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主の舟に乗って

「主の舟に乗って」マタイ82327

2024630日(左近深恵子)

 

 主イエスはガリラヤの町や村を巡って天の国が近づいたことを人々に語られました。それはかつて預言者イザヤが、ガリラヤの地で起こることを預言した、「闇の中に住む民は大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に光が昇った」との言葉の実現であったとこの福音書は述べています。闇の中を出口も見えずに這うような思いをしている人々、生きている今この時も死の力によって光が遮られている人々にとって、天の国、つまり神さまのご支配が近づいたことを告げる主イエスは、大いなる光であったのでしょう。この方からもっと話を聞きたいと思う人々が主イエスの所にやって来ました。また、主イエスから「私に付いて来なさい、人間をとる漁師にしよう」と呼び掛けられ、網も舟もそれまでの生活もすべてそこに残して主イエスの後に従ったガリラヤ湖の漁師たちもいました。

主イエスの周りに集まってきた人々の中には、話しを聞きたいということ以上に、主イエスに癒しを求めていた人も多くいたようです。主イエスが病を癒やされたことを見聞きし、自分を、あるいは自分の大切な人を病から救い出してもらいたいという切実な思いで、遠い場所であっても主イエスのところへとやって来ました。こうして主イエスの周りの人の数は膨れ上がってゆきます。そのため主イエスは大勢の人に声が届く山の上から語られました。“山上の説教”と呼ばれるこの様々な教えにおいて説かれたのは、神さまのご支配の中を生きてゆくことでありました。主イエスはこれまで、“神さまのご支配があなたがたの近くにもたらされている、だから悔い改めてその中へと立ち返りなさい”と呼び掛けて来られました。その招きに応えてご支配の中に自分の日々を置いて歩む人は、どのような幸いを求め、隣人とどのような関りを築くのか、自分の土台をどこに据えるのか、語られました。

語り終え、山から下りた主イエスの後を、また大勢の人が付いてゆきます。そこからカファルナウムという、ガリラヤ湖畔でその後の活動の拠点とされた町に向かう途中、またその町で、懇願する人々に応えて再び病を癒やされ、共同体の一人としての生活が回復される道を開いてくださいました。これらの驚くような癒しを通して、人々に心と体と魂の健やかさを願っておられる神さまのみ心を示されました。そのみ業は神さまのお力によるものであることを示されました。益々多くの人が主イエスを求めて集まってきました。すると主イエスはカファルナウムを去り、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ることを決め、弟子たちに、舟を漕ぎ出して向こう岸に渡ることを命じられました。

 主のこの言葉を聞いていた群衆の中から、2人の人が声を挙げました。一人は律法学者です。主イエスを「先生」と呼び、「あなたのおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と、自分も主イエスと共に行くと断言します。それは、主イエスの弟子になるとの宣言と言えるでしょう。けれど主イエスが返された言葉は、許可でも無ければ拒否でもありません。主イエスは、ご自分に従うということはどのようなことであるのか、語ります。キツネや空の鳥にさえ安心して枕するところがあるが、ご自分には無いことを告げます。ご自分の後に従う者も同様であることを示します。山上の説教を語り終えられた時、群集はその教えが、彼らが知る律法学者たちのようにではなく、権威ある者のようにお教えになったことに驚いたと記されています(72829)。“どの律法学者も持っていない権威をもって語り、その権威は病も癒やすことができる、このイエスという方に従えば、他の律法学者たちから得られないものを得ることができる。自分が従うべきは他の律法学者ではなくこの方だ、この方の権威によって人生がより高められる、律法が示す神のご意志によりお応えできる者となる”、そう思ってこの人は志願したのでしょう。その人に主イエスが告げられたのは、キツネや鳥すらも手に入れているものを手放さざるを得ない道です。自分が律法の学びのために積んできた研鑽や、立派な教師の権威によって自分の人生を向上させようとしているこの律法学者が見ている道と、ご自分の弟子としてご自分の後に従う道は重なるのかと、問われたのではないでしょうか。主イエスに従うとは、自分の力や世の力によって高められる道ではありません。罪の闇と死の力の中で神さまを見失い、道を見失っている人々を救い出すために、人々の罪を背負い、十字架にお架かりになってくださる主の後を行く道です。十字架の死を死んでくださり、闇と死の力を貫いて私たちに赦しと真の平安をもたらしてくださる方に従って進む道であるのです。

