「だから、こう祈りなさい」ホセア11:8~9、マタイ6:5~15
2024年6月2日(左近深恵子)
先週の礼拝後に、「讃美と祈りの会」が行われました。昨年の修養会で教会員の方々の中から出た意見を基に新しく始められた会です。歌いたい讃美歌を共に歌い、祈りに覚えて欲しいことを共有し、祈りを合わせておられました。教会で奉仕を担われる方のために、またご家族のために、捧げられる祈りに私も力をいただき、その後の自分の祈りの中でも覚えて祈るようになりました。次回の讃美と祈りの会にも、一人でも多くの方が参加してくださることを願っています。
祈りと言うと私たちが先ず思い浮かべるのは、礼拝の中でいつも祈る「主の祈り」ではないでしょうか。私たちにとって身近なこの主の祈りが記されている箇所を、今日はマタイによる福音書から聞きました。主の祈りが登場する箇所は、聖書にもう一か所あります。ルカによる福音書の11章です。二つの福音書の間には、主イエスがこの祈りを教えてくださった状況に、少し違いがあります。ルカの方では、それまで日々祈りと共にある主イエスのお姿を間近に見ていたからでしょう、その日も祈っておられた主イエスに弟子の一人が「私たちにも祈りを教えてください」と頼み、その願いに応えて主イエスが教えてくださっています。マタイによる福音書では、主イエスが祈るとはどのようなことなのか、弟子たちと群集に教えてくださり、そして、「だから、こう祈りなさい」とこの祈りを与えてくださいました。どちらも、祈りの言葉だけでなく、祈るとはどのようなことなのかを身をもって、あるいは言葉を重ねて示してくださり、祈りの心とも言えるものを先ず教えてくださった上で、「こう祈りなさい」教えてくださった祈りであります。主イエスご自身が祈られ、私たちにも与えてくださったこの祈りを教会は「主の祈り」と呼んできました。本日は、マタイによる福音書からこの祈りを与えてくださった主イエスの言葉に、とりわけ祈るとはどのようなことなのか教えてくださった言葉に、耳を傾けてまいります。
それは、主イエスがガリラヤの地域で福音を宣べ伝え始められてから、少し経った頃のこととして伝えられています。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、荒れ野で試みを受けられた主イエスは、ガリラヤの地域を回って諸会堂で教え、「悔い改めよ、天の国が近づいた」と語られました。天の国とは、神さまのご支配を表します。私たちの内に神さまのご支配が来られるとは、近づくとはどのようなことであるのか、癒しを通しても人々に教えられました。主イエスの評判は瞬く間に広まり、ガリラヤのみならずあらゆる所から大勢の人が集まってきました。その群衆に語られたのが、山上の説教と呼ばれる教えです。
山上の説教は、「このような人々は幸いである」と言うフレーズを重ねながら、私たちの本当の幸いは何であるのか、何が神さまからの祝福であるのか、語ることから始まっています。その後に続く教えも、神さまが人に歩むことを望んでおられる道、人にとって真の幸いである生き方が示されてゆき、最後に語られるのは、隣人を愛することであります。自分を愛するように隣人を愛することは、敵をも愛することに至るという、私たちの思いの中からは出てきようのない、驚くべきことが求められます。敵を愛するとは、迫害する者たちのために祈ることでもあると、迫害する者とは、神さまに従おうとする私たちの生き方を否定する者、信仰者の生き方を迷惑だと退け、嘲る者たちのためにも祈る在り方が、神さまが私たちに求めておられる愛なのだと、それが神さまから祝福された、神さまが幸いだと、正しいとされる生き方なのだと語られます。愛することを私たちは、祈りつつ為していくことだと示された後、今日の箇所の、祈りについての教えが語り始められます。
主イエスが語られる言葉は人々にとって驚くようなことでありました。だから人々は遠くからも主イエスの話を聞くために集まってきました。けれど主が語られることは、人々が全く聞いたことも無いようなことばかりではありません。主イエスは、神さまがモーセを通して古代イスラエルの民に示された律法を土台にして、語っておられます。山上の説教でも主イエスは幾度も「あなたがたも聞いている通り」と、律法で定められていることを思い起こさせます。耳を傾けている人々は、神さまから与えられた生き方の指針である律法を、世代を超えて生活の中で大切にしてきた人々です。けれどいつの間にか律法の一つ一つの規定の根底にある、その規定を与えられた神さまのご意志を見失っていたこの人々に、神さまが本当に願っておられることはこのようなことなのだと示されます。モーセや預言者たちを通して告げられてきた神さまの慈しみ、出エジプトやその他のみ業に貫かれてきた神さまの愛は、神のみ子であるイエス・キリストによって、人々の中にもたらされるのです。
