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祝福の種蒔き

「福音の種蒔き」イザヤ52710、マタイ10515

2024721日朝(左近深恵子)

 

主イエスはガリラヤの町や村を巡って人々に福音を語りました。主イエスが語られた福音とは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というメッセージでした。天の国とは神さまのご支配を示します。神さまのご支配があなたたちの側に既にもたらされ、近づいている、だから神さまのご支配の中へと入って行きなさい、神さまのところがあなたがたが本来居るべきところであり、神さまはあなたがたが戻ってくることを願っておられるのだから、そう呼び掛けて回られました。神さまが支配しておられるとはどのようなことであるのか人々に示し、癒しもされました。自分の力も、他の人の力も、そこから自分や大切な誰かを解き放つことができなかった病の力や汚れた霊の力の支配から、救い出されました。そうして、ご自分に神さまのお力が共にあり、神さまのお力がどのような人を支配するものよりも勝ることを示されました。

主イエスの語り掛けを聞いて、神さまの元へと立ち帰ろうと、人々が主イエスの所に集まってきました。主イエスの傍に居たい、主イエスに従いたいと願う人々も出て来ました。主イエスに「私に従いなさい」と声をかけられて従うようになった人々もいました。こうして、主イエスに従う人々、つまり主イエスの弟子たちが増えてゆきました。

ある日主イエスはその弟子たちの内12人を、町や村に遣わされたことを先ほど聞きました。この箇所を、これは特別な12人の話だからと、横目で見るように通り過ぎてしまいがちな私たちでありますが、果たしてそうでしょうか。今日の箇所の直前に、この12人について述べられています。12人は、自分でそう思い立って、自分を人々の所に遣わしてくださいと、主イエスの所にやって来たわけではありません。主イエスが彼らを呼び集めました。彼らが選ばれたのは、その能力や資質が選考のための審査で認められたからとは書かれていません。主イエスが12人を選ばれ、呼ばれた、それが理由です。

その少し前に、イスラエルの民の状態が記されています。民は飼う者のいない羊のように、弱り果てていたとあります。イスラエルは神の民とされた人々です。彼らが羊であれば、その飼い主は主なる神です。けれど彼らは主を見失っています。主である神さまは民の中に真の羊飼い、イエス・キリストを与えてくださっています。キリストは人となられ、一人一人の名を呼ぶようにして町や村を巡って福音を語り、緑の青草が茂り、澄んだ冷たい水を湛える泉のような神さまのご支配の中へと導こうとしておられます。それなのに民は主イエスが救い主であることが分からず、神さまのもとに、自分たちの住まいに、帰れなくなっています。この人々の状態を主イエスは深く憐れまれ、人々の所に遣わすために12人を呼び集められたのです。

私たちの内側には、キリスト者の中の一部の人々が、福音を宣べ伝えるために派遣されるという特別な務めを与えられており、それ以外の普通の人は主イエスの傍で主イエスの恵みを受け止めているので十分、そのような思いが何度でも浮かんできます。しかし12人は神さまの元へと招かれた人であります。招かれた人が遣わされる人となります。私たちも招かれた者であるのですから、遣わされる者であることの自覚も求められるのです。

招かれていると言うことは主の傍に居るということで、遣わされるということは主から離れるということだ、そのように派遣をイメージしがちです。けれど福音を伝えようと勇気を振り絞り、つたない言葉を必死に重ね、そうやって福音を運ぶ人に主は決して遠くない、寧ろ主が支え、力づけてくださり、思いもかけない喜びを与えてくださることを、私たちは経験するものです。その時できる最善の仕方でひたすら、主イエスとはどのような方であるのか語り、主からいただいてきたものを、誰かと分かち合いたいと願うだけであります。

