2023.8.20.主日礼拝
イザヤ43:23-25、ヨハネ13:21-30
「裏切りの向こう側」浅原一泰
イザヤ43:23-25
あなたは焼き尽くすいけにえの羊を私のもとに引いて来ることもなく、あなたのいけにえで私を崇めることもなかった。私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも、乳香であなたを疲れさせることもしなかった。あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなく、いけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。かえって、あなたの罪で私に労苦させ、あなたの過ちで私を疲れさせた。私、この私は、私自身のためにあなたの背きの罪を消し去り、あなたの罪を思い起こすことはない。
ヨハネ13:21-30
イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、証しして言われた。「よくよく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」弟子たちは、誰のことを言われたのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子の一人で、イエスの愛しておられた者が席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸元によりかかったまま、「主よ、誰のことですか」と言うと、イエスは、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」とお答えになった。それから、パン切れを浸して取り、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。ユダがパン切れを受けるや否や、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた。座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
先週日曜の朝のNHK-BSで78年前のビルマ戦線のドキュメンタリーが放映されていた。日本が占領していたラングーンという町に現地のビルマ軍とイギリス軍が攻め寄せて来る。日本の司令部は部下たちと民間人に「ラングーンを死守せよ」と命令を下す。しかし自分たちは飛行機に乗ってとっとと国境付近の安全な場所に避難した。部下たちを励まし国民の命を守るためにあるのが司令部であったとしたら、これを裏切りと言わずして何といえばいいのか。これも氷山の一角に過ぎず、戦争中はこのようなことが五万と繰り返された筈だ。アメリカ軍の攻撃を沖縄のみに押しつけた日本国大本営も政治家たちも同じことをしていた。
裏切りは、人間社会の中で初めから繰り返されてきた。裏切る側の気持ちは正直、よく分からないのだが、裏切られた側は実に不愉快で惨めな、やるせない気持ちになる。
さて、イエスに12人の弟子がいたことはよく知られている。中でも最もインパクトのある弟子の名前はイスカリオテのユダではないかと思う。マタイ、マルコ、ルカの福音書それぞれに12人の弟子のリストが出て来るが、その書き方は決まっている。最初はペトロから始まり、最後は必ずイスカリオテのユダで終わっている。しかも必ずこの言葉が付け加えられて締めくくられる。「このユダがイエスを裏切ったのである。」
確かにユダはイエスを憎む祭司長たちや剣や棒をもった群衆を引き連れてイエスに近寄って来る。前もって彼らに「私が接吻するのがその人だ、それを捕まえろ」と指示を下し、ユダがイエスに接吻するや否や、群衆はイエスに襲いかかって捕えた、と福音書は伝えている。そうしてユダはイエスを敵の手に引き渡した。その後イエスは裁判にかけられ、民衆からは嘲笑われ、ローマ兵からは唾吐きかけられて十字架刑に処された。
なぜユダはイエスを裏切ったのか。そうする代わりにユダは銀貨30枚を手にしたという聖書の記事もあるし、先ほどのヨハネ福音書にも「ユダが金入れを預かっていた」とあるので、金銭的な理由で彼はイエスを裏切ったと思われがちだが、本当のところはよく分からない。この後にユダは後悔して自殺したとか、事故で実に悲惨な死に方をしたと書かれていることから、世界中の教会もクリスチャンも、「決してユダのようになってはならない」、「ああなってしまったらおしまいだ」と思っている。教会の皆さんも、もし誰かから「あなたはユダみたいですね」と言われたらきっと嫌な気がするのではないかと思う。それほどまで聖書の中で忌み嫌われている登場人物、それがこのイスカリオテのユダである。
