「人間をとる漁師」エレミヤ16:14~16、マタイ4:18~22
2024年5月5日(左近深恵子)
もうすぐペンテコステです。今年は5月19日がペンテコステです。復活され、弟子たちに現れてくださったイエス・キリストが、天に昇られる前に弟子たちに約束されたように、集まって一つとなって祈りながらその時を待っていた弟子たちに聖霊が降られ、弟子たちの群れが教会とされた出来事をお祝いする日が、ペンテコステです。ここから教会としての歴史が始まりました。ペンテコステは教会の誕生の時と言うことができます。
ペンテコステの出来事によって最初の教会とされた弟子たちの群れの一人一人はどのような人々であったのでしょうか。その人々はどのように主イエスの弟子となったのでしょうか。私たちも今、教会に集っています。この美竹教会だけでなく世界中の教会で、今日も神さまに礼拝を捧げている人々がいます。ペンテコステの出来事から今に至るまで、教会は歴史を刻んできました。聖書においてキリストの弟子とは、キリストに従う人のことを指します。教会に連なり、キリストに従う人生を求める人々はいつの時代も、キリストの弟子と言えます。私たちが教会の礼拝に出るようになるまでに、それぞれ、人や出来事との出会いがあり、教会に辿り着くまでに経てきた道程があると思います。その出会いの一つ一つは私たちにとって、ただの思い出ではありません。その出会いがあったから、今私たちはここにいる、宝物のような出会いでしょう。では、私たちの大先輩である最初の弟子たちは、キリストに従う道のりの一歩をどのように踏み出したのでしょうか。私たちの今につながる道程の一歩を、どのように踏み出したのでしょうか。
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書によると、最初に4人の人が主イエスの弟子となりました。先ほど、マタイによる福音書が語るその出来事をご一緒に聞きました。彼らは皆、ガリラヤ湖で漁をして生計を立てていた漁師で、二組の兄弟でした。最初にペトロとその兄弟アンデレが主イエスに従い、次にヤコブとその兄弟ヨハネが従いました。同じ日に、おそらくさほど時を経ずに4人は主イエスに出会い、同じように主から呼び掛けられ、弟子となりました。
この4人は、弟子たちの中で特別な役割を担うようになってゆきます。後に主イエスは大勢となった弟子たちの中から12人の弟子を立てられますが、4人はその中に選ばれます。12人の他の弟子たちの名前が言及されないところでも、4人の名前が挙げられ、その行動が述べられている箇所もあります。4人は弟子たちを代表する存在となってゆきます。
4人の中で一番名が知られているのはペトロでありましょう。本来シモンと言う名前を持っていましたが、主イエスが“岩”という意味の「ペトロ」という名前をシモンに与え、ペトロと呼ばれるようになりました。12弟子のリーダー格となり、直情的な性格のためなのか、他の弟子たちの思いを代弁するように多くの場面で真っ先に発言したり、先頭を切って行動し、主イエスの言葉を十分に理解していなかったことが明らかとなる出来事が幾つもあります。
その兄弟アンデレは、この福音書では今日の場面と12弟子の名前のリストの中でしか言及されていませんが、他の福音書によると、兄弟ペトロを主イエスのもとに連れて行っています。主イエスの話しを聞こうと集まってきた大勢の群衆の空腹を満たすだけの食べ物が無く、他の弟子たちが途方に暮れていた時に、5つのパンと2匹の魚を持っていた少年を主イエスに紹介したこともあります。主イエスにお目にかかりたいと言うギリシア人たちのことを主イエスに伝えたことも記されています。ペトロのようにその言動が目立つ人ではありませんが、アンデレは人々を主イエスへとつなげた人と言えます。弟子としての大切な役割をアンデレは示してくれているようです。
もう一組の兄弟ヤコブとヨハネは、ゼベダイの息子でした。ヤコブとヨハネはペトロと並び、12弟子の中でひときわ中心的な存在です。“山上の変容”や“ゲッセマネの園での祈り”など、主要な場面でその名が言及されています。ヤコブとヨハネは主イエスから「雷の子ら」という名前をつけられたことが他の福音書に記されています。主がそのような名前を付けられた理由は記されていませんが、主イエスが町に入ることを拒んだその町の者たちに対して天から火を降らせることを主イエスに提案したり、弟子たちの中で最も高い地位に尽きたいと主イエスに求めたり、2人の激しさが垣間見える出来事が聖書に記されています。