神さまの人々に対する溢れるばかりの愛を、先ほどホセア書の11章から聞きました。11章は「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私はエジプトから私の子を呼び出した」という神さまの言葉で始まります。親の子に対する愛によって神さまはモーセを立て、奴隷とされていたイスラエルをエジプトから導き出され、シナイの山で律法を与え、ご自分の民としてくださいました。歴史の出発点に、親として子に注ぐ神さまの愛があるのに、この民は自分たちに何も与えることのできない異教の神を崇めることを繰り返し、神さまから与えられた約束の地も、その実りも、異郷の神に捧げてしまいます。神さまが真の王であるのに、大国の力に自分たちの将来を託す過ちも繰り返します。神さまから離れ出てしまいました。預言者たちを通して神さまから、神さまのもとに立ち返るようにと呼び掛けられても、民は主の愛を無視してきました。ホセアが預言者として民に遣わされた時代も、民は神さまでは無いものを神とし、神さまのもとから離れ出ていました。けれど神さまは、寛大な父親のように、我が子イスラエルに正しく歩くことを教え、疲れたなら抱き上げ、傷つき、病む時には癒し、乳飲み子に頬擦りするように愛で包み、その上に身をかがめるように必要な糧を与えてこられました。乳飲み子に頬ずりするように人々を包んでくださる神さまの愛に気づかず、癒されたことにも知らず、養われていることも受け止めることのないまま、神さまのもとに帰る道を見出せず、悔い改める力も無く、真の神様がどなたであるのか忘れて絶えずバアルなど偶像へと帰ろうとするイスラエルであるにも関わらず、神さまは民を忘れません。神さまの愛は民の罪によって消し去られません。「どうしてあなたを引き渡すことできようか」「どうしてあなたを明け渡すことが出来ようか」と民の罪に深く嘆かれます。「私は神であって、人ではない。あなたの只中にあって聖なる者」と告げ、罪の中から導き出されます。この愛によって、神さまは独り子までも私たちの只中に与えてくださったのです。
私たちを罪の中から導き出すために世に降られ、神でありながら私たちの只中に人としてお生まれになった主イエスは、山の上から人々に、神さまの慈しみを語り、神さまのみ前に歩む道を示してきました。そして6章からは、律法を重んじる民が当時大切にしていた三つの奉仕について語ります。施しと、祈りと、断食です。民の間でこの三つは概ね等しく重んじられてきましたが、主イエスは特に祈りに重心を置いて語られます。祈ることと主の祈りは、山上の説教の中で語られているだけでなく、山上の説教の中心となっています。施しも断食もその他の奉仕も、祈りが伴わなければ、外側の形だけ素晴らしい、空虚な業となってしまいます。主イエスは、神さまのみ心に従おうとする私たちの内側に、祈りのこころを与えてくださるのです。
三つの奉仕について語られるそれぞれにおいて、主イエスは偽善者の様であってはならないと言われます。奉仕を行う者に偽善への誘惑が付きまとうことを、主イエスはご存知です。私たち自身は、偽善に引きずられることを軽く捉えがちです。他者の目に見える行為は見えても、その人の内なる思いを見ることは難しいのです。自分の奉仕についても、奉仕を生み出す内側の決して澄み切ってはいない現状までは見られたくないと、行為だけを見て良く評価して欲しいと思ってしまう者です。けれど主は、私たちの全てをご存知です。外側の目に見える奉仕だけでなく、内なる思いも、行動と内側の思いの一致していないところも、全てを見ておられます。
主は、偽善者は人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好むと言われます。会堂で祈ることは分かるけれど、大通りの角で祈るとはどういう状況なのかと疑問を覚えるのではないでしょうか。この前提に、ユダヤの人々が一日、朝、昼、夕べと、定められた時間に祈っていたことがあります。その時間に居る場所で祈ることになりますので、外出していれば、外で祈ります。中には町の大通りの交差点のような、他の人から祈っていることがよく分かる場所で祈る人もいたのでしょう。会堂で立って祈ることや、大通りで祈ること自体が問題だと言われているのではありません。自分が今祈っているということ、あるいは自分の祈る姿、祈っている内容が他者の目によく映るような仕方で祈ることを、主イエスは偽善者のようだと言われます。偽善者と訳されている言葉の本来の意味は、役者や俳優であり、否定のニュアンスは何もありません。