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起き上がらせる方

イザヤ402731、マタイ91826「起き上がらせる方」

2024714日(左近深恵子)

 

 「悔い改めなさい、天の国は近づいた」と人々に呼び掛けながら、主イエスはガリラヤの地域からお働きを始められました。罪に引きずられているところから、神さまの元へと立ち返りなさい、天の国、神さまのご支配はあなたがたの近くまでもたらされているのだからと呼びかけ、神さまのご支配を示すみ業として癒しをされました。

主イエスのお働きは、神さまによってご自分の民とされたイスラエルの民の中に留まらず、異邦人の民にも及びます。また、神さまから与えられた律法を大切に守る生活をしている人々の中に留まらず、神の民でありながら律法を守ることができないでいる人々にも及びます。ある日主イエスは、律法を守る生活ができておらず、だから罪人だと周囲から退けられている人々と、食事を共にされました。律法を非常に厳密に守っている人々は主イエスのこの行動に対し、なぜ罪人たちと一緒に食べるのかと、疑問の声を挙げました。また、大勢で食事を楽しんでおられる主イエスの姿に、どうして断食をしないのかと問う人々もいました。断食は神の民にとって、敬虔な者であることの大切な表現の一つであり、このことを重んじる人は週に2度断食をしていたとも言われます。一人の人が主イエスを探してやって来たのは、この食事の場であったと思われます。罪深い者たちと食事を一緒にしていると、また断食をせずに食事を楽しんでいると、主イエスに対してあちらからもこちらからも疑問と非難の声が上がっているその宴の場に、「指導者」と呼ばれる一人の人が入ってきました。

 

この人は、役人、それも上に立つ役職の人であったのだろうと考えられています。この人も、律法を重んじていたことでしょう。そうでなければ神の民の共同体で、指導者として認められることは難しかったでしょう。そのような人が、律法を守ることができずにいる人々と食事をしている主のところへと来ることも、主イエスが人々から批判を浴びているその只中で主の前へと進み出てひれ伏すことにも、驚きを覚えます。この人を突き動かしていたのは、娘を失いつつある親の思いでした。マタイによる福音書は、この人の娘が「たった今死んだ」と述べています。まだ若く、この先の人生に多くの可能性と喜びと出会いが待っているはずの子どもが、自分よりも先に命尽きるのは、親にとって最も耐え難いことでありましょう。死が娘を自分の手から奪ってゆくことを認められない思いで駆け込んできたのではないでしょうか。三日間死者が息を吹き返すことがなければ初めて、その人の死が完全なものであると確認されるとする考え方があったとも言われる時代です。まだ娘の死は決定的な、完全なものとなっていないと思ったかもしれません。そしてこの人は主イエスに希望を見出しました。ガリラヤの町や村で、多くの人を病から救い出してきたこの方ならば、娘を死の力から取り戻してくださるのではないかと。そうして主イエスの前にひれ伏し、自分の娘に「手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう」と懇願しました。手さえ置けば自動的に奇跡が起こる、という意味で言ったのではないでしょう。主のみ手は、主がこれまで病や困難から人々を救ってこられたそのお力を象徴します。死の闇は既に娘を覆い始めている。けれど完全に覆い尽くされる前に主イエスがその手を置いてくださるなら、娘を死の力から取り返すことがおできになると、主のお力に信頼しています。これまで肉体や心に重荷を負い、家族や隣人との交わりの外で生きる他なかった人々や、社会の一員として不十分な者とされてきた人々に、主イエスは手を差し伸べ、その闇の中から救い出してこられました。その主の手を、私の娘の上に置いてくださいと願ったのでしょう。

人々が属していたのは、律法と、律法の戒めを更に細かく明確にするために成文化された規則を重んじる社会でした。そこでは、死体に触れることは汚れを負うことでありました。死体に触れることを戒める律法の背景には、感染症から共同体を守るという意味もあったと考えられていますが、いずれにしても主イエスに、娘に手を置いてくださいと懇願する父親は、主イエスが手を置けば娘はもはや死者でなくなる、主イエスは汚れを負わない、そう信頼していたのでありましょう。人を病と死の闇から救い出す主のお力の下に娘を置こうとするこの父親の願いを、私たちも共にしていると言えます。主イエスの体なる教会に属する私たちも、主イエスのみ前にひれ伏し、主が差し伸べてくださった手の下に自分自身を置いた者であり、礼拝の度に新たにみ前に進み出て、その手の下に自分自身を置く者であります。全身を投げ出すようにして、主イエスに我が子の救いを求めるこの父親のように、大切な誰かが、主のみ手の下にある者となって欲しいと、主に祈り願う者であります。

 

