2024.5.26.主日礼拝
エレミヤ5:20-25、Ⅱコリント10:7-11
「うわべを見るのではなく」浅原一泰
あなたがたはこれをヤコブの家に告げ、ユダに聞かせて言いなさい。これを聞け、愚かで思慮のない民よ。彼らには目があるのに、見ず、耳があるのに、聞くことがない。あなたがたは私を畏れもせず、私の前におののきもしないのか―主の仰せ。私は砂を境として海に置いた。越えられない永遠の定めとして。海の波が荒れ狂っても、勝つことはなくとどろいても、それを越えることはない。しかし、この民はかたくなで反逆な心を持ち、脇に反れて、行ってしまった。彼らは心の中で言うこともない。「我々の神、主を畏れよう。時に応じて雨を、秋の雨と春の雨を与える方、刈り入れのために定められた数週間を我らのために守られる方を」と。あなたがたの過ちがこれらの恵みを追い払い、あなたがたの罪が良いものを退けたのだ。
目の前の事柄を見なさい。自分はキリストのものだと確信している人がいるなら、その人は、自分と同じく私たちもキリストのものであることを、もう一度よく考えて見なさい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主が私たちに授けてくださった権威について、私がいささか誇り過ぎたとしても、恥にはならないでしょう。私は手紙であなたがたを脅していると思われたくはありません。「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者がいるからです。そのような者は心得ておくがよい。私たちは、離れていて書き送る手紙の言葉どおりに、一緒にいるときも同じように振る舞うのです。
神から「その木からだけは決して食べてはいけない、食べると死んでしまう」と言われていた最初の人間アダムとエバを蛇はこう囁いて誘惑した。「食べても死なない。むしろ食べれば目が開け、あなたがたは神のようになれる。」実は食べる前からアダムもエバも目は開いていた。最初に誘惑されたエバが木の実を見るといかにも美味しそうで、「食べろ、食べろ」と背中を押されているように感じたと聖書に書かれている。結局二人とも食べてしまい、その結果二人は裸であることに気づいていちじくの葉で腰を覆ったと聖書は伝えている。
二人は「見えるようになった」のではない。むしろそれによって本当に大切なものが見えなくなり、それ以来、二人の子孫であるすべての人間は神と出会うことも、神の声を聞くことも出来なくなってしまった。そうして、本当に見るべきものを見ることが出来なくなっている。
話は変わるが、かのアウシュビッツ収容所に「カポー」と呼ばれる、ナチスに金で雇われて自分と同じ囚人を見張る働きをしていたユダヤ人の一団がいた。囚人の中で、誰が指示通りに働き、誰が怠けているか。ヒトラーやナチスの批判をしている囚人は誰か。そういう者を探し出してナチスに密告するスパイの働きをカポーはしていた。カポーはそれで良い食事も与えられたが、普通の囚人の食事の配給量は実に貧祖だったと言う。囚人たちはやせ衰え、顔色も悪くなっていくのは当然であったが、カポーは見た目には血色も良く、やせ衰えるどころかかえってふくよかになっていったと言う。
その中に、次のような囚人たちがいた。食事の配給量が少なくても、病気の為、食べて精をつけなければ死んでしまうような仲間に自分の食事を分けた人たちである。当然その人たちは、益々痩せていった。そして遅かれ早かれ、その人たちも収容所の中でやがて命を落としていった。収容所で、やせ衰えて命を落とすことと、ふくよかになって生き延びられることと、どちらが良いか。多くの人は生き延びられる方を選びたいであろう。ただ、もしかしたらそれは、目の前の、本当に大切な見るべきものを見ない人間、うわべだけを見ている人間がする判断なのではないだろうか。それはカポーのように、自分がふくよかになれるのなら同じユダヤ人を敵の手に引き渡しても、つまり人間らしさを失っても構わない、と思う人間のすることである。逆に、本当に見るべきものを見ているのはどちらであろうか。心が豊かなのはどちらであろうか。それで死んでしまうことになっても、隣人愛を全うした人たちだろう。目の前のことを見ずに、うわべしか見ない人間にはそれが分からない。そのような人に、神が僕の身分にまで成り下がって罪人全ての為に己自身を引き渡したキリストの十字架の意味など分かる筈もないだろう。
マルコ福音書の3章に、手の萎えた人をイエスが癒す場面の話が出てくる。場所はユダヤ教の会堂であった。そこには多くの信徒たちが集まっていた。しかし彼らは手の萎えた人に対して何もせず、そこに入ってきたイエスがどうするか見張っていた。その日が安息日であったからである。彼らが何もしないのは、安息日には何もしてはならないという掟があったからである。自分が救われるためなら、たとえ目の前で命の危機にある怪我人がいたとしても彼らは何もしない。善いサマリア人の譬えの中に出てくる、追いはぎに襲われた旅人がいるのに顔を背けて道の反対側を通って行った祭司とレビ人も同じである。死人に手を触れたら自らが汚れるという律法の掟があった故に祭司とレビ人は通り過ぎたわけだ。しかしそれは、目の前の、本当に大切な見るべきものが見えなくなっている人間の仕業に他ならないだろう。