しかし敢えて申し上げたい。皆さんも私も、人類すべてがユダのような部分を持っている。裏切り。それは、人の信頼を踏みにじる行為と言って良いだろう。親子、兄弟から始まり、友人、知人、恋人、夫婦へと広がる人間関係の歴史の中で、人からの信頼にすべて答えて来た、と言える人間がどれだけいるだろうか。一度たりとも裏切ったことはない、と断言できる人がいるだろうか。いないと思う。そんな我々が、ユダがなぜ裏切ったのか、などと詮索したところで意味はない。むしろ今日は、このユダの裏切りをイエス自身はどう受け止めたのか、そこに目を向けてみたい。先ほどの聖書では、イエスが激しく心を騒がせていた。理由はイエスのこの言葉にあった。「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」。弟子の中にイエスの信頼を踏みにじる者がいるのを知って、さすがのイエスも平然としてはいられなかったわけだ。他の弟子は誰のことなのか全く分かっていなかったが、イエスは27節のところでユダにこう言った。「しようとしていることを、今すぐするがよい」。
裏切られると分かってそれを阻止するのではなく、その相手に逆に攻撃を仕掛けるわけでもなく、敢えて裏切らせる。イエスがユダにしたことはそれである。「裏切りの向こう側」という今日の説教題が捜し求めているものがそこにある。
ユダがしたこと。それはここぞと言う時に神ではなく自分を選んだ、ということだ。自分の人生は自分で決めたい、人に支配されたくない、神に対しても完全にその言いなりにはなりたくない、ということだ。どうだろう。そうであれば皆さんの中にもユダ的な部分がないとは言えないのではないか。教会の人たちに聞きたい。完全に神に従えているか。神からの信頼に常に応えて来たと言えるか。無理だと思う。「神を信じている」と言っても、常に自分の中には、その神に逆らい、自分の思い通りに生きたい、自分が自分の人生の主役でいたい、という思いがむらむらと湧いて出て来るからだ。その思いは消えないし、どうやったって消すことはできない。クリスチャンだからと言って完全に神に従えているわけではないことを高校生たちも知って欲しい。宿題がなければ君たちが教会に来ようとも思わない、というのももっともなことなのだ。ただ、そういうクリスチャンや君たちを、こんな牧師である私をイエスは赦している。ユダのこともイエスは赦していた。この時、今まではイエスに従ったけれどもこれ以上は無理だ、とユダは自分で判断した。そしてイエスを裏切る思いを強めた。しかしイエスは裏切るユダを受け入れた。「しようとしていることを今すぐするがよい」、そう言ってユダを赦した。その結果、何が起こったのか。その答えがこの福音書の初め、1:5に書かれている。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」。光とは、世にある全ての者を愛して止まない神の思いであり、その思いを我々に伝えるために二千年前、神が世に遣わされたイエス・キリストのことである。一方闇とは、その神に背こうとする人間の思いである。その闇は光に勝つことは出来ず、光は闇の中でも輝き続ける、ということだ。また、ローマ5:20はこう告げている。「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」。一体どういうことだろう。なぜそれが答えなのだろう。
イエスは、またイエスを世に遣わした神は、ユダと言う人間の側からの反抗を、それを実現させるためのユダの裏切り行為を受け止めなければならなかった、イエスは死に渡されなければならなかった、ということだ。十字架に、どうしてもあの十字架に、神の御子イエスはつけられなければならなかったのである。何故ならそれは、悪に走り、たとえ人を傷つけることになっても自分の欲を満たしたい、そんな生き方しか出来ない人類全てに向けられる神の怒りの裁きを、神の御子イエスが代わりに受けるためであった。ユダだけではない。命ある者すべてが今も昔も、神に背を向けて世に生まれ、自分の思いのままに生きようとする。そうして神を裏切り続けて来た。であれば誰一人として神の裁きを逃れられる者などいない。ではなぜ、その裁きを、神の独り子にして神を裏切る筈もないイエスが代わりに受けたのか。それは、神の裁きがもたらす苦しみが想像を絶する苦しみだからである。それに耐えられる人間など一人もいないからである。