「主にまかせよ」詩編37:1~6、マタイ6:25~34
2024年6月9日(左近深恵子)
私たちは人間関係や経済的な問題、想定外に降りかかる出来事に、胸潰れる様な思いをすることがあります。自分や家族が心身に抱える困難が、日常を大きく変えることもあります。心の内にずっと生き辛さを抱えながら長いトンネルの中を這うような日々もあるかもしれません。不安を抱かずにいられる人はいません。主イエスはその私たちの心をよくご存知です。その上で「思い煩うな」と山上の説教で言われました。「思い煩わない方が良い」でもなければ、「思い煩わない様にしましょう」でもなく、「思い煩うな」と命じられたのです。
この箇所のことを真剣に受け止めようとすると、思い煩ってはならないと主イエスは言っておられるのに自分は思い煩うことを止められないと、悲しくなるかもしれません。けれど不安を抱くこと、内側に生き辛さを抱えること、思い煩いから自由になれないことをただただ禁じて、この箇所は終わっているのではありません。今日の箇所で、命令形で主が語っておられる言葉が四つあります。思い煩わないことと、空の鳥を見ること、野の花がどのように育つのかよく学ぶこと、そして神の国と神の義を求めることです。空の鳥や野の草花と言うのどかなイメージが登場するからと、のどかに通り過ぎがちな箇所ですが、鳥や野の草花を通して、主イエスが見るべきだと、学ぶべきだと言われていることがあり、最後に神の国と神の義を求めることが命じられているのです。
最初に命じられるのは、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな」ということです。ここで言われる「命」とは、そのために何を食べるのか、何を飲むのか私たちが思い煩いがちなものとされているので、生物学的な生命を指すのでしょう。世界中でもこの日本の社会でも、1日の大半を、自分や大切な人の生命を維持するために、まだ死に渡さないために、心と体をすり減らしている人々が大勢います。そのような危機的な状況にはない人々の中にも、食べること着ることへの思い煩いがあります。肉体をできるだけ健やかに保ち、自分が高いパフォーマンスを発揮できる状態の時間を少しでも引き延ばすために、何を食べようか、何を着ようかと日々心を煩わしている状況は珍しくありません。自分の意識も行動も、自分で自分を養い、維持し、あるいは改善することに占められている心は、安心に至ることはありません。
主イエスは思い煩ってはならない理由の第一に、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と述べられます。主イエスは決して生命や肉体を案じる思いを否定しておられない、寧ろそれらを大切であると言っておられます。ご自身も肉体と生命を持つ人間として世に降られた主イエスが、命も体も大切だと言ってくださることは、私たちにとって大きな慰めです。
その大切なものは、自分が獲得する食べ物、衣服によって支えられているとしか思っておらず、明日やその先に不足することを案じて思い煩ってしまう信仰の薄い者たちに、もう一つの理由を主イエスは語られます。人がどんなに生命や肉体のために思い煩い、奔走しても、誰も自分の寿命を僅かでも伸ばすことはできないと。健康や寿命の長さが、ある程度置かれた環境やその人が得られる富によって変わり得る現実を見聞きする私たちには、すんなり納得することは難しい言葉かもしれません。ここで用いられている「寿命」と訳された言葉は、「年齢」とも「身長」とも訳せる言葉です。「伸ばす」と訳されている言葉は「加える」という意味の言葉です。数日や数ヶ月の延命のことではなく、年齢の数が変わるくらいのことであり、あるいは自分の身長に長さを加えるくらいのことであり、つまり人間には不可能なことを指します。どんなに富を蓄えた人でも、あるいはどんなに栄養に気遣っても、人の力では及ばないことであります。