主イエスは12人に、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」といわれます。私たちは神さまからいただくほどにふさわしい何かを自分が差し出したから、神さまからいただいたのではありません。私たちが何かを犠牲にしたから、神さまから得ることができたのではありません。「ただで」という言葉は、「贈り物として、恵みとして」という意味の言葉です。ただ神さまから贈り物として、恵みとして、いただいています。そのタイミングも神さまからいただいています。頑張っている人が早くて、怠けている人は後からもらう、というわけではありません。神さまの救いのご計画の中で、誰かを通して神さまがキリストとの出会いもたらしてくださり、私たちは私たちのタイミングで、自分にそのような出会いが与えられていたのだと、神さまから恵みをいただいているのだと、気づかされます。「ただで」神さまから贈り物をいただいてきたのは、12弟子だけでは無いことに、この自分もそうであることに、気付かされます。

主イエスが呼び集められたのが12人であることに、主イエスの時代や福音書の時代の人々は、イスラエルの12部族との対応を見出したことでしょう。旧約聖書には、神の民イスラエルが12部族をもって構成されていく歴史が綴られています。12人の弟子は、主イエスが招いてこられた神の民を、そして主イエスが遣わされる神の民を代表します。神の民の歴史が、新たに始められます。教会へと繋がってゆく歴史です。この始まりに主イエスは12人を集められ、全権をお与えになり、人々の中へと遣わされました。12人の後もキリストの弟子である者たちは、そして教会は、神さまの派遣の召しを受け止め、福音を証しする言葉を紡ぎ出し、全能の神のお力が人々の上に注がれるように祈り求めてきました。私たちも、この主の召しを受けている群れの一つであります。

派遣に当たって主イエスは12人に、異邦人やサマリア人のところに通じる道を進むのではなく、イスラエルの民の所に行きなさいと命じられます。この言葉に私たちは戸惑いを覚えるのではないでしょうか。なぜイスラエルの民に限るのだろうと。福音書の様々な箇所から、主イエスが当時の大抵のイスラエルの民よりも遥かに、異邦人やサマリア人に救いの扉を開いていたことは明らかです。そしてこの福音書の終わりでは、復活の主が、ユダが抜けて11人となった弟子たちに、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と命じておられます。異邦人もサマリア人も含めたすべての民の所に行きなさいと、そして洗礼を授け、ご自分が語られたことをすべて守るように教えなさいと言われています。これら主の言葉と、今日の箇所の言葉には、距離があるように思うのです。

この直前で主イエスが、飼う羊飼いのいない羊のように打ちひしがれているイスラエルの民を憐れんでおられたことを思い起こす時、主がイスラエルの民のところに行くように言われたことの意味が見えてくるように思います。12弟子を遣わされるその先に、主は彼らを全ての民へと遣わされる日を見つめておられたのかもしれません。主イエスご自身のお働きも、この時点までその大半はイスラエルの民に向けられていました。主イエスは、神の民の群れを新たに神さまのご支配の中へと導き入れる働きに、弟子たちを参与させてくださるのです。

イスラエルの民はそもそも、神さまによって「祝福の基」として立てられた民です。イスラエルの歴史の始まりに神さまがお立てになったアブラハムに神さまは、「あなたを祝福の基」とすると言われました。「あなたを祝福する人を私は祝福する」「地上のすべての氏族はあなたによって祝福される」と言われました(創世記1223)。神さまの祝福をいただいて生きる彼らから溢れ出す祝福が他の民へともたらされる、そのような基としての務めを、神の民はどの時代にあっても委ねられています。それなのに神さまからの祝福を内に湛えることができず、生気を失っているご自分の民に主イエスは胸を痛めておられます。異邦人には祝福が必要無いのではありません。祝福の基であるはずの人々がそもそも祝福で満たされていません。魂が飢え渇いているのに、その危機に自ら十分に気づくこともできずにいる人びとの深刻さを、神のみ子である主イエスは全てご存知です。その民に命の道を示すために先ずご自身が人々の中へと入ってゆかれました。そして弟子たちも遣わされます。弟子たちは一人ではありません。彼らは主に遣わされ、主のお働きを主と共に担います。彼らには同じように遣わされている仲間の弟子たちがいます。主に祈られ、互いに祈り合う、そのつながりの中で、遣わされるのです。

