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み心にかなう実を結ぼう

「み心にかなう実を結ぼう」イザヤ4015、マタイ3112(詩編1043135

202447日(左近深恵子)

 

 私たちは、神様の恵を心に受け止めること、心に留めることができなくなってしまうほど、不安や怒りや疑問に心が頑なになることがあります。心がささくれ立つようにイライラとしたり、何を見つめるべきなのか分からず、心の視線が定まらず、キリストの苦しみも死も、自分の人生と重なるところの無いものに思えてしまうこともあります。私たちの心はしばしば、岩や石や砂が広がり、緑は僅かしか育たず、水も栄養も保ち続けられない荒れ野のようです。荒れ野に風が吹けば砂埃が巻き起こるように、何か想定外の事が起これば心の中に恐れが湧き起こり、ザラザラとした不快な不安に被われ、視界が遮られてしまいます。

 

荒れ野のような日々は私たちにとって辛いものでありますが、自分の内側が荒れ野のようであると気づき、荒れ野のような自分であることを認めることができる時、神さまの言葉が初めてその意味をもって響いてくるということがあるように思います。照り付ける日差しや砂嵐や野の獣に対して無防備な荒れ野で自分の弱さを思い知り、たとえ今再び、攻撃するものの侵入を防ぐ頑丈な壁や、雨風を凌げる屋根のような守りを手にすることができたとしても、それらによって自分の全てが守られるわけではないのだと気づかされます。自分の力や頑張りも、自分や大切な誰かを自分が願っているところに到達させるには不十分であるのだと、それどころか自分の不十分さや過ちによって他者を巻き込んでしまうこともあるのだと、自分の実態を知る苦しみの中で、神さまの言葉に真の慰めがあることを知ります。神さまが人に与えてくださった命を、神様が願ってくださっているような本来の在り方で生きることができずにいる私たちの姿は、人が住むための場所では無い、人を養い守るものがほとんど無い荒れ野で、真の住まいを、真に帰るべきところを見失っている者のようであります。その荒れ野で神さまの言葉は、帰るべき方はどなたなのか告げるのです。

 

神さまが私たちの救い主として世に与えてくださった主イエスのお働きはどこから始まるのか、遡っていきますと、主イエスの先触れとして神さまが遣わされた洗礼者ヨハネに至ります。マタイによる福音書で、クリスマスの出来事の後、次に主イエスが登場されるのは、このヨハネから洗礼を受ける場面です。来週その箇所にご一緒に耳を傾けます。今日の箇所は、主イエスがお働きを始めるために訪ねたヨハネという人はどのような人であるのか、どのような働きを為していたのか伝えています。ヨハネは自分の後に来られる救い主をお迎えするために備えるように、人々に呼びかけた人です。そのために神さまがヨハネを遣わされた場所、そして主イエスがヨハネから洗礼を受けるために向かわれた場所は、私たちの実態を映し出すような荒れ野であったのです。

 

ヨハネが活動の場とした荒れ野は、ユダヤの地にありました。神さまがアブラハムを選び立て、アブラハムから生まれる民をご自分の民としてくださった、その神の民に属することを誇りとするユダヤの人々が暮らす地域に広がる荒れ野です。神さまがいつか救い主を遣わされるとの約束を預言者たちを通して聞いてきて、世代を超えて救い主の到来を待ち望んできた人々の荒れ野へと、神さまは救い主の先駆けであるヨハネを遣わされました。

 

救い主だけでなくそのために道備えをする者のことも、預言者を通して告げられていました。マタイによる福音書の今日の3節に引用されているイザヤの言葉です。預言者イザヤが「主の道を備えよと、その道筋を真っ直ぐにせよと、荒れ野で叫ぶ者の声がする」と告げたのは、このヨハネのことである、と福音書は語ります。またマラキ書は、救い主メシヤの日が来る前に、「わたしはあなたがたに預言者エリヤを遣わす」との神さまの言葉を伝えています(マラキ323)。そこから人々は、預言者エリヤが救い主の先触れとして到来すると、信じるようになりました。ヨハネの姿は人々にそのエリヤを彷彿とさせたことでしょう。列王記にエリヤは「毛衣をまとい、腰に革帯を締めた人」であったと記されているからです(列王下18)。民が神の都エルサレムから、更にはユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯からヨハネの所へとやって来たと福音書は伝えます。とうとう救い主の先触れである、エリヤのような預言者が到来したと思い、やって来たのでしょう。

 

かつて神の民は神さまに背き続け、神さまを神とすることよりも、世の力を自分たちの主としてしまった結果、異教の民バビロニア帝国の捕囚となり、神さまが与えてくださった約束の地から異国バビロンに連れてこられました。長い年月が経ち、世代も代わり、神さまはこの民を憐れまれ、捕囚の地から、神さまが与えられた約束の地に帰ることを許されました。イザヤは捕囚とされてきたこの民に、荒れ野に道を備えよと、主の言葉を告げました。大国に都も神殿もダビデ王朝も滅ぼされた小さく弱い民に、荒れ野を貫く道を備えよと告げます。山や丘や谷が続き、岩や石だらけの、起伏の激しい険しいその地は平らになると告げます。立派な街道など通っていないその荒れ野に、大国の王の道ではなく、神の民自身の道でもなく、主の道を備えよと告げます。そうして大国の力に国としての基盤を奪われた小さな民は、荒れ野を貫く主の道を取って、神さまの聖なる都に帰ることができると、人の常識を超えた主のみ業を告げる言葉が荒れ野に響いたのです。

