「天からの贈りもの、聖霊」イザヤ書11:1~5、使徒1:3~11
2024年5月19日(左近深恵子、ペンテコステ礼拝)
ペンテコステはギリシア語で50番目を表す言葉です。ユダヤ教は過越しの祭の後、50日目にあたる日曜日に五旬祭(ペンテコステ)と呼ばれる収穫祭を祝います。この五旬祭の日、エルサレムのある場所に主イエスの弟子たちが集まっていたところに聖霊が降り、弟子たちの群れが聖霊のお働きによって教会とされました。教会の大切な出発点の一つであるこの出来事を思い起こし、お祝いする祭は、キリスト教においてペンテコステと呼ばれるようになり、イースター、クリスマスと並ぶ三大祝祭の一つとなりました。知名度も、盛り上がりも、他の二つに比べると地味な印象を持たれがちなペンテコステを、教会は何故大切にお祝いしてきたのか、今日は使徒言行録の1章を中心にペンテコステの恵みを受け止めてゆきたいと思います。
教会はキリストの体とも聖書で表現されています。エフェソの信徒への手紙に「神は・・・すべてのものをキリストの足元に従わせ、すべてのものの上に立つ頭としてキリストを教会に与えられました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです」(エフェソ1:22~23)と記されている通りです。私たちはキリストの体で、その頭はキリストであって、私たちの間に、私たちの内に、キリストの恵みが溢れている、これがペンテコステの日以来、教会に起きてきたことです。今、私たちにも起きていることです。もし私たちの頭であるはずのキリストが私たちと共におられなかったら、私たちは頭を持たないからだという虚しい状況にあることになってしまいます。もし頭であるキリストが生きておられなかったら、私たちは過去のものとなってしまった救いを回顧しているだけということになってしまいます。そもそも頭が生きておられなかったら、からだの私たちも生きていない、死んでいるということです。生きておられない頭は私たちの今を恵みで満たすことができず、私たちは、形はあっても互いにやり取りすることのできないバラバラな存在のままであり、欠けだらけの私たちは、貧相な、澱みも抱え、欠けただけの器のままと言うことになってしまいます。生きておられるキリストが共におられるから、私たちの人生は大きく変わかり、私たちの日々の歩みは照らされ、躓いてもいつまでも倒れたままではいないのです。キリストが私たちをご自分に結び付けてくださっているから、キリストによって互いに結び付き、バラバラな者であるのにキリストにある交わりに喜びを与えられています。キリストに従う人々の人生に結ばれた実りの素晴らしさに触れては、驚きを覚えています。これが教会です。このことが教会において出来事となり続けているのは、聖霊のお働きによります。聖霊によって、新たに受け止め続けられ、聖霊によって教会に展開され続けているのです。
私たちがその後に続いている、最初の教会とされた人々はどのような人々であったのでしょうか。それは主イエスから使徒と呼ばれた弟子たちでした。主イエスが大勢の弟子たちの中から彼らを選び立てられました。そのために主イエスは山に登られ、夜を徹して祈られ、朝になると弟子たちを呼び集めてその中から12人を選び、使徒と名付けられました(ルカ6:12)。「使徒」という言葉には、「遣わされた者」という意味があります。夜を徹して祈られた祈りによって彼らを選ばれたのは、遣わすためでした。主イエスのお働きに参与して、それぞれが遣わされる地で主イエスのお働きを前へと進めるためでした。遣わされる先で彼らは何をするのか、今日の箇所に明らかにされています。天に上げられる直前に主イエスは使徒たちに、告げておられます。使徒たちは神の国を、他のどんな力よりも大きな力を持っておられる神さまのご支配を、宣べ伝えるために遣わされます。主イエスが天に挙げられ、使徒たちがもはや主イエスを肉の目で見ることができなくなるその前に、最後に主イエスは彼らを遣わす目的を告げられたのです。
神の国を宣べ伝えることは、これまでも彼らが主イエスから示されてきたことであります。12人を選ばれた主はそれまで人々に多くの教えを語られ、神の国のことを語られ、神様のご支配を示す癒しを行ってこられました。その教えと癒しを主イエスの傍で見聞きしてきた12人を、神の国を宣べ伝えさせるために人々の中へと遣わされたのでした(9:1〜6)。
