「来るべき方はあなたですか」イザヤ61:1~4、マタイ11:2~15
2024年8月4日(左近深恵子)
コロナの感染が拡大した時に私たちはそれまで大切に行ってきたことの多くを続けられなくなりました。会いたい人に会うことができない、大勢で集まることができない、些細なことであろうと深刻なことであろうと、会えば伝えられる気持ちをなかなか伝えることができない、思い描いていた自分の計画はタイミングも機会も奪われ、もしかしたら未来も奪われるかもしれない、考え始めると不安で押し潰されそうで、浅い呼吸しかできないような時間を過ごしました。そして私たちは自分の弱さ、脆さを痛感したのではないでしょうか。同時に、自分に力を与えてきたものを再発見したのではないでしょうか。タイミングや計画やチャンスや、大切な人の健康や命までも奪われてゆく長いトンネルのような時間が続いた時、見てきたものの中に見るべきものを見て取ることができるなら、力を得られることを知ったのではないでしょう。
洗礼者ヨハネが荒れ野で活動を始めた時、大勢の人がヨハネのもとにやって来ました。らくだの毛衣を着、革の帯を締めた風貌、いなごと野蜜を食べ物としていた生活、神さまのご支配が近づいているから、悔い改めて、神さまのもとに立ち帰るようにと人々に呼びかける言葉の力強さに、人々は来るべきエリヤが到来したのではないかと思いました。
人々がヨハネにエリヤを重ね見たのは、「主の日」と呼ばれる終わりの時の前に、預言者エリヤのような救い主が到来するとの期待が人々の間に広がっていたからです。それは預言者マラキの言葉に拠りました。マラキは、終わりの日に神さまご自身が世に来られ、裁きを行われると、傲慢な者、悪を行う者をわらを焼き尽くすかまどの炎のように滅ぼすと定められると語り、しかし神さまを畏れる人びとには義の太陽が昇る、だから人々が滅ぼされないように、主の日の前に再びエリヤを世に遣わされ、神さまの心を人々に示し、人々の心を神さまに向けさせると告げました。ヨハネの活動を見聞きした人々は、ヨハネの風貌や生き方、活動に溢れる力強さに惹かれ、この人こそマラキが告げた「来るべきエリヤ」ではないかと考えたのです。
ヨハネは確かに「来るべき」人でありました。神さまがイエス・キリストのために人々を備えさせる者として遣わされたのですから、人々にとってヨハネは来なければならない人でありました。しかしヨハネは救い主ではありません。だからヨハネは人々に、あなた方が待ち望んできた方は私の後に来られると、その方は自分よりもずっと力ある方だと語りました。その方は聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる、そして神さまの恵みを受け止め、実を結ぶ麦は倉に納め、実の無い空っぽの麦の殻は消えない炎で焼き尽くす方であると語りました。マラキが告げた救い主のように炎をもって裁く方であり、その上聖霊と火で洗礼を授ける方なのだと。当時大勢の人がヨハネを求めて遠方からもやって来ました。ヨハネの活動は大きな影響を人々に及ぼしました。ヨハネがそのような大きな働きを為すことができたのは、自分の後に救い主が来られると確信していたからであり、自分の働きはその方のための道備えとなることを知っていたからでありましょう。だから悔い改めを呼びかけ、悔い改めの洗礼を授ける使命にヨハネは人生をささげることができたのでしょう。
神さまと来るべき救い主の他何ものをも恐れないヨハネの強さは、時の領主ヘロデの罪を見て見ぬ振りしないことにも表れました。家臣たちや民衆の多くが黙認していたヘロデの罪もヨハネは非難します。その結果ヘロデの逆鱗に触れ、捕らえられました。投獄され、終わりの見えない暗いトンネルのような日々が始まりました。
相手がヘロデであろうと妥協せずひるまず悔い改めを求める行動は、ヨハネが担ってきた使命を貫くものでした。しかし逮捕と投獄によってこれまでのような活動ができない状況に陥ったヨハネに対する人々の思いは、変わらなかったのでしょうか。必要であれば妥協して、投獄されないように活動し続けて欲しかったと思う人がいたかもしれません。投獄されたのは仕方がないが、そこから出る力も持っているのかと思っていたのにと、失望した人もいるかもしれません。今日の箇所で主イエスは人々に、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ出て行ったのか」と問いかけて、風にそよぐ葦ではないだろう、王宮にいるような優雅な衣を纏った人物でもないだろうと人々に代わって答えておられます。荒れ野には葦が多数生えていました。また荒れ野は当時、ヘロデの冬の宮殿にいる、上品な衣を着た王族や王族に近い人々も見出だすことのできた場所だったと考えられています。ヘロデの硬貨に刻まれていたのは、風に揺れるガリラヤの葦であったとも言われています。