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渇き癒されて

詩編42:2~12、マタイ5:6「渇き癒されて」                 左近 豊 

 今から30年前のことになります。牧師になるために学んでいた神学校を卒業する年の卒業旅行で、同級生や後輩たち、そしてこれまでに何度も現地に行った経験のあった私の母を団長にして、総勢12人で聖書の舞台であるエジプトとイスラエルを旅しました。1994年から95年にかけて、比較的落ち着いた時代でした。エジプト・カイロから入ってイスラエルに抜ける2週間の旅。カイロからは空路でナイル川を遡ってルクソールやツタンカーメンの墓で有名な「王家の谷」と呼ばれる巨大な遺跡を訪ねました。その後、モーセがたどった出エジプトの道行に沿って、シナイ半島にわたりました。バスでの移動だったのですが、水分補給ができるのは数十キロに一度現れるオアシスだけなので、皆ペットボトルを渡されてバスに乗り込みました。ガイドの方に言われたことを今でも思い出します。「のどが渇いても渇かなくても、定期的に水分を採ってくださいね。気づかないうちに脱水症になっていますから。気づいたときには手遅れですよ」と。見渡す限り茶色一色の岩や土ばかりで草木の緑や命を感じさせるものなど一切見えない荒れ野を行くバスの旅。たとえ車内にいても空気が乾燥しきって、のどの渇きを感じなくても、脱水症状になってしまうことに何とも言えない不安を覚えました。人間の体は6割が水分で、そのうちの5%が失われても体に変調をきたして疲労や脱力、さらには呼吸困難などに陥って、2割が失われると死亡する危険性があるとのこと。

 

 水への「渇き」は、命の維持するのに欠かせない疼きと衝動として感じるものです。断食で食べない期間があったとしても、水分は一日と飲まずにいることはできません。今日の詩編は、この命の疼きに重ね合わせるようにして、魂が求める「渇き」を呻くように絞り出しています。「鹿が涸れ谷で水を喘ぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」と。乾ききった川床に、どんなに水を求めても見いだせない鹿の喘ぎになぞらえて「神に、生ける神に私の魂は渇く」と。魂が干上がり干からびて脱水状態に陥っている状態を研ぎすまされた感性で捕らえて言葉にしているのです。

 先ほどハンドベルクワイアの皆さんが奉鐘してくださった「As the Deer鹿のように」という曲も、この詩編42編を基にして作られたものです。「谷川の流れを慕う鹿のように、主よわが魂、あなたを慕う」という歌詞をつけて歌われるワーシップソングの楽曲です。ミッション系の大学や中学高校ではよく歌われるので、若い方たちにはなじみ深い讃美歌の一つと言えるでしょう。

 普段、のどの渇きは感じても魂に渇きを覚えることなく日々を送ってしまう私たちにとって、たとえ渇きを感じても感じなくても、魂の脱水状態に陥らぬように定期的に潤いが必要なことを、ベルで奏でられた音色と共に、大事にこれからも内に響かせながら思い起こしたいと思います。

のどの渇きと魂の渇きを重ねて詩編42編は歌いますが、実は旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「のど」も「魂」もネフェシュという同じ言葉なのです。「のど」は息の通るところであり、神の息を吹き入れられて人は生きたもの(原語で「ネフェシュ」となった、生きた魂を持つものとされた(創世記2:7)。   人は「のど」だけが渇くのではなくて、「魂」もまた渇くものなのだ、と。

魂が渇きをもって慕い喘ぐのは、礼拝でまみえる生きて働きかけられる神。神のことばに渇いているのです。神のことばの飢饉、神のことばの干ばつに見舞われている。この詩編の詩人は、礼拝から遠く隔たっていることが伺われます。かつて「祭りに集う人の群れと共に進み」、「神の家へと導いた」ことを思い起こして打ちひしがれ、打ち沈み呻きながら魂注ぎだす祈りをささげていることから想像することができます。そんな日々にあって、「あなたの神はどこにいるのか?」という嘲りの言葉が詩の中で2回出てきますが、はたから見ても、神から見捨てられているとしか見えない詩人の姿が浮き彫りになるのです。本人も「なぜ、私をお忘れになったのか、なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか」と口にせざるをえない。命の息も神のことばも枯れ果てて、あたかも故郷を失ってさ迷う寄る辺なさに、糸の切れた凧のように、碇を失った船のように、目指す方角の定まらない不安を抱えて漂い漂流する命を抱えた者の呻きと言えるでしょう。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」。そう問いながら祈る詩編22編とも響きあいます。詩編22編には「私は水のように注ぎだされ、骨はことごとくはずれた」「力は素焼きのかけらのように乾ききり、舌は顎に張り付いた。あなたは私を死の塵に捨て置かれた」、と今日の詩編42編の渇きと重なる言葉も出てきます。渇きのために舌が上あごに張り付いて、呼吸困難に陥り、息も絶え絶えにみ言葉の飢饉と神の息の枯渇にあえぎながら、死の塵に捨て置かれた嘆きを訴えていることが分かります。