この4人は弟子になろうと思って主イエスのもとを訪ね、頼み込んだのではありません。自分の今の生活を変えたいと、チャンスを求めていたと書かれているわけでもありません。自分たちの生活圏の、彼らにとっては仕事場である湖畔で、生活の糧を得るための営みを続けていたある日、主から声を掛けられたのです。何故彼らだったのか、選びの基準は記されていません。その後の彼らの言動を見ていると、弟子の鑑とは言いづらい、頼りないところもある人々です。まことに普通の人々です。個性豊かで人間臭い、私たちと同じような人々です。しかし、主イエスの十字架と復活、昇天の後では、彼らは教会の核となって活躍します。12弟子の他の者たちの多くもそうですが、信仰を貫いたことで殉教の死を遂げたとも言われています。4人の活躍を知ると、この弟子たちの内側に選ばれた特別な理由を探してしまう私たちです。自分とは違うと、彼らと自分の間に線を引きたくなってしまいます。しかし聖書は4人が選ばれた理由など何も示しません。主イエスの選びを主イエスに成り代わって判断することを退けるように、聖書は主が4人をご覧になり、声を掛けられたことだけを伝えます。彼らの生活全体を、また彼らの今を形づくって来たもの、彼らの内にあるものを全てご覧になったことでしょう。その上でそれぞれに声を掛けられた、それが聖書が伝えていることです。
主イエスはペトロとアンデレに「私に付いてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。語順をそのままに直訳すると、「付いてきなさい、私の後に、そうしたら私があなた方をする、漁師になるように、人間の」となります。「する」と訳した言葉には、「造る、創造する」という意味も「準備する」、「任命する」という意味もあります。彼らを、主イエスが新しく創造してくださるということです。これまでガリラヤ湖の魚をとる漁師だった彼らを、人間をとる漁師に任命し、そのために準備してくださるということです。主イエスの呼びかけにお応えして、「二人は直ぐに網を捨てて従った」とあります。この文は元の言葉の語順をほぼそのままに訳されています。二人が直ぐに行動を起こしたことが、強く伝わってきます。湖に投げ入れていた網を岸辺に網を引き上げるのももどかしい位に、もしかしたら網は水中にそのまま捨て置いて、主イエスの傍へと行き、主の後を付いて歩き始めた、その勢いが伝わってきます。
次のヤコブとヨハネにも主イエスは声を掛けられます。何と言われたのか、ここではその言葉は記されていませんが、お応えした二人の反応はペトロとアンデレの時と同じです。「網を捨てて」が「舟と父を残して」に代わったこと以外、全く同じ文で述べられています。主イエスがヤコブとヨハネに告げられた言葉も、ペトロとアンデレに告げられた言葉とおそらく同じでありましょう。ヤコブとヨハネを「お呼びになった」とあります。「呼ぶ」と訳された言葉は「大声で呼ぶ」という意味の他、「呼び出す」、「招く」、「あずからせる」、「敬意をもって名前で呼ぶ」、「(ある職に就くように)召す、選ぶ」といった意味を併せ持ちます。兄弟はただ声を掛けられたのではなく、弟子となることへと召されたのです。もしかしたら彼らの名前まで呼ばれて招かれたのです。この「呼ぶ」と訳された言葉に、「外へ」という意味の前置詞を加え、「呼び出す」という意味が強められた言葉があります。「呼び出す」というこの言葉は「教会」を意味する言葉となりました。教会は主によってそれぞれの所から主に従うことへと呼び出され、その招かれる声にお応えして自分の領域から外へと踏み出し、主のご支配の元へと集ってくる人々の群れであります。最初の弟子となった4人も、主が招いてくださる声にお応えして、それまでの日々を後にして、主の後に従うことへと踏み出したのです。
魚をとる漁師であった彼らを、主イエスは人間をとる漁師とすると言われます。人間をとる漁師のイメージを、預言者エレミヤも語っていました。エレミヤの時代、古代イスラエルの主だった人々は故郷から離れたバビロンの地で捕囚となっていました。神さまによって神の民とされ、神さまの契約の担い手とされていながら神さまに信頼しきれず、預言者が告げる神さまの言葉に背いて大国の力によって生き延びようとした結果、バビロン帝国に国を滅ぼされました。民は、自分たちの罪と悪に対する神さまの裁きとしてその結果を受け止めました。エレミヤは今日の箇所で、罪に対する報いを受けた後、神さまがユダの地に連れ帰ってくださる日が来ると告げます。かつて、ファラオの支配の下から神さまがご自分の民を救い出し、約束の地として与えてくださったユダの地に連れ帰ってくださったように、歴史を貫いて生きて働かれる主なる神は、北の地バビロンから導き上ってくださると。その時神さまは多くの漁師を遣わし、漁師が人をすなどるとも語ります。この漁師たちは、神さまが裁きを下される日に、善いものと悪いものを最終的により分ける神さまのお働きを象徴するものとして用いられています。それは、主イエスが弟子たちに委ねられる働きと同じではありません。しかし、神さまに背く思いや力に引きずられている全ての人に、神さまの救いが到来したと、主イエスが私たちの救い主だと福音を宣べ伝え、福音を受け止める人々を見出す主イエスの弟子たちも、神さまのお働きを見つめ、実りをより分ける役割においては重なるように思います。