ルカによる福音書の、今日のマタイによる福音書と並行する箇所では、主イエスは直前で一つの譬えを語っておられます。ある裕福な人の畑がその年豊作でありました。するとその人は今ある倉には入り切れない収穫量だから、今の倉を壊してもっと大きな倉を建て、自分の穀物や蓄えを全部そこに仕舞い込もう、そうすればこの先の人生、飲み食いを心配することはないと喜びます。しかし神さまはその人に言われます、「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか」と。主イエスはこの譬えの締めくくりにこう言われます、「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこの通りだ」(ルカ12:16〜21)。この者は、自分の寿命が今夜終わることも知らずに、今日と同じように、明日も、来年も、その先の年も自分の生命が続くものと思って、神さま無き自分の世界で、自分のために富を積み上げようとしています。けれど神さまが定めた生涯の長さを、自分の富やそれを蓄える才覚によって大幅に伸ばすことはできないのです。
この時主イエスや人々の頭上には、鳥の姿があったのではないでしょうか。主イエスは、生命と肉体を自分で養おうとあくせくし、思い煩ってばかりの人々に人が生きていくための基本的な営みである種を蒔くこと、収穫すること、保管することをしていない空の鳥を神さまが養っておられることをよく見なさいと命じられます。勿論、だから人も労働しなくて良いと言われているのではありません。あるいは、人が労働しているから、神さまが人を養ってくださると言われているのでもありません。鳥の生態を思い起こし、鳥の活動も実のなる樹木の種を拡散させることに貢献していると、何もしていないわけでは無いとすっきりしない思いを抱く方もあるかもしれませんが、勿論主イエスが語っておられることの核にあるのはそのようなことではありません。主イエスは神さまを「あなたがたの天の父」と呼ばれます。神さまが独り子を私たちに与えてくださるほどに私たちを愛してくださったから、真の神のみ子である主イエスによって、ご自分と子なる神の親子の交わりの中へと、主イエスをキリストと信じる人々を導き入れてくださるから、私たちは神さまを「私たちの天の父」とお呼びすることができるようになりました。私たちが「鳥よりも優れた者」と呼ばれているのは、私たちがキリストによって神の子らとされていることにおいてでありましょう。人が生命と肉体を維持するために日々為しているような労働はしていないけれど、大地が生み出す実りを通して神さまに養われている鳥たちは、神さまが養ってくださることを証しする存在としてここで述べられているのでしょう。この鳥という証人たちを見なさいと、見ることを通して、誰があなた方の養い主であるのか知りなさいと、主イエスは命じておられます。
食べていくことだけでなく、主イエスの時代の人々は、熱い日差しや砂埃や夜の寒さから、時に獣の襲撃から身を守るために働き、糸を紡いで、身に纏いました。現代の私たちも、肉体やプライドを守り、自分の弱さを覆い隠し、より良く見せようとあくせくしています。主エスは人々に、野の草花がどのように育つのかよく学びなさいと命じられます。人々の周りにはその時も、花が咲いていたのではないでしょうか。働きも紡ぎもしないこれらの草花を、神さまは装ってくださっていることに目を向けさせます。「よく学ぶ」と訳された言葉は「完全に」という言葉と「学ぶ、調べる、考慮する」という意味の言葉が合わさってできた言葉です。じっくり時間をかけて学び、調べ、考えなさいと言われているのは、野に咲いている様々な花です。品種改良を重ね、温度や湿度、土壌の成分、水やりの回数、虫や病気の対策が手厚く講じられて育てられた花の最盛期の美しさを見つめるのではなく、野に育っていく過程をじっくりと観察するのです。人に鑑賞の対象とされることも無いまま、貧しい民がパンを焼く燃料として草刈りカマであっという間に刈り取ってしまうかもしれない、次の世代の種を残す未来も奪われて明日にも炉に投げ込まれて朽ちるかもしれないそれらの草をも、神さまはイスラエルの歴史の中で最も栄華を極めた王も及ばない繊細で可憐な美しさで装ってくださるのだから、神の子らであるあなた方には尚更、慈しみを注いでくださらないはずが無いでは無いかと言われます。
明日には炉に投げ入れられる草花の育つさまに、主イエスは父なる神の慈しみを見るように命じられました。詩編37編の詩人は、このような草花のはかなさを、悪をなす者、不正を働く者の刹那的な成功を言い表すために用いています。世の動きをすかさず捉え、自分の利益になる道を見出し、自分の才覚を何よりも頼りに世を渡ってゆく者の成功は、神さまを畏れ、神さまに従う者を苛立たせ、羨やむ思いを抱かせることがあります。しかしそのような成功は草のように瞬く間に枯れ、緑の若草のように萎れると、悪を為す者、不正を働く者が頼るものをあなたがたは頼ってはならない、主に信頼し、主を喜びとし、あなたの道を主に任せよ、そう呼び掛けています。
