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安らぎへの招き

イザヤ9:5~6、マタイ11:25~30 「安らぎへの招き」

2024年8月11日 左近 豊

 

 昨日、教会建築のためのチャリティーコンサートが行われました。日野妙果さんの豊かな賜物がバッハやドヴォルザーク、ヘンデルやフランク、さらに日本の歌曲を通して会堂を震わせました。100名近くの会衆も日野さんの歌声と服部さんのピアノの伴奏に心豊かに満たされました。新会堂建築に向けて思いを新たにした午後のひと時でした。

礼拝の場である会堂を建て替えるにあたって、教会の長老会では、毎月、会議の冒頭で30分から1時間程度、勉強会を行ってきました。先月は、礼拝の核となる聖餐式が行われる聖餐卓と説教が語られる説教壇をどのように配置するのか、洗礼盤をどこに置くか、そこにその教会の礼拝の考え方が映し出されることについて学び話し合いました。プロテスタント教会は、聖餐式と説教を礼拝の中心に据えています。

「聖餐式」は具体的に見える形で表される神の恵みと言われます。それと並んで、言葉を通して解き明かされる神の恵みが「説教」であるとされています。イエスキリストの十字架と復活の福音をサクラメント(聖礼典)を通して味わうのが聖餐式、メッセージを通して聴くのが説教ということになります。美竹教会の場合は、一段高い所に聖餐卓も説教壇も並べて置かれています。聖餐卓を囲みながら、聖餐と説教を同じように大事にする礼拝の形をとってきたと言えるでしょう。

ただ数年前、新型コロナウィルス蔓延下で、感染予防のために多くの教会が聖餐式を行うことを控えるということがありました。私たちも苦悩しました。オンラインで礼拝を守らざるを得ない中で、一方の説教はオンラインでも聞くことができます。ただ聖餐に与ることができない。片方の翼をもがれた鳥のように、のたうつ痛みと苦しみに魂干上がる思いを禁じえませんでした。しばらくして長老方の知恵と尽力で、近所のパン屋さんに感染対策の行き届いた厨房で個装の袋にパンを詰めてもらい、蓋のできる使い捨ての杯にブドウ液を分けて礼拝で皆さんと一緒に聖餐式を囲むことができるようになった時、主イエスの聖餐への招きの言葉「重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」が砂地にしみこむ尽きることのない水のように渇きが癒されるのを感じました。

 聖餐の恵みと聖書のみ言葉の両方に招かれる礼拝の喜びをキリスト教は2000年以上の歴史を通して味わい噛みしめてきたことを改めて実感しました。

聖餐式も今日の言葉「重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」も、招きの前にイエスキリストの祈りがあります。イエスキリストを囲む晩餐の席に招かれるとき、食卓でパンを取り、感謝の祈りをささげてからこれを裂いて、これを分けてくださる。祈りをもって招かれた。今日の箇所も、同じです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」、感謝の祈りをささげられてから「私のもとに来なさい」と招いておられます。どんな祈りなのか。マタイ112527。  

どこか「主の祈り」と響きあっていることに気づかれた方もおられるかもしれません「天にまします我らの父よ」「み心の天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈っておられたイエスキリストのみ姿に重ねて今日の祈りを聴くことができます。「主の祈り」も、この祈りも、私たちを幼子のようになることへと招き入れます。「幼子たちにお示しになる」、明らかにされる、啓示される福音へと招くのです。この「幼子」と訳されているのは、「エポス(言葉)」と「ネー(否定)」が組み合わさってできた合成語(ネーピオイス(単数形ネーピオス))なので、「ことばを持たない」「話せない」「語彙がない」存在を指します。巧みに表現することも、思いを伝えることもできない幼子ということです。この3カ月ほど我が家に生後半年の幼子がおりました。赤ちゃんは言葉はないけれど、生きる力の塊であることは実感しました。お腹がすいたり、のどが渇いたり、寝返りを打ちたいとき、眠い時、寝落ちする瞬間まで起きている間、生きるための求めを全身で表す姿に振り回されながら、みなぎる命に触れ、時に抱きしめる喜びを味わいました。教会にも赤ちゃんの声が聞こえることは幸せなことです。

幼子であることを思い出させてくれるのです。神の前では美辞麗句もおもねりもオブラートに包んだ社交辞令もそぎ落として、全身全霊で父なる神と向き合ってよいこと、むしろそうすべきことを思い起こさせてくれるのです。

