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命の冠を授かる

「命の冠を授かる」マラキ314~18、ヤコブ11215

202424日(左近深恵子)

 

 本日はヤコブの手紙の言葉に耳を傾けました。この手紙は離散しているキリスト者たちに宛てて書かれています。教会が力を持っている地域や国ではなく、キリスト者が全くのマイノリティーである社会、キリスト教とは異なるものによって社会や文化が成り立ってきたところで、キリスト者がどのように信仰を守って生活するのか、手紙を通して語り掛けています。その意味でこの手紙は、私たちに宛てて書かれているとも言えます。

 

 キリスト者として生きることへの理解が乏しい社会で、信仰を守って生活していくことの困難さは多々あります。この手紙が最も力を入れて呼び掛けるのは、主に立ち帰ることです。教会の人々が、神さまのご意志よりも、社会の物差しを重んじてしまっていること、キリスト者として本来あるべき姿を失ってしまっていることに気づかせ、主に再び出会い直し、主から与えられているものを新たに受け留めるように、呼び掛けます。

 

この手紙には「試練」や「誘惑」という言葉が幾度も登場します。今日読まれた箇所にも、この二つの言葉が登場していました。試練や誘惑と聞いて私たちが思い浮かべるもの、それぞれについてイメージするものは様々でしょう。では聖書においてこれらの言葉はどのように用いられているのでしょうか。どのように使い分けされているのでしょうか。そのことについて色々な説明がなされています。ただ少しややこしいのは、新約聖書で試練、誘惑、こころみなどと訳されている表現は、元の言葉が同じであるということです。同じ言葉を文脈によって、試練と訳したり誘惑と訳したりしています。人が信仰に生きることを鍛えるもの、人が信仰に生きていることを実証させるものとして用いられているなら試練と訳し、人を信仰に生きることから離れさせるものとして用いられているなら誘惑と訳されると言えるでしょう。語源が同じ言葉によって試練も誘惑も表現されているということは、なるほどと思わされるところもあります。自分を揺さぶるような事態に直面した時、これは試練だ、これは誘惑だと、私たちの側ではっきりと線を引くことは難しいものではないでしょうか。試練とも言えるし誘惑とも言える、そのようなことが多いのではないでしょうか。

 

暮らしの日々の中で、キリスト者として生きることが揺さぶられている人々に語り掛けるこの手紙は、自分の何が揺さぶられているのか見つめることへと導きます。この手紙で試練は、社会の価値観に信仰の足元を揺さぶられることを意味します。社会の価値観とキリストに従う生き方の間に何も乖離がなければ揺さぶられることはないでしょう。世の常識とされていることと、十戒やキリストの教えで、前提はともかくとして表面的に求められることが重なるということもあるでしょう。しかしキリスト教の考え方が土壌に無い社会で、様々な人が自分の力を誇る世にあって、神さまのみを神とし、善なる方はただお一人神さまであるとし、神さまを礼拝することを生活の中心にして暮らして行こうとするなら、何も判断を問われることが無い、無風のような日々とはどうしても行かないものでしょう。どうするのかと揺さぶられ、判断を問われる、その局面で、神さまのご意志に従うよりも社会の物差しを重んじてしまうことを、この手紙は誘惑と呼びます。揺さぶられる試練の中で、誘惑が口を開けて待ち構えている、その誘惑に引きずられないようにと、呼び掛けるのです。

 

引きずられないように足を踏ん張って忍耐すること、耐え忍ぶことを、手紙は冒頭から今日の箇所の直前まで呼び掛けてきました。今日の箇所でも試練を耐え忍ぶことを説きます。この手紙は、誘惑に引きずられている人々の姿に強い危機感を覚えています。この試練をいつまで耐えれば良いのか先が見えない中で、神さまのご意志に踏み留まることの困難さ、引きずられてしまう弱さを誰もが抱えているから、手紙の書き手もそれがどんなに危機的なことなのか、分かるのでしょう。揺さぶられているこの時も神さまが共にいてくださっている、支えてくださっている、必要な助けを与えてくださっている、そのことを自分にも、世の人々にも明らかな仕方で示されるならば、神さまのご意志に固く立ち続けることはもっと容易いでしょう。現実の社会で、キリストの十字架と復活による救いを信じない人々の発する声の方が大きく、そのような声の方がまかり通り、そのような人々の方が社会的に成功を治めているように見える時、神さまはおられないのではないか、神さまは助けを与えてくださらないのではないか、何故この自分が、何故この人が、との思いが自分の内で大きくなってゆくということが起こり得るでしょう。

