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初めであり、終わりである

「初めであり、終わりである」イザヤ46813、黙示録2118

202433日(レントⅢ、左近深恵子)

 

 今日共にお聞きしましたヨハネの黙示録の箇所は、新年の礼拝で読まれることがあります。これからの1年がこのような時であって欲しいという願いを持つ私たちの心に響き、新しい年の歩みを導く言葉がここにあります。

 

 今日の箇所はそしてまた、葬りの中で特に読まれる箇所であります。逝去された方を覚えて捧げる葬儀の礼拝で、またその人の体とお別れする火葬場で、しばしば読まれます。棺を囲み、その人のことを、その人との間に与えられた交わりのことを思う時、その生涯の歩みを導いてくださった主が、その人も含めて人々に与えてくださっている、死を超える約束を示してくれる言葉がここにあります。

 

 私たちはこの先に、穏やかで健やかな日々を願う者でありましょう。そうであって欲しいという期待を基に、人と会うことや旅行など、先の色々な予定を立てます。けれど本当に予定したように事が運ぶのか本当のところは分かりません。自分のことも、周りの人々のことも、自分が置かれている社会のことも、世界のことも、明日のことすら明確に分からないのが私たちの実態です。私たちに分かっているのは、全ての人に死がいずれ訪れるということです。私たちの日々は死に向かっているということです。しかし訪れることが分かっているその死は、明日のことや来週のこと以上に、私たちに分からないものです。死に向かう時、死の只中に有る時のことも分かりませんが、死というものが私たちの人生にもたらしている影響が実のところどのようなものであるのか、どれだけ大きいのかも分かっていません。死で全てがお終いになると死を捉えるならば、人生は死に向かって行くだけであり、喜びだけでなく辛いことも苦しいこともある人生の意味も分からなくなります。今生きていることの意味が分からなくなるのです。

 

 先ほど共にお聞きしたヨハネの黙示録の箇所にキリストの言葉がこう記されていました、「私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(6節)。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、そのギリシア語のアルファベットの最初と最後の文字が、アルファとオメガです。キリストが、初めと終わりであると、重ねて言われています。私たちが自分の生涯の初めと終わりを握っているのではない。私たちが自分に命を与えたのでも、自分が置かれている世界を創造したのでもない。私たちが終わりをもたらすのでも、死が終わりをもたらすのでもない。キリストが全てのものの初めであり、終わりを支配しておられるのもキリストであると、告げておられます。同様のキリストの言葉が、次の22章にもこう記されています、「私はアルファであり、オメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである」(2213)。この言葉は先ず1章でこう述べられていたのです、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである』」(18)。キリストが初めであり終わりであるということが、ヨハネの黙示録を貫いています。「今おられ、かつておられ、やがて来られる」という表現も同様のことを表します。キリストが初めであるということ、アルファであるということは、どこまで遡っていっても、キリストが救い主でおられない時は無いということであります。そのキリストが人となられて世に降られ、十字架の死に至る生涯を歩み通され、死者の中から復活されて天に挙げられて、それまで神さまが為さってこられた救いのみ業を成し遂げてくださいました。今も聖霊によって私たちと共におられます。私たちがその後に従うことを願っている方であり、私たちが今礼拝を捧げ、賛美や祈りを捧げている方です。キリストが終わりであるということ、オメガであるということは、この先も、どのような力も死も、この方の支配を途絶えさせることはできず、この方が私たちの救い主でなくなることはないということです。死が終わらせるのではなく、この方が終わりとなってくださるということです。キリストに従う歩みは、最後に死によって全てが滅ぼされる道ではなく、終わりの時に、キリストが神さまの救いのみ業を完成してくださり、キリストが私たちの真の王であることが明らかにされる道です。イザヤ書46章で神さまは「いにしえから続くこれまでのことを思い起こせ」と呼び掛けられ、「私の計画は実現し、その望みをすべて実行する」と、「終わりのことを初めから、まだなされていないことを昔から告げて来た」と言われます。私たちにこの先に起こることは分かりません。死の力も依然私たちの日々に濃い陰を落とし続けます。しかし、古からこれまで神さまが与えてこられたことを思い起こし、初めであり、終わりである方を仰ぎ、終わりの時から今を見るなら、諦める思いや臆病さに自分自身を支配させてしまわずに、キリストの後に従う歩みを求めてゆくことができるのです。

 