こうして神さまこそが真の王であると、神の国は到来したのだと、旧約聖書の言葉はご自分において実現しているのだと告げる主イエスの言葉が、使徒たちの働きも用いられながら人々の間に広まってゆきました。けれど、主イエスの教えと為さることを排除しようとする人々の敵意も増すばかりでした。敵意は、主イエスを殺すことで、その命ごとその言葉も働きも影響力も消し去ろうとする動きとなり、主イエスは苦難の末、十字架に命を捧げられました。死んで、死者の中にまで降られた主イエスを、3日目に神さまが甦らせてくださいました。復活された主イエスは、ご自分が生きておられることを数多くの証拠を持って使徒たちに示されました。人々の、自分たちのそれまでの生き方を守るためには神さまが自分たちに与えてくださった救い主さえも、神のみ子さえも死に引き渡してしまう人々の闇は、十字架に明らかになりました。神の民にとって最も不名誉な異邦人の処刑法による死によって、主イエスによってもたらされたこれまでを否定し尽くそうとする深い人間の罪を負って死んでくださった主イエスは、復活され、生きておられることを示されました。罪と、罪による死に打ち勝たれた主イエスが、使徒たちと共にいてくださいました。お姿を示すにとどまらず、食事を共にし、肉体を持って生きておられることをはっきりと示し、語り掛けてくださるお働きを、40日に渡って為さいました。
その40日の間主が語られたのも、神の国についてでした。使徒たちは主イエスの教えをどのように聞いたのでしょうか。主イエスを見捨てたのは、ユダヤの民の指導者たちや、指導者たちに賛同した民だけではありません。使徒たちも、逮捕され、処刑される主イエスを見捨て、死に引き渡しました。積極的に裏切った者もいました。気づいた時には裏切ってしまっていた者も、恐ろしさのあまり裏切らずにはいられなかった者たちもいたことでしょう。そのような自分たちの罪をも背負って死に至る苦しみを受けられ、自分たちの罪にも、自分たちでは逃れることのできなかった罪に呑み込まれたままの死にも勝利された神さまのご支配を、使徒たちはどのように聞いたのでしょうか。驚き、悔い改め、感謝へと導かれたのではないでしょうか。そして改めて語ってくださる神の国についての主イエスの教えを、彼らは受け止めていると、理解していると、思っていたのではないでしょうか。
しかし彼らはなおも理解しきれていなかったことが、彼らが主イエスにした質問に表れています。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と、彼らは主イエスに尋ねました(6節)。メシア、救い主が到来する時にイスラエルの国が建て直されると、人々の間で期待されてきました。長い間異教徒の支配の下に置かれて来て、今もローマ帝国の支配下にある自分たちの国イスラエルが、とうとう建て直される時が来たと、死から復活されたこの主イエスならば国を再興し、外国の支配を打ち破り、神の民の国として完全に独立させてくださると期待していたのでしょう。それが起こるのは今ですか、この時ですか、と尋ねたのでしょう。
主イエスは「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知る所ではない」と答えられます。イスラエルという一つの国家が再興されるのかどうかについて、答えておられるのではありません。神さまが救いを完成してくださることも、その完成がいつ為されるのかも、それは全て神さまの権威の中にあることであって、神さまに成り代わるように、人が自分の期待に神さまの権威を従わせることはできないことを告げられます。使徒たちの熱意を退けておられるのではありません。熱い思いに目を塞がれて、どなたが自分の主であるのか忘れ、神さまにお委ねする姿勢を失ってしまう彼らに、それは神さまが定められることだと教えられるのです。