 

揺さぶられていることを自覚しないほど、社会の価値観が自分の価値観となってしまっているということもあるかもしれません。神さまのご意志に立とうと踏ん張ることが無ければ、社会の流れという風に流されるままで、揺さぶられることもありません。この手紙は神さまのご意志に信頼を置かなくなってしまっている人を16で、「風に吹かれて揺れ動く海の波」に譬えています。世の評価は一定ではなく、海の波のように風向きが変われば流れが変わります。この風に流され、揺るぎない拠り所を見失っているのに、場合によっては試練に遭っていることも誘惑に引きずられていることも気づかないまま、神さまのご意志から離れ出て、彷徨っている人々の姿を厳しく見つめています。試練や誘惑は、自分自身を神さまのみ前に置かなければ本当のところは分からない、神さまのご意志に立ち続けようと踏ん張らなければ分からないところがあるでしょう。

 

先ほど共にお聞きしましたマラキ書にも、困難な状況で神さまが共におられることに揺らぎ、悪を行う者が結局は力を持つのではないかという思いに呑み込まれている人々の主張が記されていました。「神さまに仕えることは空しい。その務めを守っても、また万軍の主の前を嘆きつつ歩いても、何の益があろうか。今こそ、我々は傲慢な者を幸せな者と呼ぼう。彼らは悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れている」(マラキ31415)との主張は、時代を超えて私たちにも響くところがあるのではないでしょうか。このような主張に共鳴せずにはいられない、引き寄せられずにはいられない自分の思いに、私たちは気づかされるのではないでしょうか。

 

けれど神さまはご自分を畏れる者たちのことを決して忘れず、神さまの書に留めてくださるとマラキ書は述べます。どんな世の力よりも主を畏れる者たちの会話は、耳を傾けて聴いておられる神さまに聞かれています。終わりの時に、神さまを畏れる人々は神さまの宝となると約束されます。今は何が幸せなのか、何が幸いなのか、明らかになっていないけれど、終わりの時に神さまのご意志に仕えて歩む者たちに神さまが注いで来られたみ心が、誰の目にも明らかになることが告げられます。

 

ヤコブの手紙も、誘惑に陥っている人々に強い危機感を抱きながらも、人々に何が幸いであるのか告げます。12節で人々に「幸いです」と語り掛けます。マタイによる福音書第5章、「山上の説教」「山上の垂訓」と呼ばれる、主イエスが群衆に語られた教えの冒頭で、主が「幸いである」という言葉を繰り返されます。この主の呼びかけと同じ言葉が、この手紙でも呼び掛けられます。マタイの主イエスの言葉も元の文章は「幸いである」と言う言葉から始まりますが、このヤコブの手紙の12節も元の文章は「幸いです」という言葉から始まります。力を込めて伝えようとしているのは先ず、何が幸いなのかです。危機的な状況にある人々に「幸いです」と述べて、真の幸いを伝えようとしています。続けて「試練を耐え忍ぶ人は」と言い、その後に「なぜならばその人は命の冠を受けるにふさわしいと認められるからであり、その命の冠は、神を愛する者たちに神が約束されたものです」と述べます。試練に揺さぶられている人々、試練に揺さぶられていることに気づかないまま時流に流されている人々に、人からは受けることのできないこのように素晴らしい幸いが神さまから約束されているのだと、呼び掛けます。

 

真の幸いとは、神さまがご自分を愛する人に約束された命の冠を授かるにふさわしいと神さまから認められること、その約束に生きることであります。冠と言う言葉で思い起こすのは、パウロの言葉です。Ⅰコリントにこのようなパウロの言葉があります、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちは、皆走っても、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです。」(Ⅰコリ9:24~25)。世の競技では走った人々の内、冠を授けられるのは、最も早く走ることができたたった一人です。節制を重ねてようやく掴み取ったその素晴らしい冠も、永久に価値を持ち続けられるものではありません。けれど、福音のために生きるキリスト者たちには皆、神さまから冠が約束されています。神さまのご意志に生き続けるために闘いながら前へと進み続けるキリスト者たちには、永久に朽ちることのない朽ちない冠が約束されているのです。もう一か所、黙示録にも冠が出てきます。「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試すために、あなたがたのうちのある者を牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、10日の間、苦しみを受けるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙2:10)。まさに「命の冠」という言葉が登場し、苦難に直面している人々にに「苦難を決して恐れてはならない」と語り、「悪魔が試す」と述べられる、ヤコブの手紙と重なるところの多い箇所です。私たちがこの目で見届けられるのは、自分の生涯という時間の中だけのことでありますが、キリストによって罪赦された者として、主イエスこそ救い主であること、主イエスこそ真の王であることに信頼し続ける私たちの奮闘は、死によって水の泡となってしまうのではありません。ヤコブの手紙はこの先の2:5で、世の物差しに拠って人を分け隔てしてしまっている手紙の受け取り手たちに、「私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい」と呼びかけ「神は、ご自分を愛する者に約束されたみ国を、受け継ぐ者と為さったではありませんか」と述べています。終わりの時に完成される神さまのみ国、つまり神さまのご支配を受け継ぐ者であるかどうかは、人々が互いを分けて隔ててしまっている基準によるのではありません。神さまを愛し、神さまに信頼する信仰に踏みとどまり、試練にあって信仰に生きていることの真価を発揮する者に、命の冠を約束しておられるのです。

