· 

平和を求める

2024..18.主日礼拝  

イザヤ書54:7-10、エフェソの信徒への手紙2:14-18

「平和を求める」浅原一泰

 

ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが、深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。怒りが溢れ、僅かな間、私は顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ。あなたの贖い主、主は言われる。これは、私にとってノアの洪水の時のようだ。ノアの洪水を二度と地上に起こさないと誓ったように、私は、あなたに対して怒らず、あなたを責めないと誓う。山々が移り、丘が揺らごうとも、私の慈しみはあなたから移らず、私の平和の契約は揺らぐことはない。あなたを憐れむ主は言われる。

 

キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。このキリストによって、私たち両方の者が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。

 

 

17世紀にトーマス・ホッブス(1588-1679)という政治思想家がいる。この人は、人間社会の自然状態は、「万人の万人に対する争い」の状態であると述べたことで知られるが、彼は、このような言葉も残していた。誰も自分を守ってくれない状況の中で、人間は何によって動かされるのか。それは「恐怖」であると。そのことを具体的に示す、次のようなたとえ話がある。

 

「相手を良く思っていない二人の人間が、それぞれピストルを持って部屋の中に閉じ込められていたとする。ともにピストルを窓から投げ出せば、殺し合いの危険を取り除くことができるということは二人とも分かっている。しかし、どのようにすればそうなるのかを知らない。あなたがその一人だとしよう。もしあなたが先にピストルを窓の外に投げ出したら、相手は自分のピストルを捨てなくても自分が危険に曝されることはない。だから、約束を破ってピストルを捨てないかもしれない。そこで二人同時にピストルを捨てる約束をしたとしよう。あなたは正直に投げても、もしかしたら相手は投げる格好だけして本当には投げないかもしれない。また仮に同時に投げたとしても、相手はポケットにもう一つピストルをひそかに隠し持っているかもしれない。しかもその相手は、あなたも同じような裏切り行為を働くかもしれないと疑っている可能性もある。こうして、二人ともピストルを放り出してしまえばよいことを分かっていながら、それを実行することができずに不安な状況が続く、ということになる」。

相手に対する恐怖がある以上、二人ともそう易々とピストルを捨てることは出来ないだろう。これが単に個人対個人の問題ではなく、国家対国家の話であったとしたら、しかも互いに持っているのがピストルではなく核兵器だったとしたら、この問題はまさしく、第二次大戦以降今現在も一向に変わることのない不穏な国際情勢にピタリと当てはまる。

 

毎年八月は、「平和」について思いを寄せる時であると思う。先々週には広島と長崎において原爆の日を迎えた。また先週には終戦の日を迎えた。今朝は、この時期が訪れると必ず、この国の誰もが思い浮かべる「平和」について、聖書は何を語りかけているのか。神はこの現実世界をどう見ているのか。そのことをご一緒に考えさせられたいと思う。

 

そもそも「平和」とは何であろうか。ある人々はこのように主張する。戦争のない状態が平和なのだと。だから、日本に限って言えば今のこの時代は平和であると。しかし別の人々はこう主張する。誰もが仕事のストレスを抱え、喜びをもって働く者が少なく、裏切りや詐欺行為、いじめや家族を虐待する人間が絶えない今が平和と言えるのか。世界に目を向ければ二年前の2月24日から始まったロシアによる卑劣極まりないウクライナ侵攻を誰も止めることができず、ハマス壊滅の正当性を言い訳にしてイスラエルはガザの子供たち初め罪なき一般庶民を殺害し続けている。そんな世界が平和と言えるのか。2017年に国連で採択された核兵器禁止条約は核兵器の非人道性を訴え、その存在そのものを非合法とするものであるが、核保有国は勿論のこと、世界唯一の被爆国である日本ですらもこの条約に署名しない。それはアメリカの核の傘に守られているからこそ今の平和がある、という考えに縛られているからだ。そうして核を持つ国と持たない国とが激しく睨み合う世界が平和と言えるのか。原爆記念日の平和式典で総理大臣が、核兵器禁止条約に署名する意志もないくせに、核兵器のない世界を実現するために最大限の努力を重ねると誓えてしまうこの国で、本当の平和を目指せるのか。

 