 

そのイザヤの預言が、ヨハネの働きによって思い起こされています。ヨハネが呼び掛けた民は約束の地で暮らしてきました。神殿は再建され、そこで神さまを礼拝する祭儀が行われ、神さまから与えられた律法を守る生活を重んじてきました。けれど人々の日々は罪に侵食されています。自分たちに与えられている神の民としての血筋や歴史、約束の地、神殿での祭儀、律法を重んじているようで、それらを与えてくださっている神さまのみ心を求めることに欠けています。祭儀や律法を守っているようで形ばかりとなっていた人々の荒れ野のような心に、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とのヨハネの言葉が響いたのです。

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた」、この言葉を人々は再び聞くことになります。主イエスがガリラヤで福音を宣べ伝えるお働きを始める時に、この言葉をつげられるのです(417)。また、「天の国は近づいた」という言葉は、主イエスが12弟子を町や村に遣わされる時に、このように宣べ伝えよと弟子たちに命じられた言葉です。主イエスがそのお働きを通して人々に呼び掛け、弟子たち、つまり教会が宣べ伝えることを主から命じられている言葉を、ヨハネは主イエスと教会に先立って呼び掛けています。救い主の先触れとしてのヨハネの働きが、キリストのお働きと教会の歴史につながってゆくのです。

 

「悔い改めよ」とは、神さまのもとに帰りなさいということです。与えられている様々な恵みの源にある神さまの御心に立ち帰りなさいと、形骸化した行為や言葉で自分の歩みを固めるのではなく、自分の心と体と魂と生活と、全てをもって神さまのみ前に帰り、そこから新たに生き直しなさいと呼びかけます。来るべき天の国を目指して新たに生き直します。「天の国」の天とは神さまを表わします。「国」は支配を表わします。天の国、神さまのご支配が近いとヨハネは呼び掛けます。神さまがご支配を世に確立される救いのみ業はキリストが世に下られたことで既に大きく動き出しています。自分の後に来られるキリストがこのみ業を成し遂げてくださるのだと、だから備えて悔い改めよと呼び掛けます。

 

これまで人々が聞いてきたのは「いつか救い主が来られる」という預言でした。しかしヨハネは「天の国は近づいた」と告げます。いつかではなく、近づいたと言うのです。近くの町や村だけでなくあらゆる所からユダヤの民が、エリヤのようなこのヨハネを目指してやって来て、この言葉を聞き、神さまのみ前に悔い改め、自分の罪を告白しました。神の民として歩もうとする自分たちの在り方からも、神さまが自分たちに願っておられる在り方からも引き離し、混沌とした闇の中へと引きずり込もうとする罪の力に屈してきた自分たちの罪を告白します。そしてヨハネから洗礼を受けます。ヨハネが授けていた洗礼についてマルコによる福音書は、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」と表現しています。神さまのみ前に立ち帰るけれど、自分の罪は脇に置いたまま、ということはあり得ません。全てをご存知であり、全ての力の上におられ、裁き主である神さまのみ前に自分の全てをもって進み出るということは、赦しを乞い願う他無いということであります。この人々にヨハネは、神さまから罪の赦しを得る徴として洗礼を授けていたと考えられます。

 

ヨハネの所にきたのは、進んで悔い改めるこのような民だけではありませんでした。別の思惑を抱く者たちもやって来ました。ファリサイ派やサドカイ派の人々と呼ばれる、ユダヤの民の指導者たちです。ヨハネは彼らに対して「毒蛇の子らよ」と辛辣な呼び方をします。神の民の血筋に生まれたことと信仰深い者であることは同じでないのに血筋に頼り、祭儀を司る務めや律法に精通しているという立場が自分を正しくしているように思い違いをし、与えられている恵みや賜物の意味を一般の信仰者たち以上に受け止め、生かさなければならない指導的立場にありながら、他者の信仰の歩みまでも躓かせしまう毒を内に持っている彼らの実態を、この呼び方は告げるのでしょうか。主イエスも後に、このような指導者たちに対して同じ表現を用いておられるのです。

 