アウシュヴィッツでユダヤ人が受けた苦しみをも、広島や長崎の方々が78年前の8月に受けた苦しみをも、人類が経験するかもしれないいかなる悲惨な苦しみをも、神がイエスに負わせた十字架の苦しみを越えるものではなかった。それほどの苦しみをイエスが受け止めたからこそ我々は苦しまなくて良いのであり、そのためにイエスは進んで苦しまれたのであり、それほどの苦しみを神はイエスに、そしてご自分に背負わせてまでして全ての人を赦している。ではアウシュビッツのユダヤ人の苦しみは何だったのか。広島、長崎の被爆者たちの苦しみは何だったのか。イエスは彼らの為にも、彼らと共に、しかも彼ら以上の苦しみを背負っていた。そうすることでイエスは彼ら一人一人を励まし、支え、彼ら一人一人のために涙を流して彼らを憐れみ、腸を動かされていた。ウクライナで苦しみと向き合いつつ平和を願う人々も、そして他の災害や迫害、戦争、病に苦しむ一人一人も、イエスがそれ以上の苦しみを十字架で背負っているがゆえに、神は一人一人を赦している。その神に生かされている。ここにいる皆さん一人一人も、自分では決して背負うことも耐えることも出来ない苦しみを代わって背負うイエスに見守られ、祈り支えられて今、生かされている。だとしたら、皆さんは何を思うか。
先ほどの旧約、イザヤ43章にこう書かれていた。「あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなく、いけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。かえって、あなたの罪で私に労苦させ、あなたの過ちで私を疲れさせた。私、この私は、私自身のためにあなたの背きの罪を消し去り、あなたの罪を思い起こすことはない」。そのために神はイエスと言う人間の姿形を取って世に来られた。そのためにイエスは我々の背きの罪の身代わりに自ら十字架にかかった。ただそのことは、ユダの裏切りがなければ始まらなかったのである。ユダの裏切りを、イエスは、イエスを通して神は、そのために使ったのである。「しようとしていることを、今すぐするがよい」。このイエスの言葉の重みを分かってもらえるだろうか。神を裏切り、愛に生きられず、人を憎み、責める生き方しか出来なくなっていた我々を、裏切るユダをももう一度神の似姿たる本来の人間の姿へと回復させるために、イエスは自らをユダに引き渡した。これほどまで深く、強く、終わりなく果てしなく人間全てを愛することがイエス以外の誰に出来るだろう。「裏切りの向こう側」にあったものとはまさしくこのイエスの愛であり、神の愛であり、福音だと思うのである。
ローマ8:32にこういう言葉がある。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか」。「御子をさえ惜しまず死に渡された」というのは、実は「御子をさえ惜しまず死へと『裏切らせた』」という言葉である。それが、ユダの裏切りの向こう側に広がる神の愛である。ただ、我々は何も感じることが出来ない。何度同じことを聞かされてもクリスチャンも気づくことが出来ない。心に蓋を閉めて自分で自分の思い通りに生きよう、とする思いを、願いを、欲望を我々は死ぬまで捨てることが出来ない。イエスを通して、惜しみない愛を差し伸べ続ける神と、その愛を受け止められず、気づこうともしない我々人間との間には、底が見えない程の深い溝がある。それが現実だ。しかし、だからこそ神は世の教会を通して、或いはミッションスクールを通して、世にある人間を礼拝へと招き続けることを決して止めない。たとえ死ぬ時が訪れたとしても、その人を神のもとへと送る葬儀、葬りの営みを神は必ず、礼拝という形で教会に行わせるのである。高校生たちには将来がある。欲望かもしれない自分の願いを叶えるために将来があるのではなく、神は君たちと出会うために、君たちとの間に広がる底が見えないあの溝を必ずや埋めるために、君たちの将来において待ち続けている。今も、これからも、君たち一人一人を礼拝へと招こうとしている。
いや、俺はユダでいい、神を知らないままでいい、と思う人はいる。しかしイエスは、裏切ったまま死の眠りに就いたユダのところにも、否、彼のためにこそイエスは陰府にまで下って救いの言葉を、福音を、語り掛け続けている。「光は闇の中で輝いている。闇はこれに勝たなかった。」「罪の増し加わるところには、恵みはなおいっそう満ち溢れる。」それが福音という神の惜しみない愛である。皆さん一人一人の将来においても、世界中の人類の将来においても、そのことが必ずや実現される日が来ることを信じて祈りたい。