· 

恵みの岩の上に

「恵みの岩の上に」イザヤ281422、マタイ72429

2024616日(左近深恵子)

 

 幼い頃から教会に来ていると、聖書の箇所を聞いた時にかつて見た紙芝居の絵が浮かぶ、そのような話があります。今日の箇所の、主イエスが語られた話も、私にとってそのような箇所の一つです。おとぎ話の「3匹の子豚」のような話だと思った覚えもあります。この箇所では対照的な二人の人物が語られ、自ずと情景が思い浮かぶような、強い印象を私たちに与えます。この話を主イエスは山の上から人々に様々な教えを語られた中で話されました。主イエスが語られた、一つ一つは比較的短い、けれど私たちの心に響いて残る、宝物のような話をまとめて、それが語られた場所から山上の説教と呼ばれています。今日の箇所も、聞く度にその貴さに気づかされる宝のような教えです。

 主イエスは、岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人を譬えに用いられました。子どもの頃この譬えに惹かれながら、どこか釈然としないものを感じていました。岩の上に家など建てられないではないか、と思ったのです。砂は不安定だけれど、砂に杭を立ててその上に家を作ることはできるだろう。でも岩に杭を建てることはできないから、岩の上の家は、岩に載っているだけになってしまう。それでは洪水が来たらあっという間に流されてしまうように思うけれど、どうしてイエスさまは倒れないと言われたのだろうかと。けれどこの譬が記されているもう一つの箇所、ルカによる福音書の部分を聞いた時、ルカに記されていた言葉が受け止めることを助けてくれました(ルカ64749。ルカによる福音書では、地面を深く掘り下げて、岩の上に土台を据えて家を建てる人と、土台無しで地面に家を建てた人とに譬えられています。土を掘り下げると岩があるのだと、その岩に土台を据えることができるのだと知ったのです。マタイによる福音書の譬えも、土を掘り、岩盤層に到達するまで掘り下げて、土台を据えるような人のことが言われているのかもしれません。あるいは地面の中にある岩ではなく、むき出しになっている岩に土台を立てるための穴や窪みを作って、そうやって土台を据えるような、そのような人の姿を語っているのかもしれません。土を掘り下げるためには多大な労力と長い時間が必要です。土台の杭を立てるための穴や窪みを岩に作る道のりは、不可能だと諦めたくなるほど遅々として進まない、成果の見えない作業です。この苦しい作業を来る日も来る日も行い、そうして家を建てる人を「賢い」と主イエスは言われます。砂地を選ぶ人は、岩が見えている場所や、岩がその下にあるだろうと思っている場所を避けています。掘り下げる労力、疲労、痛み、途方もない作業、どれだけ費やすことになるのか見当もつかない時間を思い、その地から逃げています。そのような苦しい作業を自分の人生において担いたくない、作業し続けるよりも、安全さに不安があってもあまり動かずに済む道を選び取り、結果、雨風と洪水によって倒れてゆく人間を、主イエスは「愚か」だと言っておられます。私たちの周りで当然のように用いられる賢さ、愚かさのものさしとは異なる神さまの眼差しがあります。

 私たちは自分を、自分の人生を、守りたいと願っています。手に入るもので自分の周りを囲っておくことで守ろうとするのが、一つの守り方でしょう。時間と言う自分の人生そのものを大変なことに使って、疲れたり苦しんだり辛く思ったりすることを極力減らそうとするのも、人間が思う一つの人生の守り方でしょう。「3匹の子豚」のおとぎ話で、親の庇護の元から出た3匹の子豚がそれぞれに家を建てる時、1匹目がわらを用いたのは、家を建てるための労力をできるだけ減らそうとしたからでしょう。2匹目は木の枝で家を建てますが、それもわらほどではないにしても家を建てる材料としては簡単すぎます。3匹目は労力を惜しみません。レンガで家を建てます。建物の材料の強さで身を守ろうとします。頑丈なこの家は、オオカミが何度息を吹き付け、家を吹き飛ばそうとしてもびくともせず、中の子豚の命はこうして守られました。

確かに建材の強度は中に住む者の安全に必要です。3匹目の子豚は厭わずそのために行動しました。けれど建材だけで私たちは自分を守ることはできません。自分という存在、自分の人生を守るために、自分を囲っておくこと、囲むものに強度を加えることばかりに私たちの目は行きがちです。しかし主イエスの譬えは、そもそも私たちが何を土台としているのか問いかけます。私たちの労力を何よりも先ず、土台を据えることに注いでいるか、問いかけます。土台を据える労苦を惜しむことは愚かなことだと言われます。たとえおとぎ話のレンガのように、頑丈な建材を用いていても、岩に土台を据えていなければその家は、雨が降り、川が溢れ、風が吹いて打ち付けると倒れてしまいます。立ち上がる力も押し流され、住まいを失ってしまうのです。