世界から戦争はなくならないし、一度始まった戦争を国際社会は止める力がない。それが現実である。この世から武器をなくせば平和になるという人もいるが、核兵器を始め武器兵器など無い方が良いことは誰もが頭では分かっていても、決してなくなることはない。武器を捨てようとどんなに声高に叫んだとしても、先ほどのたとえではないが、持っている国は武器を完全には捨てられない。捨てた途端に他の国から攻められる可能性があり、そうなることに恐怖を感じているからである。他の国が攻め寄せて来たら戦って防がなければならない。攻撃されないように前もって備えていなければならない。それが現実である。そもそも、世界が始まった時から戦争は繰り返されてきた。しかし聖書では、神は人間を、互いに争い殺し合うために造られたわけでは決してなかったと伝えている。互いに信頼し合い、愛し合い助け合うように造られたと伝えている。それなのに戦争を繰り返すこの世界、一発の原子爆弾で多くの命が奪われてしまうようなこの世界は神に背いた世界であり、これは地上の人類に悪が広まって神が人間を造られたことを後悔したという、あの「ノアの洪水」が起きた状態に等しい。先程読まれた聖書の中で、預言者イザヤはそう言っていた。このような現実の世界の中に、自分を犠牲にしてでも、たとえ自らの国が滅びることになっても世界に平和をもたらそうとする国などあり得なかった。これからもないであろう。為政者であれ庶民であれ、人間誰もが恐怖に縛られている以上は不可能だと思う。

 

しかしながら、そのことを身をもって実践した一人の人がいる。その人こそ、二千年前のエルサレムで、十字架の刑に処されたイエス・キリストである。キリストは当時のユダヤ人たちからは、先祖代々伝わる神の律法をないがしろにして神に背いた、という理由で捕らえられ、ユダヤを間接支配していたローマ帝国からは、ローマに対する暴動を企てたと疑われて十字架刑に処された。しかし十字架にはもう一つ、見落としてはならない意味があった。十字架とは神から呪われた者が受ける最も悲惨な刑であり、神の怒りの裁きを意味していた。つまり十字架は、キリストが神から見捨てられたことを意味していたのである。神の独り子、人となられた神であるイエス・キリストがその十字架の刑を受けたのである。しかしながら、そのことを聖書はこう教えている。キリストが十字架の刑を受けたのは、本当は神を知らずに生きている我々人間、自分で自分の身を守ろうとし、敵からの攻撃を防ごうと思い煩い、絶えず不安に脅かされている我々の身代わりなのだと。十字架は、一人一人を神が守って下さっていることを信じられずに無視して来た我々こそが受けざるを得ない裁きであったのだと。その裁きを、人となられた神であるこの方自らが身代わりに受けた。それがキリストの十字架の死という出来事なのだと。このキリストの十字架は、神を無視して生きていた我々を神へと振り向かせようとする神の強い思いなのであると。我々人間を怒りの裁きから免れさせ、赦そうとする神の愛なのであると。そのことに気づいたなら、自分を愛するように隣人を愛する思いが与えられる、と聖書は言う。生まれる前から、何時如何なる時も神が自分を愛し守って下さっていたことに気づき、守れもしないくせに自分で自分を守ろうとしていた自分の愚かさを思い知らされたなら、もはやその人は敵と戦うのではなく、敵をも愛する思いが与えられる、と聖書は言う。これは国や民族の問題ではない。社会という集団の問題でもない。人間一人一人の問題だ。そのことを今、あなたはどう思うか。二千年前から聖書はそう問い続けてきた。そしてここにいる我々一人一人にも、聖書は同じ問いを投げかけている。

 

先ほど読まれたもう一つの聖書にはこう記されていた。

「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです」と。

 

「二つのもの」というのは敵と味方のことである。我々人間は、表には出さなくてもどこかで人を敵と味方に分けてみているところがある。そんな我々に戦争をなくすことは出来ないと申し上げた。それがこの世の限界、人間の限界である。しかし聖書は、人となられた神キリストが私たちの平和であると言う。憎み合う者同士に対しても、キリストは御自分の肉において、つまり我々の心に渦巻く敵意や憎しみや疑い、嫌悪感と言ったすべてをキリストに向けさせて、自ら十字架にかかることによって「敵意」という隔ての壁を既に取り壊したと言う。そうして我々の中に燻る「敵意」や「憎しみ」という争いの火種を、キリストは自らの十字架によって滅ぼして下さっている。そうして一人の新しい人を造り上げて平和を実現して下さっている。十字架を通してその者達を神と仲直りさせて下さっている、と言うのである。