 もう一人声を挙げたのは、既に弟子となっていた者です。ガリラヤ湖を渡る主の舟に乗り込むよりも、父親の葬りを先ずさせてくださいと言います。親の葬りがどんなことにも優先されるのは、この時代も当然のことでありました。律法学者たちも、他の全てのことに優って、父親の葬りを優先させることを教えてきました。主イエスも父と母を敬えとの十戒の教えを重んじておられます。その主イエスがこの弟子に、「私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたことに私たちは困惑します。反発を覚える思いも湧きおこるかもしれません。しかし困惑を解消しようと、僅かな言葉しか記されていないこの箇所に、性急な解釈や結論を下すことは避けたいと思います。ただ主イエスの言葉から、この人が主イエスに従う決断を避けていることはうかがえます。弟子となることを表明したものの、その一瞬、一瞬、主に従う者であり続けることを自分で決断できずにきたのではないでしょうか。主イエスには弟子として認めてもらいたいが、同時に、今は主に従うことよりも優先させたいことがあることも認めて欲しい、そのようなこの人の決断しきれない思いをご存知であるから、この人に、何を第一としているのか見つめさせようとしたのではないでしょうか。この人が何よりも優先しなければならないのは、死の陰に覆われている自分自身を神さまのご支配の中に置くことです。死に支配されているままでは、葬りを形ばかり適切に整えても、神さまからの慰めを見出すことはできません。この人に、真の命の与え手であるご自分に従う決断から背を向けないようにと、神さまのご支配に生きることを本当に自分の人生の土台とするようにと、呼び掛けておられるのではないでしょうか。

 この福音書は、向こう岸に渡ることを命じられた主イエスの言葉の後で、こうして、主イエスに従うことにふらついている二人の人物と主イエスとのやり取りを述べます。その上で、再び湖を渡る続きを語り始めます。

主イエスが舟に乗り込み、弟子たちが従います。湖畔周辺を移動するのと異なり、湖を渡るのは大きな移動です。この先を読み進めると、舟が着くのはガダラ人という、異邦人たちの住む町です。異邦人の地へと向かうかもしれない舟に主イエスと共に乗り込むことを弟子たちは決断しました。主イエスに自分たちの今とこの先を委ねることができたのです。

 しかし彼らのこの決断は揺さぶられます。湖に激しい嵐が起こり、沖に漕ぎ出した舟は波に吞まれそうになります。弟子たちはパニックに陥ります。弟子たちの中にはガリラヤ湖畔で主イエスから召し出された漁師たちもいました。ガリラヤ湖の気象も、舟の扱いも熟知しているプロの漁師たちが同乗していても為す術の無い嵐のただ中で、彼らは何を思ったのでしょう。自分たちは神さまのご支配の中へと進み行くはずではなかったのか、人間の力では太刀打ちできない嵐によって、主イエスの後に従う道も、自分たち自身も、ここで終わりとなってしまうのではないかと、混乱したことでしょう。

 主イエスはこの時、舟の中で眠っておられました。弟子たちは主イエスに近寄って起こし、「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます」と必死に助けを求めます。死が口を開けて舟ごと呑み込もうとしているこの危機にあって、弟子たちには助けを求めることのできる方がいます。この方ならこの嵐の中でも自分たちを助けてくださるという望みが彼らにはあります。

 しかし彼らは、眠っておられる主イエスを無力な存在とみなしています。眠っておられるならば助けることができないと、眠っていて助けることができない主イエスは、一緒の舟に乗っていても居ないも同然だと、そう思っています。眠っていて何もしてくださらないから、このままでは死んでしまうと焦っています。

その弟子たちに向かって主イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われます。「信仰の薄い者たちよ」、この言葉と全く同じ言葉を、弟子たちは最近聞いたばかりのはずです。山上で、主イエスは弟子たちと人々に、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな」と語られました。“種も蒔かず刈り入れもしない空の鳥を天の父が養ってくださることを見なさい、働きもせず、紡ぎもしない。明日には炉に投げ込まれるかもしれない野の花を、神さまがどのように装ってくださり、どのように育んでくださるのかよく学びなさい”と言われ、「まして、あなたがたには神はなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。思い煩ってはならない」と言われました(62531)。主イエスを求めて遠路も厭わずやって来て、山上から語られる主の言葉に耳を傾けていた人々も、大勢の人に歓迎されていた町を後にして、湖を渡ると言われた主イエスに続いて舟に乗り込んだ弟子たちも、信仰が無いわけではありません。信仰を持っています。持っていることを主イエスもご存知です。けれどその信仰は薄いものであることもご存知です。何かが起こるとあっという間に揺らいでしまう薄さです。主イエスに頼れるところがありそうだから、是非助けてもらいたい、しかし究極のところ自分を養うことができるのは自分だと、自分を守ることができるのは自分だと、そう思っているので、自分が自分に必要なものを得られるのかどうか、思い煩うことから逃れられません。得られなくなる危機の中で、恐怖に呑み込まれます。自分が自分を養い守るような仕方で、主イエスが自分を守ることを期待します。期待に沿う動きが見て取れないから、この方はこの危機に対して無力なのだとみなします。自分を評価する基準で主イエスを見ているので、真の主イエスを見ることができなくなっています。主イエスが共にいてくださること、嵐の中でも眠ることのできる揺るぎない安らぎが主イエスにあることも、見ることができなくなっています。