旅の装備がほとんど手ぶらのような状態であるのも、彼らが既に、ただで、恵みとしていただいているものにたえず目を向けていて欲しいと願ってのことではないかと思います。12弟子の1人であるペトロが後にエルサレム神殿の近くで物乞いをしていた足の不自由な人に、「私たちを見なさい」と言い、その人が何かもらえるのかと期待して注目すると、「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と告げ、その人の右手を取ると、その人は立ち上がり、神さまを讃美しながら神殿へと入っていたと、使徒言行録に記されています。金も銀も銅も持ってはならない、予備の衣類も持って行ってはならないと主が言われるのは、持っている、目に見える、量ることのできるものの数や量や値の高さに頼ろうとする人間の実態を見抜いておられるからではないでしょうか。私たちは多く持てば持つほど、神さまからいただいている恵みの貴さを軽んじ、恵みを与えてくださった神さまではないものに依り頼んでしまう者であることを、私たち以上にご存知です。福音を宣べ伝える旅に必要なものは神さまが出会う人々を通して備えてくださることにも、自分がいただいており、伝えようとしている神さまの恵みが自分が遣わされている相手に十分であることにも、信頼しきれなくなる危うさを抱えているからこそ、このように命じられたのではないでしょうか。キリスト者は皆主から福音を宣べ伝えることへと遣わされている者であり、福音を宣べ伝えるということは、自分がいただいている祝福を他の人と分かち合うということであります。

イザヤ書52章が語る伝令は、捕囚とされていたイスラエルの民が捕囚の縄目から解き放たれる、救いの到来の報せを携えています。神さまでは無く、大国の力によって生き残ろうとし、結果大国の捕囚となり、抗えば押し潰されそうな大国の支配の下で無気力に、死んだように生きて来た民に52章は冒頭で力をまとえ、お祝いに備えて美しい衣をまとえ、塵を払い落として立ち上がれとの預言者の呼び掛ける言葉を伝えます。ここにも「ただ」という言葉が登場します。「あなたがたはただで売られた。それゆえ、金を払わずに贖われる」と。預言者たちが神さまに立ち帰るようにと、他の力にではなく神さまに依り頼むようにと呼び掛けて来たのに、神さまに背を向けたイスラエルの民は、「ただで売られた」と、捕囚の事実を告げて、そのイスラエルを神さまはただ恵みによって贖われると、イスラエルの側が何か支払ったからではなく、神さまがそのみ業によって買い戻してくださることによると、バビロンからの救いを言い表します。神さまの救いが推し進められる仕方は、人の売買の尺度で量ることなどできないものです。このみ業こそが平和なのだ、幸いなのだと告げる伝令の足はなんと美しいことかと語られます。山々を行き巡り、埃だらけの、あちこち傷を負った足が美しいというのは、その姿ではなくその働きを指します。神が王となったと、主がその民を慰め、エルサレムを贖われ、その聖なる腕を全ての国民の目の前に露わにされた、このことを告げる働きを担っているから、その足は美しいのです。

 

神さまが全てに勝る王である、私たちを支配する罪にも死にも打ち勝たれたキリストが私たちの王である、この福音を本当に知る時に、私たちは平和を知り、幸いを知り、祝福に満たされます。福音を伝えたくても、言葉を並べただけでは伝えきれません。まして人を癒やすことなど、できるはずもありません。私たちが遣わされる世は、キリストの教えが簡単に受け容れられるようなところではなく、妬みや貪欲、自己中心的な思い、恐怖心が力を振るっている世界です。主イエスが弟子たちに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすため」に「権能をお授けにな」ったとあるように、病や患いや悪の力は、私たちに簡単に神さまに背を向けさせ、神さまから引き離します。結局、自分を支配しているのは神ではなくこの病だ、自分を思い煩わせているこの困難な状況だ、自分だけでなく人々を魅了する悪の思いだと、それが現実なのだ、そう私たちを無気力にさせるこれらの力に、私たちの力や熱意だけで立ち向かえるはずはありません。それらの力と対峙する私たち自身が、神さまから必要な言葉、力をいただき、祈ってくれる信仰の仲間を与えられ、神さまが真の王だと知り、祝福に満たされてきた者だから、祝福の種を蒔くことにもがきながらも、必要な言葉も力も主が与えてくださると、蒔かれた種を育ててくださるのは主であると、安心してもがくことができるのです。