このように、ヨハネが活動していた時代、既に指導者たちは深く罪に蝕まれ、救い主の先触れであるヨハネの告げる言葉も為している働きも、受け止めることができない者であることを露呈していましたが、人々は違っていました。人々はヨハネの呼びかけを受け留めることができ、応えることができ、自ら進んで悔い改めることができました。けれど福音書の終わり近くでは、指導者たちだけでなく群衆も、主イエスの言葉やお働きを受け留めることができなくなっていました。ローマの総督ピラトが、民衆の希望する囚人を1人釈放する慣例に従い、バラバという囚人とイエスのどちらを釈放して欲しいのかと人々に問うた時、祭司長や長老たちと共に群衆は「バラバを」と答えました。ピラトが「では、メシアと言われているイエスの方はどうしたら良いか」と重ねて問うと、人々は皆「十字架につけろ」と返します。主イエスに死刑に処するような罪を見出せないピラトは「一体、どんな悪事を働いたと言うのか」と問いますが、もはや群衆はその問いに答えようともせず、ますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けるばかりでした。こうして主イエスの死刑は確定したのです。かつては神さまのみ前に悔い改めることにおいて指導者たちとの間に大きな差をつけて先んじていた民のこの姿に、人間の現実を見ずにはいられません。この全ての人間の罪を負うために、主イエスはその地上の歩みを十字架へと向かって歩き続けられたことを思わされます。

 

ヨハネは、指導者たちが神の怒りを免れると思い込んでいることを明らかにします。彼らは、神さまが特別にご自分の民としてくださった自分たちは既に正しさの根拠を得ていると思っている。その上神殿で祭儀を司る特別な働きをしてきた、あるいは熱心に聖書を学び律法に忠実に生きた、これらの積み重ねが自分たちの正しさを固いものとしていると思っている。今ここでヨハネから洗礼を受ければ正しさは一層確かなものとなると考えたのでしょう。群衆は内なる荒れ野でヨハネの告げる神さまの言葉を聞き、罪の赦しを求めてやって来ましたが、指導者たちは一体、自分たちの中に荒れ野を見出していたのでしょうか。指導者たちは自分たちには神さまの裁きが下らないと思っています。彼らも群衆に悔い改めよと指導することがあったかもしれませんが、自分にも悔い改めが必要であることは本当のところ受け入れていません。ヨハネの活動を、自分たちの正しさを強化するために利用できるのではないかとやって来たのでしょう。

 

ヨハネは彼らが本当は悔い改めが自分たちに必要であることを受け入れていないことを知っており、悔い改めにふさわしい実を結んでいない彼らが、悔い改めていないことを明らかにします。人の全てをご存知である主なる神は、人を真に裁くことができる方です。人は皆、裁かれる者です。自分が属する社会から裁く務めを特別に委ねられている者であっても、他の人には無い権威や力を与えられている者であっても、神さまの裁きを免れる者ではありません。義なる神さまは、人の罪に対して正しい裁きを下す方であります。その神さまに自分自身も裁かれる者であることを認めていない指導者たちは、神さまを畏れておらず、悔い改めも、罪の告白も、罪の赦しも求めないのです。

 

祭儀を司り、また律法を重んじる指導者たちは、自分たちはこれまで良い実を結んできたと思っていたことでしょう。しかしヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、神さまに従う本来の在り方を彼らに命じます。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と神さまの裁きを告げます。人が自分で良しとするものが、神さまが「良い」とされるものと同じではないことを気づかせるヨハネの言葉です。この言葉に私たちも自分の在り方を問われずにはいられません。神さまのみ前に自分を置くこと無く、自分で自分を良しとしていたい、全てをご存知であり、真に裁くことのできる方ではなく、自分が自分の裁き主でありたい、そうして自分で自分を許していたい、そのような思いを抱いたことの無い人はいないのではないでしょうか。ヨハネは水で洗礼を授けていましたが、自分の後に来られる救い主は、聖霊と火で洗礼を授ける方であると告げました。ヨハネが授けていた洗礼は、悔い改めに導くためのものでしたが、キリストは、聖霊において洗礼を授け、私たちの罪を炎で焼き尽くすように私たちを罪から救い、清めて、新しい命に生きる者としてくださいます。実の入っていない殻を全て焼き尽くすように、悔い改めず、悔い改めの実を結ばない私たちの罪を徹底的に焼き尽くす裁きを下される方です。その裁きを、私たちに代わって十字架上で受けてくださり、罪の赦しを私たちにもたらしてくださったキリストが、神さまの霊と炎によって私たちに洗礼を授けてくださるのです。

 

 

ヨハネの言葉は真に厳しいものです。しかしまた、人の言葉や行動を生みだす源に神さまへの悔い改めがあるなら、人は実を結ぶことができるのだと、気づかせてくれます。良いことをしよう、良いとされていることを積み上げてゆこう、とするのではなく、悔い改めること、神さまのみ前に立ち返ることが、私たちの日常の隅々に染み渡り、言葉や行いとなってゆくことに気づかせてくれます。神さまに立ち返る私たちの在り方が、私たちの日常に反映されることに力づけられます。ふと口にする言葉、思わず取る行動、下す判断に現れるということがあるかもしれません。神さまどうしてですかともがくように神さまのみ心を問う闘いが、神さまのみ心に踏み留まる力となることも、先が見えない時間の中で見えないけれど踏ん張る力となることもあるでしょう。私たちには今すぐそれが良いものだと評価することができないようなこと、世は寧ろ良いとは評価しないようなことかもしれません。それでもそれらの言葉や行動や判断が、悔い改めから生み出されたものであるならば、いつか悔い改めにふさわしい実を結び、主の栄光を証しするものとなるのだと、信頼することができるのです。