人間として最低だ。そう言って祭司やレビ人を非難することは簡単である。過ちを犯している他人を批判し、その責任を追及することは簡単である。そしてそれを面白がって見ている人間も多すぎる。だからこの世には人から批判されないよう、後ろ指を指されないよう、失敗しないよう、そんなことしか考えられない人間が増え続けている。そういう人たちは自分にとって損か得かでしか物事を決められない。我々クリスチャンもそうなってはいないだろうか。教会の中で、自分にメリットがあることはするけれども、メリットがないことはやらない、そう判断するところはないだろうか。そうして何時しか、本当に目の前の見るべきものが見えなくなっているとしたら、カポーやけが人を助けなかった祭司やレビ人を誰が責められるであろう。むしろ、自分もカポーや祭司、レビ人と同じだと気づくべきではないだろうか。しかし気づかないままで、おめでたくも神を信じていい気になっている信者しかいなかったからこそ、先ほど読まれた旧約の中で預言者エレミヤはあのように語った。
即ち、「彼らは、心の中で言うこともない。『我々の神、主を畏れよう。時に応じて雨を、秋の雨と春の雨を与える方、刈り入れのために定められた数週間を我々のために守られる方を』と」。
先ほどはⅡコリントの10章が読まれたが、少し前の5:19にはこう書かれている。
「つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。
この世は神の敵である。世に住む人間は神の敵である。何故なら神を必要としないからである。自分が神になりたい、神なしで自分の力で何とかしたい、と誰もが思っているからである。私も皆さんもそうである。自分を必要としない相手、自分を信用しない相手、自分を憎む相手に誰がまともに向き合おうとするだろうか。なるべくそんな相手とは付き合おうとしないであろう。しかし、そういう判断を促すのも、実はその人が目の前の、本当に見るべきものが見えなくなっているからではないだろうか。互いに愛し合うことが出来ずに、自分のことしか考えられなくなっているからではないだろうか。しかしながら、敵であるこの世に対して神は、その独り子を与えたもうほどに世を愛された。更にパウロはこのⅡコリントの5:21のところでこう言い表している。「罪となんのかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と。
敵であるこの世と我々の為に神は、罪なき方、すなわち御子を罪と定められた、と言うのである。神などいなくていい、自分の好き勝手に生きたいと言う企み、その為なら人を誤魔化し、人を蹴落とし、或いは人に媚びを売り、更には神に対してまでも裸の自分を見せずに葉っぱで隠し、神の前では信頼すべき相手を裏切ってでも自分を正当化しようとする。神の前ではいい子にしていようとする。それも目の前の見るべきものが見えなくなってしまった結果である。しかし神は、そのような人間の罪をすべて、あの十字架においてキリストに負わせた。罪なき方を、私たちの身代わりとして罪に定められたという。それは「わたしたちがその方によって神の義を得るためだ」とパウロは言っていた。神の義とは、神に受け入れられること、神と正しく向き合うことである。我々人間は自分からそれを手にすることは出来ない。キリスト者であっても、である。けれども、それを我々に与えるために神はキリストを罪に引き渡された、キリストが我々と同じ姿となり、我々の中に宿り、我々と同じ状況を自ら背負い、我々の罪を自らが背負って、最後には十字架の上で死を遂げることによって罪の支配を決定的に終わらせた。まさしくそれが、神が御子において成し遂げて下さった恵みである。ヨハネ9章では、その恵みによって生まれつき目の見えなかった者がイエスを「主よ、信じます」と跪いた。三度もイエスを知らないと言って裏切ったペトロも、信じないと拒んだトマスも、その恵みによって復活の主イエスへと目が開かれた。その恵みによって、かつては神など知らず、復活などあり得ないと思っていたのが神へと振り向かされ、復活の主を信じているのが我々キリスト者である。そのように見えなくなっていた我々の目を開き、神との出会い、復活の主との出会いへと導くのが先週のペンテコステで語られた聖霊である。キリスト者は皆、聖霊によって目が開かれている。キリストによって滅びから命へと呼び戻されている。しかしながら、キリスト者であってもうわべを見る者、目の前の見るべきものを見ようとしない者にはそのことが分からない。神の御前でおそれおののくことよりも、人から後ろ指を指されないように振る舞うことしか考えない。そういう人はたとえキリスト者であっても、目の前にいる相手の中に宿っているキリストを見ないで、見た目だけでしか物事を判断しない、否、自分にとって損か得かでしか判断しないのだろう。手の萎えた人が目の前にいても何もしなかったユダヤ人、祭司、レビ人と同じである。
