讃美歌249番に「われ罪人の頭なれども」で始まる歌があります。「われ罪人のかしらなれども、主はわがために、生命を捨てて、尽きぬいのちを与え給えり」 先ほど読まれたテモテへの第一の手紙の言葉が元になって、生み出された讃美歌です。今日の箇所は、これまでにも読む者たちの魂に迫って、信仰を呼び覚まし、意識の底に沈んでいた恵みの記憶に光をあてて、改めてにじみ出る思いに気づかせてきた、大事な言葉が散りばめられています。
そもそもこの手紙は、パウロが最も信頼する弟子の一人テモテに宛てたものという体裁をとってはおりますが、2人の間の個人的なやり取りのためだけではないことは手紙の最後に「恵みがあなた方と共にありますように」と書かれていることからもわかります。むしろ、教会の要となる信仰を、この手紙を回覧するすべての人たちに思い起こさせるための一つのスタイルとして「手紙」の様式がとられているのです。そのため、テモテへの第二の手紙、テトスへの手紙と併せて「牧会書簡」とも呼ばれてきました。読む人たちが、この手紙を紐解くたびに、教会が大事に伝えてきたイエス・キリストの救いを、まざまざと味わい、慰められ、励まされ、正されることになる。そうやって何世代にもわたって読み継がれる間に、讃美が歌となって湧き上がるということにもなったと言えます。
今日は、読み手が、思わず立ち止まらされるであろう3つの言葉を取り上げながら、イエスキリストと出会う恵みの味わいを一つ一つ噛みしめてまいりたいと思います。
まず13節の「信じていない時に知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」とあります。一見すると、何とも都合のいい話をしているかのように感じられるかもしれません。過失であって故意ではないから、と言い訳しているようにもとられかねません。ただ、聖書の別の箇所とあわせて読んでみると、深い感謝に打ち震えんばかりの思いが吐露された言葉だということが伝わります。それはルカによる福音書で、十字架につけた主イエスをあざ笑い、侮辱し、いたぶり、世に来た光をかき消して、抹殺してでも闇の居心地の温さに浸る人たちに取り囲まれながら「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか分からないのです」と十字架で裂かれる苦悶の極みでなお執り成しの祈りをされたことを思い起こさせるのです。十字架にかけられ、釘打たれた主が「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らずにいるのです」と祈られたことを、この手紙は、まさにこの私のことと受け止めながら、かつて正しいことをしていると信じ込んで、キリストの新しい息吹から顔を背けて、自分の信奉する正義を振りかざして、自らの思い描く神の名を楯に、その独り子であるキリストを冒涜し、誹謗し、迫害し、暴力的に闘いを挑み、神に成り代わって裁いていた、どうしようもなく傲慢な者だったけれど、何をしているのか知らずに行っていた私を、十字架による赦しと憐れみに加えてくださったのだ、と。御子の命を賭した憐れみがあって赦されたのだ、と。「キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に不敬虔な者のために死んでくださいました。・・・私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」ローマ5:6で語られたこととも響きあっていることに思い至らせるのです。ここにこそ溢れんばかりのキリストの信仰と愛が充ち満ちているではないか、と語らずにはおれないのは、そのためです。
続いて、冒頭の言葉に戻ります。原文ではまず「感謝しています」、直訳すれば「恵みを、私は抱きしめています」と書き出されています。どんな恵みを抱きしめているのか、何を感謝しているのか。それは、私を強めてくださったイエスキリストに感謝している、私を忠実な者とみなしてくださった主に、奉仕の務めに就けてくださった主の恵みに感謝している、というのです。特にその中で「忠実な者と見なしてくださった」という言い方にふと立ち止まらされます。ここには大事な教会の信仰が言い表されています。忠実な者とみなされて、ということは、本当は忠実ではないのに、実際はそうではないにもかかわらず、そうと認められた、あり得ないことが起きている、という驚きを含んだ言い回しです。この忠実と訳されている語は、真実な、あるいは信仰深い、という意味もあります。信仰深い真実なるものと見なされた、本当はそうではないのに、と。ここで手紙は、信仰深さや主への真実、忠実さは主イエスキリストによって認められるものであることをはっきり語っています。自分で信仰が薄いかどうか、篤いかどうか、誰かの信仰が浅いのか深いのか、本当のところ判断はできない。ややもすると信仰というと、どうも自分の内がわから湧き出てくる力のように考えがちなので、それを自分の勝手な物差しで測れると思ってしまうのですが、それが思い込みや勘違いとどう違うのか分からなくなるかもしれない、あやふやな危うさにもつながってゆく。聖書では、信仰はむしろ与えられるもの、主導権はキリストにある、と考えられてきました。神によって義とされる、正しいと認められる、義認といういい方にもそれはあらわされます。神が義と認める、主イエスが忠実なものと見なしてくださった。それでいいのです。神様が義と認められ、主イエスが忠実なる者よとおっしゃるのならば、そうなのです。