 「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と弟子たちをお叱りになってから、主イエスは起き上がって、風と湖とをお叱りになります。すると嵐はすっかり去って凪となります。「起き上がる」と訳された言葉は主イエスが死から「よみがえる」「復活する」と訳された言葉と同じです。湖の底に引きずり込まれそうな小舟の底で横たわっておられた主は、風や湖さえも従わせる神のみ子です。闇と死の陰の中に陥り、そこが住まいとなってしまっている人々を救い出すために世に降られ、神でありながら罪人たちの中に人としてお生まれになり、死者の中にまで降られ、そこからよみがえられ、起き上がられた救い主です。すっかり凪ぎ、嵐の雲も去って光を取り戻した湖上で弟子たちは、驚き、「一体、この方はどういう人なのだろう」と呟きます。自分たちの基準で見て来たのはこの方の全てでは無かったのだと気づかされます。それはどんなに喜ばしい気づきであったことかと思います。主イエスに従う人は皆、それまでの自分の見方が全く不十分であったこと、自分の信仰は薄っぺらいものであることを突き付けられることから逃れられません。しかし主イエスに従う人はまた、主イエスがもたらしてくださる救いの大きさを見出す驚きも、その驚きを同じ舟に乗る人々と分かち合う喜びも、味わうことができるのです。

「人の子には枕する所もない」と言われた主イエスはお生まれになった時、ベツレヘムの町で、人として横たわる場所も得られず、家畜のための飼い葉桶に身を横たえられてその生涯を始められました。町から町へと福音を宣べ伝える日々のほとんどは、旅空の下でした。そのようなご自身の境遇や活動の困難さだけでなく、主イエスがその只中にお生まれになった世の人々のこころが、安心して安らぐ方を見失っている、枕するところの無い状態であったと言えるでしょう。神さまが命の与え手であり、人に必要なものをすべてご存知であり、与えることを願っておられる方であることを見失い、自分の力で自分を守ろうと必死になっている、たとえ家も枕する所もあっても、存在の奥底から安らいで自分を委ねるところが分からなくなってしまっている。その人々の中に主イエスは来てくださいました。不安や思い悩みの闇の中にある全ての人に、天の光をもたらしてくださいました。その闇に輝く大きな光である救い主は、嵐に激しく揺れる小舟の中であっても、人にとって到底枕することができないように思えるところであっても、眠ることのできる方です。この方と共にある安らぎを、どのような嵐も私たちから奪うことはできません。

 

現代の神の民であり、主イエスの弟子である私たちは、主イエスの後に従う者です。順風満帆な日々ではありません。これまで度々そうであったように、教会は厳しい時代の中にあります。この先この社会に、この地域に、教会はどのように立ち続けるのか、不安を掻き立てる材料はいくらでもあります。嵐の中の弟子たちの混乱した状態や、彼らが覚えたであろう不安は、遠い昔の話ではありません。そしてまた、真の平安がご自分と共にあることを主が示してくださるのも、遠い昔の話ではありません。教会は、神さまが聖霊の業によって立てられたものであるから、今も、この先も、教会を教会としてくださるのは、聖霊を注ぎ続けてくださる神のお働きです。明日への思い煩いを払い落としきれない私たちですが、教会の頭であるキリストと、私たちに注がれる聖霊が、安らぎと希望の源です。キリストと神さまのご支配に、教会に連なる一人一人が信頼し、聖霊に開かれていることを祈り求めるならば、神さまは神の国を目指してキリストと共に航海を続ける私たちに、今キリストの弟子として為すべきことを示し、力づけてくださるでしょう。