということである。キリストと共にエロイ、エロイと叫び、人間の命を終わらせる死の猛威の力を神は受け止めていた。しかもあの十字架において、神はなんと自らの独り子を、人間を恐怖へと突き落とす死の力へと、敵対する者の暴力へと引き渡し、最後の審判における滅びの宣告を独り子に下すことによって、人間ならば絶対に耐えられない悲しみ痛み苦しみ絶望のすべてを神は真っ向から受け止めていた。我々人類が恐れ怯える死の恐怖、苦しみ悲しみ絶望と言った悪の力すべてを神はご自身へと向けさせ、そうすることで、つまりキリストを死へと引き渡すことで、本来ならば滅びを宣告されるに決まっていた罪人すべて、人類すべて、神なき者、神に呪われた者すべてに、そしてこの私たちすべてに神は憎しみ怒りではなく愛と赦しを、闇ではなく光を、死の滅びではなく命の勝利、死に打ち勝つ命を、そして最後の審判における滅びではなく救いを届ける道を切り開かれたのである。そのために神はキリストを、死からよみがえらせるのである。キリストをよみがえらせることで神は、死に敗北する命ではなく死に勝利する命を私たちに示し、死を打ち滅ぼしたのである。別の手紙の中でパウロが、「死は勝利に呑み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか」(Ⅰコリ15:54‐55)と記している通りである。

 

先程の聖書の最後のところ(5:21)に、「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです」と書かれていた。神の義とは何だろう。それは、神なき者、神に見捨てられ、呪われた者をこそ救う神の恵みであり、神の愛によって新しい人間へと生まれ変わることである。キリストを十字架にかけることで死と闇と滅びを神はご自分へと向けさせ、そうすることによって神は、本来ならば死でとどめを刺されるしかなかった私たちを、エロイ、エロイと叫んで「自分は神に見捨てられた」と絶望するしかなかった者すべてを救いへ、死に打ち勝つ命へ、栄光に輝く神の国へと迎え入れられる者へと生まれ変わらせてくださるのである。キリストが神に呪われた罪人として死んだのは、本来ならばその苦しみを負うべき私たちを、神に呪われるべき人類すべてを、身代わりに十字架にかかったキリストによって神が赦して生まれ変わらせるため、そうして私たちを復活のキリストに結びつけて神の国へ、永遠の命へと迎え入れてくださるためなのだと。聖書はそう宣言するのである。

 

 

改めて申し上げたい。私たちが生きているのは神なき世界であり、罪と悪の力が支配する世界である。誰もが最後の審判において滅びを宣告されざるを得ない世界である。しかしその只中で、キリストが私たちのために、人類すべてのために、代わって最後の審判を受け、神に呪われ、見捨てられた者として死を遂げて下さった。私たちも死は避けられない。しかしそれは最後の審判を受けるための死ではない。既にキリストが十字架の死において私たちの身代わりに審判を受け、しかも死からよみがえっておられるからだ。ならば死はこの方によって私たちも、神に背いてきたすべての者も、死に打ち勝つ永遠の命へ、神の国へと導かれる死へと変えられている。私たちの前にはこの方キリストによって、死に勝利する命の道が既に切り開かれている。この礼拝において神は私たちに、その道を歩んで良いのだと背中を押して下さっているのである。悩みが何であろう。一度や二度の失敗が何であろう。敵への恐れが何であろう。神はあなたをこの世にあって義としてくださり、死で終わらない命へと生まれ変わらせてくださる。それほどまで神はあなたに愛を注いでいる。そのことに改めて思いを致し、新たなる一週間を、新たなる日々を、キリストによって死を命へ、悲しみを喜びへ、憎しみを愛へ、絶望を希望へと変えたもう神への信頼と希望を抱いて歩む者とされたい。