 この文書の名前に付いている「黙示録」という言葉に、この言葉が他の場所で用いられているイメージ、例えば映画やアニメ、ゲームなどのイメージが重なると、黙示録は聖書の中では特殊な文書のように捉えられがちです。けれど「黙示」とは、「隠れているものをあらわにする」という意味の言葉です。私たちには分からない終わりのことを示すために、神さまがこの文書の書き手に与えてくださった言葉や多くの幻を伝えるので、黙示録と呼ばれているのでしょう。

 

 今年度、礼拝で聞いてきた新約聖書の他の手紙の文書と同様に、ヨハネの黙示録も教会に宛てて書かれた手紙です。小アジアにある諸教会で福音を説き明かし、伝道してきたヨハネと呼ばれる預言者が、小アジアの諸教会に宛てて記しているのが、この文書です。文書の結びの部分となる21章、22章には、復活の主、キリストが再び地上に来られ、神さまに背く力を永久に滅ぼされ、全く新しい、永遠に朽ちることのないご支配を始めてくださることが述べられています。

 

 手紙の受け取り手である小アジアのキリスト者たちは、ローマ帝国による激しい迫害を経験してきました。エルサレムの神殿が破壊され、多くの血が流されてきました。そしてより過酷な迫害の波が迫っていました。キリストではなく、ローマ皇帝を神として礼拝することを要求する迫害に襲われると、キリストに背を向けることが強いられます。キリストに従い続け、殺される者も仲間たちの中に出ています。キリスト者たちは、命を奪われた信仰の家族たちの生涯と死を見つめ、苦しみ悲しみながら、信仰に歩み続けています。ヨハネはその地から引き離され、パトモスという小さな島に流されていました。このヨハネに、神さまは幻と言葉を与えてくださいました。苦しみ悲しんでいる人々に宛てられたこの手紙が繰り返し届ける、キリストがすべてのものの初めであり、終わりであるという呼びかけは、深い慰めと励ましをもたらしたことと思います。

 

 今日の箇所の1節ではまた、「新しい天と新しい地」を見たとの幻が語られます。イザヤ書にも、神さまの救いを語る箇所の中に、「見よ、新しい天と新しい地を創造する」との文があります(6517)。イザヤ書では、今あるものが徹底的に良いものに変えられる、そのような意味で「新しい」と言われています。神さまの救いを示す「新しい天と新しい地」と言う表現に、旧約聖書の時代から神の民は親しんできたことでしょう。

 

今あるものを徹底的に良いものに変えることがどれほど困難であるのか、私たちは身に染みているのではないでしょうか。年の始まりに新鮮な気持ちでこれからの一年に志を立てても、年を跨いだからといって私たちが一変するはずもなく、昨日までのものを引きずりつつ新しさを求めるのが人間の実態です。キリストに従うために徹底的に変えようと願う場合でも、容易いことではありません。皆がキリストに従いたいと願っているはずなのに、人々が一つになって改革を進める道の先には高い壁が幾つも聳え立つことは珍しくありません。けれどキリストが告げられる「新しい天と新しい地」の新しさとは、私たちのような、古さを残したまま一部だけを刷新するようなものではなく、丸ごと新しくされること、根底から決定的に新しくされることを意味します。神さまのみ業によって為されることです。今日の箇所の5節でもキリストが「見よ、私は万物を新しくする」と言われ、「書き記せ、これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われています。この「新しさ」も、未使用品であるとか、新鮮だ、美しい、まっさらだということではなく、これまでとは異なることを表すのではないかと思います。「新しい」天と地に対する古い天と地とは、今のこの世を表すのでしょう。今のこの世に終わりと滅びがもたらされるということです。小アジアに吹き荒れている迫害の嵐、流されてきた血、悲惨な仕方での愛する者の喪失に通じる苦しみ、恐怖を抱えている今の世に、終わりがもたらされるということです。人間の中に澱んでいる罪の力が生み出し、汚し、歪めてきた世の諸相に、滅びがもたらされるということです。それら古いもの、最初のものは過ぎ去り、もはや海も無いと言われます。海はここで、神さまに抗う力を現わしています。終わりの時にはそれら古いものの延長線上には無いもの、天からのもの、新しいものが与えられるのだと。これまでも神さまは地上の神の民に、天の国を映し出す出来事をもたらしてこられました。とりわけクリスマスの晩に、主イエスの生涯に、ゴルゴタの丘に、イースターの朝に、ペンテコステの日に、人が造り出すことのできないみ業を地上で、人々の間で、出来事としてこられました。その主が、全てのものを新しくすると宣言されます。終わりの時、キリストの十字架の贖いによって与えられた新しい命に生きる、新しい天と地が与えられるのです。