あなたがたは、葦を眺めるためでも、ヘロデや王族のような者たちを見る為でもなく、来るべきエリヤのような預言者を見出だし、神さまの言葉を告げるヨハネの呼びかけに応えようと荒れ野に行ったのだろうと言われます。あなたがたはヨハネに、何者としての強さを求めて荒れ野に行ったのか、ヨハネは何者であるのか、人々に考えさせます。ヨハネは神が遣わされた、あなたがたにとって来るべき人である。そして預言者であり、それ以上の人であり、この人より偉大な者はいないと言われます。ヨハネが担った使命は他の人と比べようも無いほど大きなものであったことを示されます。あなたがたはそのような人として、ヨハネの力を求めてヨハネを見ていたのか、それともそうではなかったのかと問われます。
獄中のヨハネ自身は何を見ていたのでしょう。牢の外に起きていることはもはや見ることができない、トンネルのような日々の中にあっても、ヨハネは見るべきものを見ようとしています。ヨハネには大勢の弟子がおり、獄中でもその弟子たちとやり取りをすることは許されていたようです。主イエスが活動を始められたのはヨハネが捕らえられた後でありますので、ヨハネは主イエスの為さったことを弟子たちから聞きました。ガリラヤの地域を巡りながら、神さまのご支配が近づいたと、悔い改め、神さまの元に立ち返りなさいと福音を宣べ伝え、病や悪霊による苦しみ、律法の規定によって汚れを負っている苦しみから人々を解き放つ癒しの業をされ、死者を生き返らせたことを、弟子たちを通して聞きました。それら主イエスが為さってきたことを聞いたヨハネは、主イエスの業は一人一人を苦しみから解き放つだけでなく、神さまのご支配の到来を人々に示すためのものであると、主イエスこそ神さまのお力をもって働かれている、神さまが遣わされた救い主だと分かっていたと取ることもできます。だから弟子たちにもそのことを知って欲しいと弟子たちを遣わしたと、推測することもできます。あるいは、主イエスが救い主であるとの確信がヨハネには無かったから、確かめるために弟子たちを遣わしたと解釈することもできます。聖書の僅かな言葉だけで、ヨハネの意図を定めることはできません。いずれにしてもヨハネは弟子たちに、彼ら自身が主イエスに問う機会を与えたのでした。
ヨハネはこの後ただ獄に留め置かれ続け、裁判の場で弁明をする機会も与えられず、最期は宴の余興のようにヘロデによって殺されてしまいます。獄中でヨハネはこの先をある程度覚悟していたのかもしれません。自身の罪をこれ以上指摘されたくないヘロデが自分に獄から出る自由を与える可能性は少ないだろうと。そうだとすれば、投獄によって使命に生きる道を阻まれたヨハネはこの先に何を見ていたのでしょうか。自分の後に救い主が来られることは確信していたヨハネです。これまでの自分の働きを神さまがその方のために用いてくださることも信頼していました。獄の外を見ることはできないけれど、来るべき救い主と、その方が成し遂げてくださる救いを信仰によって見つめていたなら、これまでの人生も、牢から出られない今の時も、神さまの救いを通して見ることができたでしょう。自分の弟子たちも、そのように見て欲しいと、自分がこれまで為して来たことも、今の自分の労苦も、信仰によって見るべきものを見て取るようになって欲しいと、ヨハネは願ったのではないでしょうか。この先自分が彼らを直接指導することができなくなる時が来ても、彼らが救い主と共に信仰の道を歩み続けることを願って、その歩みを彼ら自身が考え、選び取れるようになるため、弟子たちが直接主イエスに問う機会を彼らに与えたのではないかと思えてならないのです。ヨハネの弟子たちの全てが、ヨハネの死後、主イエスの弟子となったわけではありません。信仰の歩みとは、どの道を行くことが神さまにお応えする歩みとなるのか、一人一人が神さまのみ前で問い、決断することの連続です。ヨハネを信奉し、ヨハネに従うことに自分たちの人生を定めた弟子たちも、尊敬するヨハネの言葉だからと、ただヨハネの勧めや教えに機械的に従うのではなく、自ら神さまに問い、神さまの言葉と向き合い、時に格闘し、決断へと導かれることを経て、一人一人の人生を刻んで行かねばなりません。弟子たちが自分の道を主イエスの言葉によって示され、主のみ前で問うてゆく備えとなるように、彼ら一人一人に主イエスとの出会いを贈ったように思えるのです。
私たちは救いと言う言葉を自分なりの意味で使いがちです。自分が何を辛いと思っているのか、何を足りないと思っているのかによって、「救い」という言葉で求めるものも変わるかもしれません。今自分を辛くさせているもの、足りないと不安にさせているもの、この先自分が陥るかもしれない状況、それらから解き放たれることが「救い」であると考え、それらから解き放ってくれる力を持つ人や何かを自分の救い主とし、そのような救い主を見出そうとするかもしれません。