 

その詩編22編は、新約聖書の最も大事な場面の一つであるイエスキリストの十字架の場面で、イエスご自身が口にされた詩編としてよく知られています。イエスご自身がこの寄る辺なき身を抱きしめて嘆く者の嘆きをご自分のものとしてくださったことを証ししています。ヨハネによる福音書の十字架の場面では「この後、イエスは、すべての事が今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」とあります。そして最後に「成し遂げられた」とおっしゃって十字架上で息を引き取られたことが記されています。イエスキリストの十字架の最後から一つ前の言葉が「私は渇く」というものだった。十字架の近くにいた人たちは喉が渇いたとおっしゃったのだと思ってスポンジに含んだ酢を差し出すけれども、主イエスの渇きは、魂の渇きでもあったのです。より踏み込んで言うならば、主イエスの渇きは「神の義」への渇きだった。

讃美歌(54年版)262番は歌います「十字架のもとぞ、いとやすけし、神の義と愛のあえるところ 嵐ふく時の巌の陰、荒れ野の中のわが隠れ家」と。十字架で主イエスが渇き喘ぎ求められたもの、そして、ついに成し遂げられたのが神の「義」と「愛」であった、と。

主イエスが渇き求められ、十字架において成し遂げられた「義」。それは旧約聖書以来の大事なテーマでした。「義」というのは非常に幅広い内容を含んだもので、神ご自身の性格を言い表すものでもありますし、また人に対して用いられるものでもありました。例えば「義人」と言った場合、ただ品行方正で律儀な人というのではなくて、憐みに富み、情け深く、慈しみに富み、自身の態度と行動によって共同体に安定と価値をもたらす人として描かれています(詩112編、箴言10章など)。不条理と理不尽と不正はびこる社会にあって、義に飢え渇くということは、現実に埋没しない、浮世に溺れない、神の義が実現することを確信して、それを渇望して生きる預言者的な歩みと言えるでしょう。

他方で、神の義と言った場合には、ただ神の正義というだけでなく、神の恵みの業、幸いをもたらす救いの御業と結びつくものでもありました。神の義がどうして救いの御業と結びつくのか。それは本来、義とされえないはずの者たちを、それでも救うために、ご自身の義を曲げるのではなく、曖昧にするのでも、ゴールポストを動かすのでもなく、むしろ徹頭徹尾、義を貫いて、私たちを裁くのではなく、むしろご自身に裁きを引き受けることで、私たちを義とするというラディカルな挙にでられた神を聖書が語っているからです。イエスキリストの十字架が義であり、愛であるというのは、独り子である御子イエスキリストが一身に私たちの受けるべき裁きを引き受けられたからにほかなりません。聖書全体を貫く神の義を主イエスは十字架上で渇き求められ、そして成し遂げられたのだと。

このイエスキリストに現された神の義を知る者たちが新約聖書を聴き、語り継ぎ、読み継いできました。ですから山上の説教と言われる今日の箇所も、まずはキリストの十字架と復活の出来事を味わった者たちによって語りだされ、聞き継がれ、読み継がれてきたものです。神の義がもはや裁きではなく、むしろこれを代わって身に負うてくださったキリストが成し遂げられた救いであることを踏まえて読まれてきました。キリストに啓示された「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」と。

 

この言葉と呼応するかのようにヨハネ福音書7章37節以下では、主イエスが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。私を信じるものは、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られています。福音書記者のヨハネはここで解説を加えます。「イエスはご自分を信じる人々が受けようとしている「霊」について言われたのである」と。生きた水、それは聖霊のことである、と。キリストが与える聖霊は、尽きることなく、枯れることなく働いて、特に教会の礼拝、そして聖餐に与る度に、救い主イエスキリストをさやかに示し続け、永遠の命に至る恵みを湧き出でさせる、と。

鹿が涸れ谷で水を喘ぎ求めるように、み言葉と聖餐に飢え渇く者たちを招いて「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。私が与える聖霊を受ける者は、決してもう渇かない」と約束され、恵みを携え、証しし、渇きを癒すものとして私たちは遣わされるのです。