 

 この終わりの時に神の民にもたらされる喜びを、今日の箇所は、婚約者のために支度を整え、神さまのもとから地上へと下ってくる花嫁のイメージで表します。更に天の玉座から主が、この喜びがどのようなものであるのか語られます。黙示録で玉座から語られる方は、神さまと言われる時もあればキリストと言われる時もあります。主は、神さまが人々の間に住まわれ、人々は神の民となると告げます。このことも旧約聖書の時代以来、古代イスラエルの民に告げられてきた恵みです。古代イスラエルの民を源として、あらゆる民に神さまの祝福がもたらされることも約束されてきました。ここで「民」と訳されている言葉は複数形です。神さまが約束されたように、イスラエルの民だけでなくあらゆる民にこの恵みが与えられます。旧約聖書の時代には幕屋において、神さまが人々と共におられることが示されました。神の独り子は世に降られ、人々の間に宿ってくださり、復活された主は聖霊において人々と共にいてくださいます。主が共におられる、目には見えないこの恵みは、終わりの時に明らかになります。神さまのもとから離れ出たままの死を人々にもたらしてきた罪が完全に滅ぼされ、神さまから離れてしまっているが故に癒されない悲しみ、嘆き、痛みを味わって来た人々は、キリストに涙を拭っていただくのだと、最初のものが過ぎ去ったことが明らかにされるからだと、告げられます。この文書の書き手であるヨハネ自身、信仰の仲間たちが迫害によって苦しめられ、傷つけられ、愛する者の命を奪われる出来事に涙を流し、人々の悲痛な思いに胸を痛めてきたことでしょう。言葉を尽くしても癒しきれない人々の深い悲しみの前に、拭っても、拭っても、拭いきれない人々の涙に、自分がいかに無力であるのか思い知らされることもあったでしょう。そのヨハネが、終わりの時にはキリストが人々の目から涙をことごとく拭い去ってくださるとの言葉を天から与えられ、その言葉を人々に告げる者とされているのです。

 

 玉座から主は更に先ほどの「見よ、私は万物を新しくする」との言葉を告げ、「乾いている者には、命の水の泉から値無しに飲ませよう」と続けます。主イエスがサマリアの婦人に言われた言葉が思い起こされます。主は「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ414)と語られました。そして、神さまから与えられた命に生き生きと生きることを求め続け、渇いている者のために、十字架でご自分の命を捨ててくださいました。このキリストの命の値によって、私たちの「値無しに」命の水が与えられます。尽きることなく湧き出で続ける神さまの救いが与えられます。私たちが願う前に、願うことすらできない私たちに、ただ神さまから与えられた恵みです。泉には乾いた者がそこに辿り着く前から水こんこんと湧き出で、水が湛えられているように、先ず神さまが私たちを愛し、私たちを赦し、独り子を世に与えてくださったことによってもたらされる罪の赦しと新しい命であります。渇いていることを受け入れられず、直ぐ再び渇いてしまう他のもので自分を満たそうとし、臆病であること、不信仰であること、忌まわしいことといった、最後に記されている事柄をそれで良いのだとしてしまうのではなく、神さまを求め、神さまからの救いに渇き続ける者に、命の水を神さまは備えてくださっているのです。

 

 私たちが今日ここから踏み出し、始まる日々の先には、この終わりの時が約束されています。終わりの時に約束されている恵みから、今この時の私たちの歩みにも、喜びがもたらされています。罪に囚われたままの死で命も生涯も呑み込まれてしまうのではないことを告げられている安らぎが、今日の私たちの時にももたらされています。主に従うことを願う私たちが、今私たちが直面し、私たちの歩みを揺さぶっている苦難も、私たちが味わっている死も、悲しみも、嘆きも、痛みも、私たちが生きて、死んでいく歩みを虚しくさせることはできないのだと、確信を与えられます。先のことが分からない、明日のことすら見通すことのできない私たちではありますが、過ぎ去ってしまうものは何であるのか、今は目に見えなくても過ぎ去らないものは何であるのか、誰もことごとく拭うことはできない涙を本当に拭い去ることができる方はどなたなのか、私たちの生涯と死を本当に支配しておられるのはどなたなのか、天の玉座に座しておられる真の王はどのような方なのか、見つめる内なる目は、聖書の言葉によって導かれます。先は見えなくとも、イエス・キリストを見つめる限り、どのような力も私たちの日々から恵みと平安を奪うことはできないのです。