同じように捕囚の時代に活躍した預言者にエゼキエルという人がいます。エゼキエルの預言の中にも漁師が出てきます(47章)。エゼキエルは、神さまに背き続ける人々に悔い改めを語ってきました。しかし神さまに立ち返ろうとしないイスラエルの民の都はバビロンに攻め込まれて陥落し、信仰の砦であった神殿は破壊され、国は滅びました。都の崩壊後、それまで神さまの裁きを語って来たエゼキエルは、神さまがご自分の民を回復してくださる救いを語るようになります。エゼキエル書40章以降には、神さまから示された幻が記されています。エゼキエルは神さまが再建してくださる神殿と都の様子を語ります。神殿の下からいのちの水が流れ出ます。水流は豊かな川の流れとなり、周りの地を潤し、木々を茂らせ、その川が流れていく所ではどこでも、そこに群がるすべての生き物は生きるようになります。この川は汚れた水の海にも流れ込みます。するとその汚れた水が清められ、きれいな海へと変えられます。そこに漁師が登場します。漁師たちは水辺に立ち、引き網を広げ、大海の魚のように種類が増え、数が増した魚をすなどります。この幻の中でも漁師は神さまの救いのみ業を見つめる者であり、この漁師たちは主イエスの弟子たちのように、み業の実りを収穫する者であります。世にあって生きて働かれる神さまによって人間をとる漁師とされる者は、神さまの救いのお働きが人の力では無し得ない驚くべき実りを生み出すことを、他の人々よりも先に気づくことができる者であり、その実りを収穫することのできる、尽きぬ喜びに生きる者であるのです。
ご自分に従うことへと召し出される主の招きの声を聞いたペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、この先にどんなに素晴らしい喜びがあり、またどんなに大きな苦しみがあるのか、見えていたわけではないでしょう。ただ、主に招かれることの恵は知ることができたでしょう。自分たちの日常の中へと入ってきてくださり、呼び掛けてくださる主が、主のお働きに加わることへと招いてくださる、その喜びは受け止めることができました。そしてその招きにお応えすることができました。即座に主に従った4人の行動は決然として、真に潔いものです。このように直ぐにお応えすることが確かにあると、ご自分のこれまでを振り返って思われる方もあるでしょう。何度も繰り返し、繰り返し声を掛けていただいて、長い年月の末、お応えする人生もあるでしょう。どちらにしても私たちの意志の強さ、決意の固さが私たちの応答を生み出すのではないように、4人の行動も、4人の強い決意が生み出したものではありません。彼らがお応えすることに、主イエスが彼らを見つめ、声を掛けてくださることが先立っています。彼らはその時いくらかでも、主イエスがどのような方なのか知っていたことでしょう。福音書はこれまで、主イエスが人々と同じように悔い改めのための洗礼をヨハネから受けられ、荒れ野で人々を引きずる罪の力と対峙してくださり、それからガリラヤで福音を宣べ伝え始められたことを伝えてきました。ガリラヤの人々に主は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語っておられました。神さまのご支配は既に近くにもたらされているのだと、だから神さまのもとに立ち返りなさいと呼び掛ける主イエスの言葉は、彼らにも届いていたことでしょう。人々の暮らしや生き方に大きな影響を与える様々な強大な力がしのぎを削っている世に、神さまのご支配が到来していると告げる主イエスと言う方が、ご自分の後に従う人生へと招いてくださっている、新しい者として創造し、人間をとる漁師に任命してくださっている、だから彼らは主にお応えし、神さまの創造のお働きに自分の人生を委ねる道を踏み出すことができたのです。
踏み出せば即座に彼らが人間をとる一人前の漁師になれるわけではありません。彼らはガリラヤ湖で一人前の漁師になるまでに、父親や漁師の先輩たちの指導を受けつつ、何年もかかったことでしょう。主に従う歩みも同じです。その地道な歩みの途上、主の言葉を理解しきれていない自分の不十分さや、自分が主であるかのように主に成り代わって判断したり裁いたりしてしまう愚かさや、自分を愛するように隣人を重んじることができない闇をしばしば露呈してしまう彼らですが、その度に主によって主の後に従う道へと立ち返ることに導かれ、主と共に歩みます。主が天に昇られた後は、聖霊によって導かれ、養われ、彼らは歩み続けたのです。
キリストは今も、「私に付いてきなさい」と私たちに呼び掛けてくださっています。礼拝において、また様々な出会いを通して、呼び掛けておられます。礼拝の度にキリストに呼び集められ、新たにされ、導かれ、聖餐の恵みで養われ、神さまの恵みを数えつつ歩むこの道において、神さまからそれぞれが与えられている賜物が主のお働きの中で活かされ、用いられます。主が呼ばれる声に、共にお応えしてゆきましょう。