たとえばこんな話がありました。半身不随の友人を床に載せて他人の家の屋根を破ってイエスキリストの居られるあたりに釣りおろした友人たちがどのような信仰を持っていたのか分かりません。ただ主イエスが彼らの信仰を認められた(ルカ5:17-26)。あるいは、願いが聞き入れられなくても食らいつき、主イエスの行く手とご計画に立ちはだかって「子犬だって食卓からこぼれ落ちるパンくずはいただきます」と主イエスに食い下がったカナンの女性についても、「あなたの信仰は立派だ」と認められた(マタイ15:21-28)。十字架に引き渡される主イエスを見捨てて逃げ、呪いの言葉さえ吐きながら関係を否んで忠実さも真実も信仰のかけらさえも失うことになるペテロに「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈ったよ、だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と信仰の灯を祈りをもって点されたのも主イエスでした(ルカ22:31-34)。私の当てにならない確かさ、忠実さではなく、あるいは内なる信念や志でもなくて、ましてや思い込みや思い違いでもなくて、主イエスキリストの真実、信仰を与えられたものと、当の主イエスご自身が見なしてくださっている。そして主の大事な務め(ディアコニア)の担い手として任じておられるのだ、と手紙は語ります。
今日共に聞いた旧約聖書、イザヤが預言者に召された場面でも、神殿で祈っていたイザヤが神とお会いした時に、「ああ、災いだ。/私は汚れた唇の者/私は汚れた唇の民の中に住んでいる者」と告白せざるを得なかった。これは神の前に全くもってふさわしくないことを深く示されて打ちのめされたものの言葉です。預言者自身も罪人のただ中で自らも罪の現実に打ちのめされている。それでもその罪を覆って、「誰を遣わそうか、誰が私たちのために行ってくれるだろうか」と破れに引き裂かれて滅び瀕した世界に神の言葉を携え、罪からの救いを語るものとして遣わす御業に召されたことをイザヤは語っているのです。
第3番目の言葉は、この罪人を義と認めて務めを与える神の御業について、その根拠を語ってゆきます。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です」と。聞く者は、読む者はここで、イエスキリストが「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)とザアカイの家でおっしゃったことを思い起こすかもしれません。あるいは、収税所に座っていたレビを弟子の一人とされた後にレビの家に招かれた大勢のレビの同業者たちと食卓を囲んだ時に、なんであんな輩たちと一緒に食事しているんだ、という冷たい言葉の刃と侮蔑の視線を投げつけられて、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃった場面(マルコ2:13以下)を思いだすかもしれません。罪人というのは聖書では、何かをやらかしてしまった人という意味ではなくて、神との関係に破れている状態にある人のことです。要するに多かれ少なかれ誰しも神の前に正しく生きられない以上「義人はいない、一人としていない」という詩編の詩人の透徹した人間理解(詩14編。ロマ書3:10に引用)に行きつくことになります。その罪人、すなわち私たち全てに関わる救いをもたらすために、罪という自分でどうこうなるものではないほどの支払いきれない債務を肩代わりし、棒引きして、罪の軛に首の回らなくなっている私たちを、縄目といて自由の身に解き放つために来られた、『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します」と語るのです。これゆえにザアカイが喜びにはじけたことを知っている。弟子となったレビが身をもって証した真実を知っている。わたしたちもザアカイの喜び、レビの出会いに招かれたのだ、と。そして、手紙の書き手は続けます「私は、その罪人の頭です」と。ザアカイにもレビにもまして破れの極みにあるのだと。文法的には、かつてそうだったと言っているのではなくて、今も「その罪人の筆頭です」と。多くの罪を赦された者、キリストの救いの深みに触れた者ゆえに染み通る恵みに日々打ち震えながらなされる告白と言えるでしょう。今なお罪人の頭でありながら、同時に義人と認められている、キリストの贖いゆえに、と。それがどんなに驚くべきことか。キリストが先立って示された寛容と赦しによって、罪人であって同時に義人として生かされる者の見本とされているとは、と。讃美歌249番の3節は、この驚きを歌います「妙にも尊き、御慈しみや、求めず知らず過ごししうちに、主はまず我を認め給えり」そして4節で「思えばかかる罪人われを、探し求めて、救い給いし、主の恵みは、かぎりなきかな」と讃美しています。
2024年、北陸を襲った震災、また世界を引き裂く戦乱の世にあって、私たちを覆う悲しみと破れと腐敗と不信の中に、執り成しの祈りを託された者として、忠実なるものと見なされたものとして、み言葉携え歩みゆく務めを一歩一歩刻んでまいりましょう。