この言葉が他の場で譬えのように用いられてゆく中で、言っていることとやっていることが一致していない者を指す、否定的な意味を持つようになりました。祈っている人の所作や祈りの言葉といった表の部分と、その人の内側のその人自身が一致していない、そのような人がここで偽善者と言われています。そのような者はその報いを既に受けているとも言われます。偽善者は、信仰深く見えるその言動に対し、既に世から賞賛の言葉や眼差しを受けていることを指していると思われます。外と中が一致しない人と異なり、外も中も神さまのみ前に正しい歩みを求めている人は、世からその言動を賞賛されることはあまり無いかもしれません。寧ろ世の評価より神さまのご意志を重んじるその生涯は苦難を伴うかもしれません。けれど神さまはその人の全てをご存知であり、そのように歩む人々に報いを与えてくださる方であります。
「奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」と主が言われているのは、そのような扉の閉まる部屋でしか祈ってはならない、ということではないでしょう。自分の心の中の奥まった部屋に自分自身の思いを全て集めて扉を閉めるようにして、ただ神さまのみ前に自分を鎮め、捧げる祈りを言われているのではないでしょうか。そのようにして祈る祈りを、人が聞いているかいないかは大事ではありません。その祈りが、人が見ることのできる人々に対してではなく、隠れた所におられる神さまに向けることを求めておられます。祈りとは、神さまに思いを注ぎ出し、神さまのご意志に耳を傾ける、神さまとその人の間のやり取りです。その目的以外に祈りが為されるはずは無いのに、祈る自分を敬虔な者と人に思われたい、よく信仰を理解できている者と思われたい、しっかり祈っているという満足感に浸りたい、そういった目的に祈りを利用したくなる誘惑に私たちは絶えず脅かされています。人に向けてではなく、自分に向けてでもなく、人の前でではなく、自分の前にでもなく、ひたすら神さまに向けて、神さまのみ前で捧げる祈りを父は見ておられると、そして報いてくださると主イエスは言われます。神さまを父と呼ぶことのできる唯一のお方である御子が、父なる神さまの眼差しと慈しみの中に祈る者は包まれていることを、教えてくださるのです。
み子は更に踏み込んで、神さまを「あなたがたの父」と呼ばれます。父なる神とご自分の親子の交わりに、ご自分を通して私たちを加えてくださいます。こうして「天におられる私たちの父よ」と呼びかける主の祈りへと、備えさせてくださいます。祈りのこころをここまで教えてこられた主イエスが、その結びにおいて語られるのは、み子によって私たちは神さまの子らとされており、父なる神は私たちに何が必要であるのかご存知であるということです。幼子を頬ずりするように私たちを愛し、疲れたら抱き上げ、病を癒し、必要な糧で養い、神さまの元から離れ出てしまう私たちを見捨てず、名を呼び続けてくださる父なる神は、私たちが神さまに注ぎ出す言葉に耳を傾けておられるということです。そのことに信頼せず、自分の言葉数の多さによって、自分の望む方向へと神さまをコントロールしようとすることのちぐはぐさに、気づかせてくださいます。言葉豊かな祈りが否定されているのではなく、祈りの長さだけを問題にされているのでもありません。キリストによってもたらされている親子の結びつき、神さまの慈しみと赦し、神さまに養われ、癒され、歩みを支えられてきたことを忘れ去って、私たちに何が必要なのか分かっていない神さまから必要なものを獲得しようと、自動販売機にコインを次々入れるように、言葉を重ねていく、そのような神さまとの関わり方から、私たちに必要なものを、寧ろそれ以上の賜物を与えようと、願っておられる神さまのもとへと、立ち返らせてくださるのです。神さまのご支配は、主イエスによって私たちの近くにもたらされています。神さまは近くにおられます。だから、くどくどと祈る必要は無いのだと、自分の内側を隠して別人の振りをして、高尚な願いだけを述べようと無理する必要は無いのだと、こう祈りなさいと、主イエスは簡潔で率直な日常の言葉で、父なる神を崇め、私たちに必要なことを、その必要を満たす備えがあり、既に近くにおられる父なる神に信頼して求める主の祈りを教えてくださったのです。このように私たちが神さまに、み心が地にもなされるようにと、私の今日の生活の中に神さまのご支配が実現しますようにと求めることを、神さまも願っておられることを、教えてくださったのです。日々の生活の中で繰り返し祈ることのできるこの祈りを与えてくださった主イエスに、また私たちが祈ることを今日も願っておられる父なる神にお応えして、主の祈りを私たちの祈りとしてまいりましょう。