世を渡る知恵もよりよく生きるための賢さも年を重ねるごとに長けて行きます。そして知識や知恵は信仰を迷信や陶酔に陥らせないためには必要です。理性と知性をもって信仰を言葉にすることをキリスト教は大事にしてきました。ただ、「知恵が深まれば、悩みも深まり、知識が増せば、痛みも増す」(コヘレト1:18)との旧約聖書の知恵も真実です。

知恵や賢さを駆使して信仰を言葉で理解しながら、しかも人の言葉も理性も超えて言い表しつくせない神の真実が啓示されることに開かれているのがイエスをキリストと信じる信仰です。幼子に示され、明らかにされるのは、天の父なる神が子なるキリストと一体であること、そして、この神を知るのは、子なるキリスト自身と、この方を通して現された啓示を受け入れる者なのだ、と。

マタイ福音書は、この後16章で、弟子のペトロがイエスは救い主、生ける神の子です、と告白する場面があります。其時にイエスキリストは「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と応えられています。「(ペトロに)現わす」と「(幼子に)示す」は原語は同じ言葉です。イエスをキリストと告白する信仰は、人間ではなく、天におられる父なる神が示したのだ、と。聖書の別の箇所(Iコリ123)で「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言う事はできません」と言われていることとも呼応するのです。父なる神と子なるキリストと聖霊を通して示される神に、幼子のように全身全霊で向き合うことへと招く祈りをイエスキリストはされた後、言われたのです。

「すべて重荷を負って苦労している者は、私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と。もう十分だ、と。父なる神からすべてを委ねられたキリストのもとで、抱えてきた重荷を下ろしましょう、と。聖餐を囲むこの場所で、聖書の解き明かしを通して語られるこの所で。聖霊が告白させるキリストとまみえる礼拝で。

 この部分について、英国の聖書学者のN.T.ライトという人が、とてもわかりやすく翻訳していたので、紹介いたします。「あなたは現実の苦しみを抱えていますか。私のところに来なさい。あなたは大きな荷を背負っていますか。私のところに来なさい。わたしはあなたに休息を与えましょう。」と。更にその続き。「私の軛を取って、負いなさい。わたしから教えを受けなさい。わたしはあなたに優しくします。私の心が最も望まないことは、あなたを辛い目に遭わせることです。あなたは気が付くでしょう。休息こそあなたが必要としていること、あなたが休息を得るであろうことを。私の軛は負いやすく、私の荷は運びやすいのです。」(N.T.ライト著『すべての人のためのマタイ福音書I115章』大宮謙訳、日本基督教団出版局、2021年、214頁)。

 「あなたは気が付くでしょう。休息こそあなたが必要としていること、あなたが休息を得るであろうことを。私の軛は負いやすく、私の荷は運びやすいのです。」

ライト先生の訳を読みながら、ふと思い当たることがあったのです。生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて、夜昼たがわず数時間おきに授乳に明け暮れ、睡眠不足と疲労で正常な判断もつかないほどに育児ノイローゼになりかけた若い母親がいました。毎日様子を心配していた妹が、本人は大丈夫というのを無視して、片道10時間のドライブをして姉のもとに駆けつけて、一緒にクレープを食べに連れ出し、たわいもない話をしながら笑い、散歩をして帰ってきたとき、赤ん坊の母親は、ああ、自分にはこの時間が必要だった。必要ない誰にも頼らないと頑なに自分を鼓舞してきたけど、休みが必要だったことに気づいた。

 「あなたは気が付くでしょう。休息こそあなたが必要としていること、あなたが休息を得るであろうことを。私の軛は負いやすく、私の荷は運びやすいのです。」

 永遠の彼方から、頑なに頑張って必要を脇に追いやってきた私たちの元へと来られ、私たちが本当に必要な安らぎをもたらすために軛を共に負い、担ってくださった主イエスキリストに、私たちは今日も、招かれています。「重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたに休息をあたえましょう」

 

 祈ります。

 

 私たちが気づかぬ時に、まことの休息と平安を賜るために、私たちのもとへと遣わされたイエスキリストの父なる神様。私たちがまだ罪人であった時に、私たちのためにキリストが十字架に死んでくださり、あなたとの和解をなしとげてくださり、重荷を下ろすところを、真の安らぎを味わうときを、新しい主の負いやすい荷を担って主とともに一歩を踏み出す幸いを味わわせてくださり、感謝いたします。あなたのみ言葉に安らい、罪に死んで主の命に生かされる礼拝の場である会堂をささげるために祈り備えています。私たちの思いも願いも企てもあなたのみ心にかなうものとしてください。