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私は復活であり命である

2024.7.28.主日礼拝

イザヤ45:2-7、ヨハネ11:27-37 

「わたしは復活であり、命である」浅原一泰

 

私はあなたの前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを砕く。私は暗闇に置かれた宝と隠された財宝をあなたに与える。それは、私が主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためである。私の僕ヤコブ、私が選んだイスラエルのために私が呼んだ名をあなたに名乗らせようとしたが、あなたは私であると分からなかった。私は主、ほかにはいない。私のほかに神はいない。私はあなたに力を授けたが、あなたは私であると分からなかった。それは、日の出る所からも、日の沈む所からも、人々が知るためである。私のほかは無に等しい。私は主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和を造り、災いを創造する者。私は主、これらすべてを造る者である。

 

マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」

マルタは、こう言ってから、家に帰ってしまいのマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に行って泣くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、心を騒がせて、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

 

我々人間は、物を見ると直ぐに何かと比べたがる生き物である。見た目、中身、雰囲気、自分にとっての価値の有る無しなど。色々な角度から、ありとあらゆる手段を講じて、比べられる限りは比べようとしてしまう。しかも我々は物を比べるだけではなく、人間をも他の誰かと比べたがる生き物だと思う。人を安易に比べることで誰かを傷つけてしまうこともある。逆に、私にも経験があるが、無責任に他の誰かと比べられることで、心に傷を持ったことのある人もこの中にいるのではないだろうか。

 

人間は百人百様、皆それぞれ違う顔を持っている。一卵性双生児でも、その両者は違う感情を持ち、違った生き方を選び、違う価値観を抱く筈である。たとえ双子であろうと、親兄弟であろうと、世にある一人一人に、その人にしかない「かけがえのないもの」がある。だからこそその人にしかない生き方が芽生えていくのだと思う。

クリスチャンの生き方を信仰と言うが、それも同じだと思う。神を信じたからと言って、その人達が皆同じ顔になるわけでも同じ性格になるわけでもない。信じた人なら誰でも、その信仰、生き方が同じ質になると言うわけでも絶対にない。そこには違いがある。すると我々は直ぐに安易に比べようとしてしまう。しかし一人一人の信仰に違いがあるのは比べる為ではない。信仰というのは、神がその人に与えた賜物である。人それぞれの生き方と同様に、その信仰を比べることなどできないと思う。

 

今朝与えられた御言葉の中に、イエスを信じる二人の姉妹が出てくる。彼女らが住んでいたベタニアにイエスが来られた、と聞いて、姉のマルタは直ぐに立ち上がって迎えに行ったと20節に書かれている。けれども妹のマリアは家の中に座ったままであったと聖書ははっきりと伝えていた。この姉妹は、長い教会の歴史の中で実によく比べられて来た。別の福音書にも同じ名前の姉妹が出てくるが、そこではイエスの世話をする為にマルタが忙しく立ち回る女性、マリアは座ったまま、イエスの語る言葉に聞き入っている女性として登場する。マルタは「マリアにもっと働くように言って下さい」とイエスに訴えるが、「必要なことはただ一つだけである。マリアはその一つを選んだのだ」と、逆にイエスに叱られてしまう、という有名な話である。この二人の信仰はよく比べられて来た。あなたの信仰はマルタ的ですか。それともマリア的ですか。クリスチャン、特に女性のクリスチャンはそんな風に問いかけられたことがあるのではないだろうか。マリア的信仰になりなさい、と勧められたことがあるのではないだろうか。

 

しかしこのヨハネ福音書は、そんな二人のイメージをがらっと変えている。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。今日の最初のところで、先にそうイエスに応えたのはマルタであった。二人を安易に比べて、どちらが正しいかを知れば済むかのように考える我々の浅はかさを見透かすかのように、この福音書はマリアよりもマルタに、先に信仰の告白をさせている。この福音書は二人の信仰を比べようとはしていない。マルタとマリアのどちらが正しいか、ではなく神のもとから来られた独り子なる神であるこの方、25節で「私は復活であり、命である」と宣言していた主イエス・キリストのみに我らの目を向けさせようとしている。

 

 