主イエスは父親の言葉を受け止め、宴の席から立ち上がり、指導者の後をついてゆきます。その後を弟子たちも追います。しかし一行が指導者の家に着く前に、もう一人、主イエスの助けを求める人が現れます。それは12年間も出血が止まらない病を負ってきた婦人です。この人の病について福音書はそれ以上のことを何も記していませんが、この人に自身や親しい女性たちの病の苦しみを重ね見る人は少なくないのではないでしょうか。出血が止まらず、痛みや体力の消耗を絶えず抱えながら生活する日々、それが来る日も来る日も続いてきた12年間という年月の長さ、困難の終わりが見えない人生を生きてゆくことの重たさを思わされます。そしてこの人が出血と言う症状によって直面してきた社会的な困難さにも思い至ります。律法と細かな規定によれば、出血している女性に触れることも汚れを負うことでありました。出血している人は、他者に触れることも他者から触れられることも禁じられていました。出血のある女性は他者に汚れを負わせないために、共同体から距離を置いて生活をしなければならなかったはずです。それが、この婦人が気づかれないように背後から主イエスに近付いた理由でありましょう。主イエスご自身にではなく服の端に触れたのは、主イエスに汚れをうつさない為であったのでしょう。それでもこの人は、遠くから主イエスに助けを求めることもできたはずであります。長年社会から遠ざけられてきたこともあるのでしょうか、この人は匿名性の中に潜んだまま、主の力に与かろうとしていたように思えます。

この人は心の内に「衣に触れさえすれば治していただける」と思ったと21節に記されています。「治していただける」と訳された部分で用いられているのは、「救う」という意味の言葉です。聖書の中では「救う」「救い出す」という意味で用いられることが聖書において一般的であり、肉体の健康に留まらない健やかさを意味します。この箇所も「救っていただける」と訳すことができます。そしてこの後主イエスは「あなたの信仰があなたを治した」と言われ、「女は治った」と記されていますが、それら「治した」「治った」と訳されている部分も、同じ「救う」という言葉が用いられています。婦人が望んだのは肉体の癒しだけでなく、出血によって失ってきた人々との交わりの回復でもあったのではないでしょうか。出血が止まれば、隣人たちと共に神さまを礼拝し、共同体の一員として支え合う生活も回復されます。主イエスのみ前に堂々と姿を現し、私を救ってください、私に手を置いてくださいと願うことのできない自分をも、主イエスは救うことがおできになる方だと主イエスに信頼し、そっと衣の房に手を伸ばしたのです。

主イエスはこの婦人の、ご自分に対するひたすらな信頼を、信仰と呼んでくださいました。救っていただくためのふさわしさを十分に持っていない者にも救いを与えてくださると心の内に信頼し、救いをいただこうと手を伸ばすという行動に、信仰を認めてくださいました。足を止め、後ろから近づくこの人の方へと主が向きを変えてくださいました。汚れを主イエスにうつすことを恐れながら手を伸ばしたこの人に、主がお力を注いでくださいました。この人が癒やされたのは、その時でありました。匿名性の中に隠れたまま一方的に主の力をいただこうと手を伸ばした時ではなく、主がこの人をご自分と向き合う者としてくださり、この人に語りかけられた時でありました。恐れと弱さを抱えながら振り絞った勇気を受け留め、ご自分との健やかな在り方へと正し、救いの宣言をしてくださった時でした。この人は主イエスに希望を見出し、救いを求めましたが、この人が主イエスから受けたのは、願っていたものを遥かに越える救いと、願うこともできずにいた主との交わりでした。救いは、一方的に、機械的に、無言で獲得するものではなく、主イエスとの人格的な交わりの中で、主から言葉をもって与えられるものでありました。教会に連なるキリスト者がそうであるように、主イエスが救いを与えてくださると信じる信仰において、この人は救いを受け留めることができました。私たちの側の救いを求める思いが強くても、その熱意から行動を起こすことができても、そこに救い主としての主イエスへの信頼が無ければ、中身が空っぽの衣を引っ張り続けるようなものです。不完全な思いであっても、身勝手さを全て取り除くことのできない行動であっても、信仰に置いて主に心を注ぎ、力を尽くす者へと主は振り返ってくださり、ご自分との交わりを新たにしてくださり、「元気を出しなさい」と語りかけ、救いを保証する言葉を告げてくださるのです。

 