そんなこと言われても信じられるか、と思うかもしれない。敵が未だ武器を捨てていなかったら、その敵にやられたらどう責任をとるのか、と言いたくなるかもしれない。しかしそれでも聖書は言う。キリストが私達の平和だと。イザヤも言っていた。敵がどう動こうと、世界で戦争が果てしなく繰り返されようと神の思いは変わらない、と。山が移り、丘が揺らぐことがあっても、神の慈しみはあなたから移らず、神のもたらす平和の契約、つまりキリストの平和は揺らぐことがないのだと。独り子を十字架にかけてまで振り向かせようとしている神の愛がこの自分にも敵にも、惜しみなく注がれ続けている、としたらどうだろうか。これまで自己中心的に生きることで神に背き、神に敵対して来た自分をも赦す為にキリストは十字架の刑を受けた、それ程まで自分が神に赦され、神から愛されている、としたらどうだろうか。ならば昨日まで敵だったこの人も神に愛されていない筈がない。そのように思いが変えられる。それがキリストがもたらす平和であるそれはほんの小さな出来事かもしれない。しかしそんな出来事は既に起こっている。

 

20年近く前のドイツのベルリンで、西東ディヴァンオーケストラという楽団によるコンサートが開かれた。これは優れたピアニストであり指揮者でもあったユダヤ人のダニエル・バレンボイムと、パレスチナ人の思想家エドワード・サイードという二人が、「パレスチナに平和をもたらすために何が出来るか」について真剣に語り合った末に結成された管弦楽団であった。コンサートのテーマは「戦争の代わりに音楽を」であったという。過激なユダヤ人が罪なきガザのパレスチナ人達を攻撃するニュースしか伝わらないその裏側で、そのような取り組みに力を尽くすユダヤ人とパレスチナ人が確かにいた。因みにサイードというパレスチナ人は聖公会の信徒だったと言う。ある資産家がお金を出して実現したこのコンサートの為にイスラエル、パレスチナ、そして周辺のアラブ諸国から多くの若い優れた音楽家たちが招かれ、合宿で訓練を重ね、見事なコンサートを作り上げた。最後のチャイコフスキーの曲が終わると指揮者のバレンボイムは楽団員の席に入って一人一人に声をかけ、手を握り、肩を抱きしめたと言う。会場からは爆発的な拍手が起きた。それはまさに敵味方を越えた、キリストによる平和の小さな実現だった。

 

覚えていて欲しい。キリストが十字架にかかることで神はご自分と敵を、神と私をも仲直りさせ、それが神の愛であることを教えてくれた。自分の命がこの神から与えられたかけがえのない命だと気づかされるなら、しかもずっと背き続けて生きていた自分を神の愛がキリストの十字架によって振り向かせてくれていることに目開かれるなら、神の愛はその人を変える力がある。隣人を憎むのではなく愛する者へと必ずや生まれ変わらせる力がある。国や政治家が変わらなければならないのではない。世界が変わらなければならないのではない。周りがどう揺れ動いていようと、神はあなたを、一人一人を、キリストによって生まれ変わらせようとして下さっている。

 

 

昔、ある被爆者がこんなことを言っていた。家族や学校、職場などの身の回りでの争いやいじめをなくすこと。そうしなければ戦争はなくならないと。と言われても、いじめはなくならない。だからこそキリストが平和を一人一人に届けている。神の愛をあなたに示して下さっている。それによって昨日の敵を愛するよう変えられた人はいる。ほんの小さな出来事であっても、誰からも注目されなくても、変えられた人々がいる。そこにキリストの平和が始まっている。そのことに気づいていない人が未だ大勢いる。でもそれはキリストの平和が未だ届いていないだけである。神の愛によって変えられていないだけである。ならば私たちはキリストの平和の受け皿となって、その人達にもキリストの平和を受け取る日が訪れるよう、共に祈り続ける者でありたい。