「先生がいらして、あなたをお呼びです」。

家に戻ってきたマルタからそう言われたマリアはすぐさま立ち上がり、イエスのもとへ向かう。マリアは今の今まで泣き崩れていた。愛する弟ラザロの死に直面していたからである。その彼女がいきなり立ち上がった。彼女を慰めるためにエルサレムから来ていたユダヤ人達は、その時のマリアのただならぬ表情の変化と尋常でない仕草を見て、彼女が墓に向かうのではないか、墓の前でまた崩れ落ちて涙を流すのだろうと思い込む。

しかしイエスのもとに駆けつけたマリアは、二人きりで主イエスと向き合った。イエスを見るや否や、マリアは主の足もとにひれ伏し、姉のマルタもこぼした言葉を主にぶつけてしまう。

主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。

 

主よ、何故もっと早く来てくださらなかったのですか。あなたが来るのが遅いから弟は死んでしまったではないですか。それがマリアの偽らざる本心であった。それ以上一言も発することが出来ずにそこからまた、泣き崩れてしまった。ラザロが死んだ後でも、「主よ、あなたが世に来られる筈の神の子、メシアであると私は信じています」と告白できた姉のマルタとは様子がかなり違っていた。それだけマリアには信仰がなかったのだ、と言う人もいるかもしれない。しかし信仰とは、主を信じるとは、迷い出ていたその人を神が捜し出すことである。羊飼いであるイエスを通して暗闇にいたその人を神が見つけ出すことである。マルタだけでなくマリアも今、イエスに捜し出されていた。そして、マルタはすでにイエスから慰めと希望の言葉をかけられていた。今日の説教題でもある、25節のこの言葉である。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」しかしマリアはまだ、イエスから言葉をかけられてはいなかった。

 

主イエスの足もとでマリアがうずくまり、嗚咽の声を発していた丁度その頃、あのユダヤ人達がやって来た。主の足もとでむせび泣いているマリアを見て、彼らも思わずもらい泣きをしたと、33節に書かれている。ラザロの死によって、泣いているのはマリアだけではない、主イエスの周りに集ってきた全ての者がそうであったと聖書は伝えている。

 

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12:15)と言う教えがある。「悲しむ人々は幸いである、その人達は慰められる」(マタイ5:4)と言う教えがある。イエスも、むせび泣くその人々を見て涙を流されるのであろうか。マリアは勿論のこと、悲しんでいるユダヤ人たちの為にも慰めの言葉を語りかけるのであろうか。その時のイエスの姿を聖書はどのように伝えているであろうか。

 

なんとイエスは「心に憤りを覚えた」と伝えている。「興奮した」と伝えている。イエスはその時、激しく怒ったのである。何故イエスはマリアを慰めなかったのだろう。何に対して憤っていたのだろう。それは、我々人間の、死に対する諦めの思い、に向けてであった。もはや死んだ者は帰っては来ない、死んだら終わりだと思って泣いている人間たちの心の中に巣くう思い、に向けてイエスは激しく憤っていた。それだけではない。それ以上に、人々を諦めさせ、そこまで無気力にさせてしまう、死が及ぼす力そのものにイエスは激しく憤っていた。死は罪の働きであり、罪がその人にもたらす最後通告である。イエスの激しい怒りは、それまでは喜べていたとしても、死を突きつけて一瞬にして人間を悲しみのどん底へと突き落とす、計り知れない破壊力を持つ罪の力、その支配に向けられていた。それに屈して自分の目の前でむせび泣くことしか出来ない人々を見ながら、主イエスは激昂し、息荒くして、遂に口を開かれた。

どこに葬ったのか!」

 

今自分の周りには、罪の力に打ちのめされ、屈してしまっている人間しかいない。しかも、マリアのように主に愛されている者でさえもが、である。先ほども紹介した25節でイエスはこう宣言していた。「私は復活であり、命である」と。「私を信じる者は、死んでも生きる」と。そのイエスが目の前におられるのに、弟ラザロの死と言う罪の働きに直面し、弟は助からなかったとマリアは泣き崩れている。イエスと出会っていても罪の力に縛られたままの人間の姿がそこにある。主に見つけ出され、主に愛されていながら、この世しか見えなくなっている人間の姿がそこにある。人間的に考えれば、そのようなふがいない人間など主イエスに叱りつけられて然るべきなのかもしれない。しかし聖書は、その時のイエスの姿をどのように伝えているであろうか。