再び、主イエスは指導者の家へと向かいます。死の力と対峙するためです。先の出血が続いていた婦人の日々にも死の闇は陰を落としていたことでしょう。その婦人よりも遥かに若かったであろう、「少女」と呼ばれる娘は、既に死の闇に覆われています。既にその家には、葬りに不可欠な笛を吹く者たちや涙を流し嘆く者たちが大勢集まり、若くして生涯を終えなければならなかったこの娘と、娘を失った家族のために嘆き悲しみながら、葬りのための行為を始めています。彼らは皆、死の力にただ敗北しており、ただ少女を死の闇に引き渡すだけであり、「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と告げる主イエスを嘲笑うばかりでます。全く勝ち目の無い死の力に無様に抗う愚かな者だと思ったのでしょう。死の前で嘆き悲しむ他ない人間の姿です。けれど主が少女の手を取ると、少女は起き上がります。「起き上がる」と訳されている言葉は、復活からのよみがえりを言い表す言葉です。少女は仮死状態から蘇生したのではなく、再び生きる者とされました。このみ業において主イエスは、ご自分が告げ知らせてこられた天の国を、人々の近くにもたらされている神さまのご支配を示されました。死の力をも支配され、死の力にただただ敗北して、絶望の中、呑み込まれてゆく人々を救い出されるお力を示されました。この日再び生きる者とされたこの少女にも、またいつか死の時が訪れるでしょう。しかし父親が朧気ながら主イエスに希望を見出していたように、死の力を超える希望が、この先もこの家族にあります。主イエスが告げ知らせる神さまのご支配の中へと入ってゆく一人一人にも、主イエスのみ手の下に自分や大切な者の存在と生涯と死を委ねる一人一人にも、死が呑み込むことも覆い尽くすこともできない希望があるのです。

 

「少女は起き上がった」と記されている箇所は受け身の形の言葉ですので、直訳すると、「少女は起き上がらされた」となります。少女が自分で自分を起こしたのではなく、少女の手を取ってくださった主イエスが、死の床から起き上がらせてくださいました。先の婦人が主イエスの言葉をいただいた時、「治った」と記されていました。その言葉も受け身の形ですので、直訳すると「治された」となります。婦人の信仰が自分を治したのではなく、主イエスは救うお力を持つ方だと信頼する婦人の信仰に、主が応えてくださいました。病と死の力に脅かされるばかりであった苦しみから、主が救い出してくださいました。肉体は生きていても死の陰が日々の中に浸食し、出口の見えない苦しみの中にあった婦人を救い出され、死の力に呑み込まれていた少女を救い出された主とはどのような方でしょうか。天の国が近くに到来したと、悔い改めを人々に呼び掛け、周囲から罪人と退けられていた人々の友となり、共に食卓を囲み、そのようにして神さまのご支配を示してこられた方であります。主の救いは、罪と、罪の中で命尽きる死からの救いであります。人が神さまから与えられた命を、存在丸ごとをもって健やかに生きることを得させてくださる救いであります。出血の病に苦しんできた婦人と、幼くして死に直面した少女は、人を真に生かしてくださる主イエスの命の力を、身をもって証しする存在となりました。人生の後半を歩む者であろうと、人生を歩み始めて間もない者であろうと、主は罪と死の闇にかき消されない真の光なるキリストを証しすることができる者としてくださいます。人を丸ごと生かす救いを、ご自分を救い主と信じる全ての者にもたらすために、一人一人の罪の値を代わりに背負って死に、復活し、死を眠りにすぎないものとするために、十字架に向かって歩んでくださいました。神の民として神さまが与えてくださった契約に忠実に生き、他の人々に神さまの祝福を証しするはずであった神の民、ご自分の民の手によって死へと引き渡され、十字架に架けられる道を、進んでくださったのです。

 

かつて神さまは、見捨てられたと絶望していた古代イスラエルの捕囚の民に、預言者イザヤを通して語り掛けてくださいました。神さまが自分たちと結んでくださった契約に従わず、神さまではないものに救いの力を求めた結果捕囚の身となり、半世紀。神さまはもはや自分たちを赦してくださらないと絶望の闇の中に居た民を、神さまは「私の民」と呼んでくださいます。預言者は言います。なぜあなたたちは、自分たちの行くべき道は主から隠されていると、自分たちの訴えは神さまに見過ごされ、忘れられていると言うのか、主は地の果てまで創造された方である、捕囚の民を支配しているバビロニア帝国も、他の支配者も及ばない大いなる強さと力を持つ方である。その方が力強く働きかけ続けておられると。「疲れる」「弱る」と言う言葉がここで何度も繰り返されます。困難の中で疲弊し、弱り、倒れ伏しているような捕囚の民です。年を重ねた者は勿論、若い者たちも立ち上がる力を失っています。その弱り果てたご自分の民に、神さまは力を与え、強さを与え、走っても弱ることなく、歩いても疲れることのない新たな力を与えてくださいます。

 

 

一人で担うには重すぎる、生きてゆくための私たちの現実も、死の重みも、共に担い、絶えず新たな力を私たちに注いでくださる主イエスこそ、今も聖霊において共におられる私たちの救い主です。