ヨハネによると、私たちに神さまが与えてくださった救い主の力は、罪を燃やし尽くす消えることのない火のようなお力であります。マラキがわらと言い表し、ヨハネがもみ殻と言い表した罪とは、私たちの奥底にある澱んだ闇のようなものです。私たちを内側から汚染し、他者との関りも、神さまとの交わりも、支配しようとするものです。神さまが自分の神さまであることに抗い、否定し、自分が自分の裁き主だと、自分を義とするのも悪とするのも自分次第だとし、自己中心的な自分の思いに他者をも従わせようとするものです。その澱んだ闇のようなところを自分の居場所、自分の逃げ場としたがり、神さまにお応えする生き方にも、他者との祝福された生き方にも背を向けてしまう私たちです。その私たちの上に義の太陽を照らすために、神さまは独り子を私たちに遣わされました。罪に支配されているところから、神さまとの交わりの中に戻るように、主イエスは呼び掛けられました。神さまのご支配が近づいていることを示すために、様々なことを為さいました。5節で挙げられている主イエスが為してこられたことは、先ほど共にお聞きしたイザヤ書61章の、預言者イザヤが告げた言葉と重なります。イザヤを通して神さまは、苦しむ人に良い知らせを伝え、心の打ち砕かれた人を包み、捕らわれている、つながれている人に解放を告げ、嘆く人を慰め、嘆きの代わりに喜びと賛美を与えるために、救い主を遣わすと告げられました。主イエスが為さってこられたことによって、この預言は実現されてきました。主イエスの業をバラバラに、その時だけのこととして眺めて終わるのではなく、主イエスのお働きを通して示されている神さまの救いを見て取ることが求められています。主は「私につまずかない人は幸いである」と弟子たちに語り掛けられました。主イエスにつまずく、とは、主イエスの言葉や業は自分の期待する救いとあまり重なっていないと一瞥して通り過ぎたり、主イエスの言葉や業に従うと自分が思い描く生き方ではなくなってしまうと退けることであります。自分で自分を良しとする歩みに疑問を呈し、自分の罪を明らかにする主イエスに躓き、自分の求めるものを与えてくれそうな人やものに次々と頼り、結果、心から安らいで全てを委ねられる救い主が見つからないままでいるのではなく、主イエスこそ神さまが与えてくださった、来るべき救い主であると受け入れる人となりなさいと。そのような人は幸いなのだと、それが神さまの祝福の内に歩む道なのだと、呼び掛けてくださったのです。
主イエスに、自分が望む裁きの業を求め、主イエスが期待通りに他者を裁かないことに躓くこともあるでしょう。神さまがかまどの炎のように罪を焼き尽くすと言われる裁きは、私たちの浅く、刹那的な視野を超えています。主イエスのこれまでのお働きに、人々は、思い描いていたような裁きを見て取ることができなかったかもしれません。町や村で罪人を断罪して回ることも、神の民の指導者でありながらその立場に相応しくない者たちであるヘロデやエルサレムの指導者たちを次々と捕らえ、罰することもしておられません。寧ろ罪人たちの中へと入ってゆかれ、福音を宣べ伝え、悔い改めを呼びかけておられます。そしてこの先、主イエスは全ての罪人たちのために、その一人一人の代わりに、罪に対する裁きをご自身が受けるために十字架でご自身を捧げ、死んで行かれます。神である主イエスご自身が、かまどで焼かれるわらとなり、火で焼き尽くされるもみ殻となってくださることによって、私たちの罪の闇がどれほど濃いのか、どれほど執拗に私たちの内に巣くい、私たちを支配しようとしているのか、明らかにされました。3日に渡って死を完全に死に通された後、復活されたキリストによって、罪と罪による死は滅ぼされました。キリストのただ一度の死によって、燃え尽きることの無い炎のように罪は滅ぼし続けられています。そして、洗礼においてイエス・キリストと共にこの死を死に、罪と罪による死に断ち切られることの無い新しい命に生きる者とされる道を、キリストは私たちにもたらしてくださいました。罪びとである私たちの上に義の太陽の光を注ぎ、私たちを倉に大切に保管される麦とする道を、切り拓いてくださいました。キリストの救いのみ業こそ、どのような人間の業も比較することのできない、力強い救いであります。人の信念や熱意の強さに依るのではない、主イエスの十字架の死と復活によって打ち立てられた、決して揺らぐことのない救いの道です。
ヨハネの弟子たち、また群集に問われたことは、今日の私たちにも問われています。一人一人が主イエスのみ前で、どなたを見ているのか、何を見て取ろうとしているのか、いつも問われています。主のみ前で自分で考え、主イエスこそ救い主であると受け止め、その信仰を証しする道を選び取ることを、求められています。他の人々も彼ら自身、主のみ前で考えることへと導く仕方で、イエス・キリストの福音と出会った自分において起きて来たこと、与えられてきたことを伝えることも、私たちの、そして教会の使命であるのです。