 主イエスが土台とすることを求めておられるのは、今日の箇所の冒頭で「私のこれらの言葉を聞いて行う者は」と言われているように、これまで語ってこられたご自分の言葉です。今日の箇所は山上の説教の結びとなっています。山上の説教で語られたこと全体を指しておられるのでしょう。最初に「幸いだ、このような人は」と、幾つもの幸を重ねて語ることから始められ、自分を愛するように隣人を愛すること、その愛には敵のために祈ることも含まれることを語られました。祈るとはどのようなことであるのか語られ、日々祈るための言葉も教えてくださいました。それら全ての言葉です。更に、主イエスが山上の説教の前から語っておられた、「悔い改めよ。天の国が近づいた」という言葉があります。主イエスはガリラヤの地域を巡りながら、この言葉を宣べ伝え、“神さまのご支配があなた方の近くにもたらされた、だから悔い改めて、神さまの元へと立ち帰りなさい、神さまのご支配の中へと入って行くことを、神さまのご支配の中に自分自身を置き、神さまのご支配の中で歩んで行くことを求めなさい“と呼びかけてこられました。神さまのご支配とはどのようなものであるのか示すために、癒しもなさいました。その主イエスのお働きを知って、もっともっと聞きたいと人々が集まって来た、だから大勢の人に語ることのできる山に上られ、語ってこられたのです。山上の説教で語られることの根底に、神さまのご支配があなた方の近くにもたらされているという福音があります。この福音に力づけられて、主が語られるように真の幸いを求めよう、隣人を愛そう、日々祈ろう、そう背中を押されるのです。

 主イエスが語って来られた言葉を、土台とすることを求めておられます。厭わずに、労を惜しまずに、福音を告げる主イエスの言葉を受け止め、福音に根差して生きることを求めておられます。主イエスの言葉を聞きはするものの、聞いて終わってしまうのは、砂の上に家を建てるようなものだと言われます。そのような人は、聞いたことの中から喜びや慰めや励ましを与えてくれそうな主イエスの言葉を選び取り、家を飾るように自分の周りを飾り、自分の守りの補強に利用するかもしれないけれど、その言葉を自分の土台とまではしません。自分の理想や都合、世の評価や世が王道とする在り方などをかき集めて、その都度足を置くところを探りつつ、自分の土台としてきたこれまでの生き方から、福音だけを自分の土台とする生き方に自分を変えようとまでは思いません。福音だけを土台とするために、土を岩盤層に向かって掘り下げるような困難を背負いこみたくない、“雨だれ石を穿つ”と言われるように、岩と取り組む地道な作業の先にいつかは土台をしっかり据えられる時が来るのかもしれないけれど、自分はもっと目に見える成果で励まされる日々の方が嬉しい、福音に立ち続けるために労苦をしなくても、この世で自分の居場所、自分の住まいは手に入ると、聞くだけ聞いて掘ることはしないでいることへの理由をいくらでも挙げられる私たちです。それが逃げであることも様々な理由を隠れ場としていることも認めずに理由を並べる者でいるのではなく、賢さを持ち続けるようにと、主は最後に語り掛けられるのです。

自分の人生の時間をなるべく労苦に費やしたくないという誰もが抱いて当たり前の願いは、思いもかけない困難に出会う自分の人生を想定することも妨げます。けれど主イエスはこの譬えで、ご自分の言葉に従っていれば、雨風にも洪水にも見舞われなくなると言われているのではありません。砂地に家を建てた人だけでなく、岩に土台を据えた人も、大水と風に襲われています。それまで乾いていた川に雨期になると水が溢れ、時に洪水となって町や村を襲う恐ろしさを、聖書の舞台となっている地域の人々は味わってきました。聖書には人の命を奪い、家も、大切な人も家畜も家財も押し流し、それまでの日常を奪う大水のイメージが、度々登場します。自分を守ろうと前もって対策をして守れるものもあるけれど、苦しみ、悲しませることの全てから逃れることはできません。人がいつも正しい道を選び取り、正しい対策をしているわけでもありません。何より私たちにとっての危機は、神さまの眼差しの前に置かれることであります。人の目からも自分の意識からも覆い隠してきたものも含め全てが神さまのみ前で明らかにされる時、誰よりも私たちをご存知であり、誰よりも正しく裁かれるこの方の裁きによって打ちのめされない正しさを主張できる者などいません。この主なる神、神のみ子が、ご自分の命の値をもって私たちの罪を償ってくださる方であり、暴風雨のような思いもかけない危機の中で、揺さぶられても踏ん張り続けられる者となるように、私の言葉を聞いて行いなさいと呼び掛けてくださる方であります。この救い主の言葉を第一とする行動を重ねてゆくことが、福音を土台とするということです。