主イエスも最後に命じられるのは、「神の国と神の義を求め」ることです。苦しませるもの、不安を掻き立てるもの、この先の計画を狂わせるものによって、恐れや焦りや息苦しさが沸き起こり、時に渦巻いてしまう私たちの心の内を全て知っておられる主イエスは、ただ思い煩うことを禁じられるのではなく、空の鳥や野の草花を見つめることによって私たちを天の父なる神さまへと向きを正させてくださいました。そして最後に、その神さまの国と神さまの義を求めなさいと命じます。今日の箇所の直前で主イエスは、誰も二人の主人に仕えることはできないと、あなたがたは神と富とに仕えることはできないと教えておられます。富とは、今日、生命と肉体を維持する以上の豊かさです。明日も、明後日も、自分の生命を支えて余りあるものです。その富と、神さまの、両方に同時に仕えることはできないのだと、できるように人は思いたがるができないのだと、ただ神さまに信頼し、仕えることを教えておられます。そして続く今日の箇所で、神の国を求めよと、つまり神さまのご支配を求めよと言われます。命や体を維持して余りある富が詰まった倉に自分を支配させ、倉の富の中に自分の身を、自分の人生を任せるのではなく、主イエスにおいてもたらされている神さまのご支配の中へと入って行き、その中に身を置き続けなさいと命じます。神の義を求めなさいとは、神さまのご支配を証しする生き方をあなたたちの日々の中で実現してゆくことを求めなさいということです。思い煩わないことよりも、空の鳥や野の草花をじっくり見つめることよりも、何よりも、神の国と神の義を優先させなさいと命じられます。自分の奥底に不安や恐れや苦しみや迷いがあろうとも、その中心には神さまのご支配の中に身を置くことを求めるひたむきな心を持ち、神さまのご支配にふさわしい行動を実践していく熱心さを持ちなさいと、真に具体的で、積極的な生き方を、命じておられるのです。
何よりもこのことを優先する日々はいつも、父なる神への信頼から始まります。今日の箇所の少し前で主イエスが教えてくださった「主の祈り」の言葉が、このような毎日へと私たちを備えさせます。「天におられる私たちの父よ」と神さまに呼び掛け、神さまのご支配が私たちの今日の中に来ますようにと、み心が天におけるように地の上にも行われますようにと、そして私たちに日毎の糧を今日お与えくださいと祈る日々を、主が教えてくださいました。私たちが求める前から、私たちに生命と肉体を維持するものが必要であることをご存知である方が、私たちの天の父です。親は、幾つになっても子どもの心配をします。自分の生涯が終わるその瞬間まで、子どもへの心配は消えないものかもしれません。案じつつ、神さまに委ねるのではないでしょうか。人間の親がそうなのです。私たちのことを案じ、私たちに必要な日毎の糧を与えることを、父なる神はどれほど願ってくださっていることでしょうか。その天の父のみ前に、神さまのご支配にふさわしい言葉と行いを一つ一つ為していく、つまり神の義を求めて生きてゆくことへと主イエスは招いておられます。私たちにはどうすることもできない明日という未来の時間の中にあることまで思い煩うのではなく、父なる神の慈しみにお応えする行動を重ねていく者を、どのようにしてかは分かりませんが、神さまが救いのみ業に参与させてくださり、終わりの時に救いを完成させてくださることに信頼し、今を神さまに捧げることに心を砕くのです。詩編の詩人の言葉によれば、「善を行い、地に住み、真実を育み、主を喜びとする」のです。神さまが真の王であり、義であることを証しし、神さまを賛美することに今日の力を注ぐ生き方、それは主イエスのご生涯でもありました。福音を宣べ伝える働きを始められるまで、他の人々と同様に日々の糧を得るために働かれ、神の国の到来を宣べ伝えるようになると、そのお働きに対する人々の無理解や攻撃に晒され、主イエスの生命と肉体を消し去ることまで画策する根深く執拗な敵意に囲まれながらも、ご自分に従う者、罪人たちと食卓を囲むことを喜ばれた主イエス。おそらく町や村を巡るその道中、空の鳥を見上げ、野の草花を愛でられた主イエス。何よりも神さまの国と神さまの義を宣べ伝えることを重んじて進み続けられた主イエスの後に、私たちの道があります。主イエスが命じられた、主に信頼して歩む道があります。