 

 

イエスは涙を流された」。

聖書はそう伝えている。元々のギリシャ語でダクリュウオウというこの動詞は、マリアやユダヤ人達が泣いたのとは違う動詞である。聖書は、マリアやユダヤ人たちよりも、どの人間よりも遥かに激しく、遥かに深く強く嗚咽の声を発するイエスの姿を描いているのである。その涙の意味は何であるのか。誰のために主は涙を流されているのか。死んだ友ラザロの為に涙を流しているのではない。マリアの為である。主に愛され、その主に見つけ出されて信じた筈なのに、死の力が差し迫ると忽ちにして生まれながらの罪の姿に戻って悲しみ、死に絶望することしかできなかったマリアの為に、主は涙を流されているのである。死の事実をつきつけて人間を悲嘆・絶望へと陥らせる罪の力に対しては激しく憤りながら、その罪の力に打ち負かされている一人の信じる者、弱く小さな者であるマリアの為に、主は激しく、涙を流されていたのである。

その涙を見て、そこにいたある者らは言う。「何とラザロを愛しておられたことか」。しかしそれは勘違いである。別の者達はもっと甚だしい勘違いをする。「盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なないようには出来なかったのか」。かつてはイエスをもてはやしていたのに、役に立たないと分かると直ぐに批判し始める人間の姿がそこにある。

ならば皆は、その主の目から激しく流れる涙を見て、どう思われるであろうか。「私は復活であり、命である、私を信じる者は死んでも生きる」と言われたこの方は、その時何を思った、と思うであろうか。

 

 

死を前に絶望し、諦めることしか出来ないマリアのために激しく涙を流しつつ、イエスはこの時、自らが十字架に進み行くことを固く心に決められたのではないだろうか。死んでも生きる命を示す為に。神が一人一人に与えた命は、死に勝利する命であることを示す為に。罪に打ち負かされているマリアの弱さを、そして神を知らず命の意味も知らずただ同情の涙を流す多くの者の罪をも身代わりに背負う為に。信じる者を死に勝利されたご自身の命に与らせ、信じる者は死んでも生きることを固く信じさせる為に。マリアを見て、その周りでもらい泣きする人々を見て、罪の力に屈している人間を憐れむ余り、激しく涙を流しつつイエスは、十字架に自らが向かわねばならないことを固く心に決められたのではないだろうか。

 

「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」。

25節でそう宣言されていたイエスから見れば、ラザロは死んではいなかった。眠っているだけだった。肉体の命に終止符が打たれていたとしても、友である主イエスと結ばれていた命、彼の中にイエスが宿って、ラザロを本当の意味で生かしていた真の命、永遠の命は決して終わってはいなかった。罪の力に屈して、そのことが信じられなくなっているマリアを始め、死に対して絶望しか抱かずに敗北してしまっている我々人類のためにもイエスは涙を流し、この先43節でイエスはラザロを生き返らせる。にわかには信じがたいこの話が、他ならぬあなたがた一人一人において実現させるために、そのことを信じさせるためにも、イエスはすべての者を絶望へと追いやる死の力を十字架で自ら受け入れる。人間イエスはそこで息を引き取る。しかしその上で、神が与えた真の命は死をもってしても終らせることなど出来ないことをマリアや姉のマルタ、その場に来ていたユダヤ人たちを始め、我々人類すべてに気づかせるために、神はイエスをよみがえらせられたのである。

 

 

 

神に背を向け、自分中心的にしか生きられない我らの為に涙を流し、十字架を背負いたもうイエス。それはラザロのように死んでいた我々を生まれ変わらせるためである。このイエスの愛は、信じる者をその恵みに応えさせる。主の恵みにマリアも、そして我らも、応える者とされてこそ初めて、イエスの愛は全うされる。では我々は如何に、主の恵みに応えるべきなのか。共におられるイエスに目が開かれることである。死からよみがえられ、今も我らの只中におられる復活の主に目が開かれることである。主は言われていた。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。イエスのこの問いかけに「主よ、信じます」と応えることである。