今日の結びにおいて、主イエスは人々がそれまで教えを受けて来た指導者たちのようにではなく、権威ある者のようにお教えになったことに人々が驚いたと、述べられています。指導者たちは旧約聖書に記されていることを人々に説き明かしていました。主イエスも山上の説教を、旧約聖書の響きの中で語って来られました。しかし主イエスは、旧約聖書で証しされている神さまのご意志を、比類なき権威をもってより明らかに、示してくださったのでした。

 今日の箇所の主イエスの言葉に人々は、自分の人生を想うだけでなく、エルサレムの神殿のことも想ったのではないでしょうか。自分たち神の民にとって聖なる都であり、人々の信仰の中心地であるエルサレムにある神殿です。特別なお祝の時期には主イエスがそうであったように多くの人が上ってゆき、神殿で礼拝をささげました。当時の人々が見ていた神殿は、ヘロデ大王によって大規模に拡張されたものでした。巨大な石のブロックを積み上げ壮麗な建築物となっていたこの神殿は、暴風雨にも洪水にも倒されることのない堅牢な建物のはずでした。神さまの家であるはずのこの神殿の再建工事を、ヘロデ大王は自分の名声を高めるために用いました。また、そこで祭儀を司ったり、律法を教える指導者たちが、神さまのご意志を比類なき権威をもって人々に説き明かされる主イエスの働きに、次第に敵意を募らせてゆくことが、聖書から分かります。主イエスは後に、神殿の建物に見とれて指さす弟子たちに、「よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる」と言われます(マタイ2412)。神の民がご自分の言葉に応えられなかったので、神殿そのものが倒れるのだと告げられたのです。石で立派に積み上げた神殿であっても倒れるように、神さまの言葉を土台としなくなっている神の民は、立ち続けることができないことを告げられるのです。

 山の上から語られる主イエスの言葉を聴きながらまた人々は、先ほど共にお聞きしたような旧約聖書の言葉を思い起こしていたかもしれません。預言者イザヤの言葉を聴きました。主なる神に信頼せず、アッシリアの勢力と対抗するためにエジプトの軍事力に頼り、エジプトと同盟を結んだエルサレムの祭司や預言者たちに語っています。神さまの言葉に耳を傾けず、エジプトと手を組む彼らの行いをイザヤは、「死」「よみ」「偽り」「欺き」と呼びます。「洪水」と呼ぶアッシリアが襲っても、自分たちのもとには達しないと、彼らは言い張ります。危機を危機と認めることを退けます。それは主こそ神であることを退けることであります。「それゆえ」と主は言われます。指導者たちの愚かさを明らかにし、「それゆえ」と告げられるので、裁きを告げられるのかと身構える聞き手に、「見よ、私はシオンに一つの石を据える」と主は言われます。石が何を指すのか述べられていません。神さまご自身とも、神さまが与えてくださるもの、神さまの言葉、約束、信仰とも言うことができるのではないでしょか。この石を土台とし、信頼する者は慌てることはない。信頼する者に公正や正義が共にある。しかしこの石を土台とせず、偽りに逃れ、隠れる者には災いが降ると、その逃れ場も隠れ場も、おそらくアッシリアを指していると思われる雹や水が何度でも押し流す。神さま以外のものは、人の身を伸ばすには短く、身を包むには小さい。しかし神さまは比類ない働きを人々のために為してこられた。ペラツィムの山で、ギブオンの谷で、イスラエルに勝利をもたらしてくださった。その神さまを嘲り、他のものたちの中に土台を探すことをやめなければ、裁きを下されるとイザヤは告げます。

 

 私たちの日々も、神の民である教会の歩みも、ただお一人の主の言葉に聞いて行うことを土台としなければ、立ち続けることができません。福音に生きるということは、神さまではないものに自分が立ってしまっているところを砕き、低く降られた主にお会いするまで堀り進み、福音によって自分の頑なさを砕かれながら、主を土台とすることであります。そうして砕かれた本当の自分において、深みで主にお会いし続ける者を、主はどのような時も支え続けてくださいます。