「目の前の事柄を見なさい。自分はキリストのものだと確信している人がいるなら、その人は、自分と同じく私たちもキリストのものであることを、もう一度よく考えて見なさい。」
パウロはそう記していた。二千年前のコリントの教会は、その人の中に宿っているキリストを見ないで、見た目だけで判断していたのだと思う。評判であるとか、噂であるとか、肩書であるとか、そんなものでしか人間を判断出来なくなっていたのだと思う。その判断はパウロに対しても向けられていた。パウロは、この私と同じようにかなり見た目の悪い人間だったらしい。ペトロや他の使徒たちと比べたらかなりがっかりするような風貌だったのだろう。「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱弱しい人で話もつまらない」。教会の中に、憚ることなくそう口にする人間が教会にいたという。パウロはそのことに対して言い返したりはしない。ただ彼は、主が私たちに授けてくださった「権威」ということを引き合いに出していた。ここでいう権威とは、人間世界で通じる権威とは全く違う。オーラとか威厳とか、周りの人間たちを圧倒するような権威とは全く違う。主が授けて下さった権威。それは主であるキリスト自らが身をもって示してくれたキリストの生き方そのものだと私は思う。神でありながら僕の身分へと自分から進んで身を落とし、自分を愛してくれる者にだけ親切にするのではなく自分の敵の為にも命を落とし、友なき者の友となり、仕えられる者ではなく自ら進んで人に仕える生涯を全うされたキリストの生き方。あざ笑われても、忌み嫌われても、憎しみに対して憎しみを返さず、黙して語らず、むしろそのような相手に神と正しく向き合う生き方を証しする、そのことを十字架の死に至るまで全うしたキリストの生き方。高きにのぼるのではなく、低きに下るキリストの生き方。それこそがキリストがパウロに、そしてすべての使徒に授けた権威であったと思う。先ほど紹介したパウロの言葉をもう一度思い起こしていただきたい。
「つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。
神はキリストに罪を背負わせることによって、否、神自らが人となって罪を背負うことによって、敵であったこの世を、我らすべてを神と和解させて下さっている。キリストの十字架によって神は世にある全ての人間を神と和解させている。恵みによって聖霊によってそのことに目開かれた者たちの集まりが教会である。しかしながら、そのことを誰かが証しし続けなければならない。誰かが宣べ伝え続けなければならない。そうでなければ、エレミヤが嘆いたあのユダヤ人の姿と同様、教会は忽ちの内にキリストが見えなくなり、神の言葉が聞こえなくなり、目の前の見るべきものが見えない人間の集団に堕落してしまうからである。そして神はその使命をパウロに、伝道者達に与えたのである。「和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」とは、そういうことである。それが主がパウロに授けた権威である。コリントの信徒たちのように、自分にとってメリットのある隣人しか愛さず、メリットのない相手には目を背け、自分の救い、自分の喜び、自分の満足しか追い求められなくなる信徒たちに対して、そのように自分のメリットの為にしか神を必要としない者たちに対しても、神は独り子を与え賜うほどに世を愛し、御子を信じる者に永遠の命を与えようとしている。罪なき御子を罪に引き渡してまでも、見えなくなっている我らに神の義を与えようとしている。我らを操る罪を十字架のキリストに背負わせて罪を滅ぼし、我らの中におられるキリストによって一人一人を新しく生まれ変わらせよう,目覚めさせようと神は常に働きかけている。そのことを誰かが証しし続けなければ教会は教会でなくなってしまう。その為に神はパウロを伝道者として召し、それから二千年後の今も、和解の言葉を皆さんに宣べ伝える者として牧師たちを、私のような欠けだらけの人間をも牧師として召してくださっているのだと受け止めている。
目の前の見るべきものを見ずにうわべを見るか。キリストを見るか。見た目で判断するか。目には見えない神の計画、神の御心を求めるか。それは皆さんが決めることである。皆さんが選ばなければならないことである。人間は、進んで目に見えないものを選ぶことは出来ない。キリストを見ることは出来ない。欲に駆られるからである。しかし神が恵みをもって皆さんの目を開いてくださるならば、敵であった私たちの為にも命を捨てたキリストに必ず気づかされるだろう。そして、目に見えるものではなく、誰の中にも宿っているキリストを見るように変えられるだろう。神は皆さんをそのように生まれ変わらせる為に皆さんに信仰を与えられたのである。信仰と言うのは、決定的に破れてしまっていた神との交わりの回復である。キリストによって神との交わりが回復され、神と和解させていただいているこの上ない恵みに、今この時も、これからも、肉の命が朽ち果てるまで、目開かれていっていただきたいと心から願う。