預言者イザヤの時代、神さまに信頼することができず、神さまではない世の力を自分たちの主にしてしまった古代イスラエルの民に、神さまの裁きとしての災いがもたらされました。神さまは裁きを下されたものの、憐れみによって滅ぼし尽くされることなくイスラエルを残されました。それにもかかわらず、民は変わることが無く、形ばかりの悔い改めと感謝を捧げています。それでもイスラエルの民を襲う敵について「万軍の主なる神は、恐るべき力で枝を切り落とす」と、「聳え立つ木は切り倒され、高い木は低くされ」「主は森の茂みを斧で切り倒」すと告げられます(イザヤ10:33~34)。そしてダビデの父エッサイの株から、つまりダビデの血筋から、一つの芽を萌え出でさせてくださると、新しい王を与えてくださると言われます。自らの罪によって滅びへと下っていくことを止められない人々の危機の中に、新しい芽を、新しい出発をもたらしてくださいます。神さまのご支配を世に芽吹かせ、大きく、大きくしてくださいます。ダビデに主の霊が激しく降ったように、新しい王の上に主の霊がとどまり、王に必要な様々な力をもたらします。正しい裁きを行う力や、政治や軍事を指導する力、そして何よりも大切な主を知り、畏れる力が与えられます。肉の目の見えることによって裁かず、肉の耳の聞くところによって判決を下さない、主なる神を知り、畏れることによる新しい王の支配は、平和をもたらします。
最も主イエスの近くに居て、神のご支配について語られる声を聞き、神のご支配を表わすみ業に触れ続けながら、なおも自分の期待を主イエスに押し付け、自分が神を支配しようとしてしまう使徒たちは、彼らが期待してきたのとは全く違った仕方で、神の国が既に到来していることが見えていません。神さまがダビデの血筋に与えてくださった救い主であり真の王である主イエスによって、神の国は出来事となっています。人々の罪の値を負って死なれ、復活された主イエスによって、罪と死の力に勝利される神さまのご支配がもたらされています。旧約の時代の預言者たちを通して約束されて来た神の国が実現されています。このことを、聖霊によって内なる目が開かれて初めて、知ることができます。イエス・キリストによって神さまを知り、主イエスの十字架と復活を知ることによって、既にもたらされている神さまのご支配を知ることができます。神さまのご支配を知ることによって初めて、それを伝えることができます。それも、自分自身が自分に想定するものを超えた働きに用いられます。主イエスは言われました。「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」と。使徒たちが想定していたユダヤの民やその国家という線を越えて、長く自分たちユダヤの民と敵対してきたサマリアにも、異邦人の地にも、地の果てまでも、神の国を証しする者として遣わされます。自力で、孤立しながら行うことではありません。聖霊の導きと支えが必要です。だから聖霊を待つようにと、主は彼らにこう告げてこられました。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受けるから」。ご自分を裏切った彼らを主イエスはなおも使徒として立て続け、聖霊を待つようにと教えられました。この主イエスに信頼し、父なる神の約束に信頼し、聖霊が降られることを祈り求めることも、熱心な信仰の業です。主イエスが天に昇られた後、主の言葉に従い、思いを一つにして弟子たちはこの業に専心しました。その彼らの上に、ペンテコステの日に、神さまは聖霊を遣わされました。彼ら自身が自力で獲得することのできない、その相応しさも無い聖霊の注ぎという贈り物を、彼らに与えてくださり、彼らを最初の教会としてくださいました。そうして彼らは、あなたがたや自分が十字架に架けた主イエスこそ救い主であると、主は生きておられ、共におられ、この方と共に神さまのご支配がもたらされているのだと、大胆に力強く人々に証しする者となりました。
主イエスの言葉にも業にも立ち続けられずに主を見捨てた使徒たちが、神さまのご支配を宣べ伝える者となる、この大きな飛躍は、彼らにだけではなく、教会とされている私たちにも約束されています。過去を分析し、それに基づいて対策を行う賢さだけでは辿ることのできない、大きく飛躍する道を、教会とされる一人一人は聖霊によって与えられています。私たちも、生ける主イエスのお働きに、キリストのからだとして参与することができます。キリストは天に昇られ、今私たちの目には見えません。しかしキリストは私たちから離れるために昇ってゆかれたのではなく、私たちを教会とし、教会に力を与えるために、天に昇られました。キリストによって罪を赦され、キリストの恵みに満たされ、既に実現され、神さまが定められた時に完成される神の国の中に生きていくことができる喜びを証しする、私たちの思いと力だけでは無し得ない歩みを、天から降られた神さまの贈り物によって、私たちもこの教会において、為していくことができます。