 

真の幸いが神さまから与えられています。神さまが与えてくださっている約束が、私たちの歩みに確信を与えてくれます。確信が、試練を耐え忍ぼうとする思いを支え、踏み留まろうとする歩みを力づけます。誘惑に引きずられてしまう自分自身など見つめたくないし、認めたくありませんが、神さまから与えられている確信に力づけられ、誘惑に引きずられる自分を見つめることへと背中を押されます。自分の悲惨な状態を恐れるよりも、その自分をみ子の命をもって赦してくださり、み子の復活によってご自分に結び付けてくださった神さまを、畏れることへと導かれます。

 

神さまのご意志に従うよりも、世の価値観を重んじてしまうことを、あれこれ言い訳しようとしたり、自分が誘惑に引きずられてしまった責任を他者に押し付け、神さまに押し付け、自分をただ被害者であるかのように思いたがったり、誘惑に引きずられていることを明らかにされる神さまに背を向けて、それ以上のやり取りを断とうとしてしまう人間の姿は、旧約聖書にも新約聖書にも多く描かれています。そのような私たちに対してヤコブの手紙は、誰も神から誘惑されていると言ってはならないと、神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、ご自分でも人を誘惑したりなさらないからだと。責任を神さまに押し付けることも、他の誰かに押し付けることもできない。寧ろ人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのだと述べます。信仰に生きることを揺さぶる試練の中で、神さまのご意志に従う生活を送ろうとする思いよりも、自己本位な欲に自分が支配されてしまう、そうして誘惑に陥ってしまうのだと。「自分の欲望に引かれ」と訳されている箇所は直訳すると、「自分の欲望によって外に引きずり出される」となります。「おびき寄せられ」と訳されている言葉には、餌でおびき寄せる、餌で釣るという意味があります。神さまのご意志に沿って生きようとする生き方から外へとその人を引きずり出し、餌に釣られてしまう元凶は、その人自身の欲です。その欲が罪を生み出し、罪が熟して死を生み出すのだと、自分の欲と、自分の欲が生み出した罪に支配されたまま死んでゆくことになるのだと告げます。見つめたくない、認めたくない私たちの実態を明らかにし、幸いな生き方へと立ち返るように強く呼び掛けているのです。

 

 

私たちの歩みを惑わす様々な欲があります。どんな欲によって惑わされているか、到底人前では言えないような欲が私たちにはあります。これは神さまと私たち一人一人との間の事柄です。この私たちを立ち返らせることができるのは、私たちの罪のために独り子の命までも世に与えてくださった神さまです。私たちがどんなに誘惑に弱い者であるのかご存知で、だからこそ「我らをこころみや誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」との祈りを教えてくださり、先ずご自身がこの祈りを祈ってくださったイエス・キリスト、最後の晩餐を終えてゲッセマネの園に向かわれる時に、弟子のペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ223132)と言われたキリスト、ゲッセマネの園で「誘惑に陥らないように祈りなさい」と弟子たちに繰り返し告げられ、それでも祈ることができずに眠ってしまった弟子たちの近くで、ご自身は苦しみ悶えながら、祈れない彼らのためにも祈り続けられたキリストです。弱くない人などいません。私たちにできることは、信仰に立ち続けることが揺さぶられる時、信仰の目でキリストを見つめ続けることです。キリストのご生涯に、その言葉に、十字架の死と復活に、目を注ぐことであります。そうして、キリストの後に続いて、私たちを誘惑にあわせず、悪より救い出してくださいと、祈るのです。