2023.7.30.主日礼拝
エレミヤ28:10-14、マタイ4:5-7
「主を試してはならない」浅原一泰
すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛の横木を外して、打ち砕いた。そして、ハナンヤはすべての民の前で言った。「主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、すべての国民の首からバビロンの王ネブカドネツァルの軛を外して打ち砕く。」そして、預言者エレミヤは立ち去った。
預言者ハナンヤが、預言者エレミヤの首から軛の横木を外して打ち砕いた後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。「行って、ハナンヤに言え。『主はこう言われる。あなたは木の横木を打ち砕いたが、その代わりに鉄の横木を作ることになる。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらのすべての国民の首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。そこで彼らは彼に仕える。私は野の獣まで彼に与えた。』」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、彼らはあなたを両手で支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてある。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」
先週の日曜日まで、緑蔭キャンプという二泊三日のバイブルキャンプを行った。テーマを「愛と許し」とした。二日目の夜に中三の女子が、愛のない許しは、たとえば「その方が面倒臭くないから」とか、結局はその方が自分にとってメリットがあるから便宜的に許しているだけのことであって本当の許しとはならない、愛がなければ本当の許しにはならないと思う、と話してくれた。その時、このキャンプをやってよかったと彼女から気づかされた。実はその前に、生徒たちに「愛」と言っても聖書では三つに分かれている、という話をしていた。一つは欲望や自己満足するための愛。ギリシャ語でエロースという。もう一つは友情や家族愛などの愛。これをフィリアという。最後の三つ目がアガペーという愛である。神の愛はすべてアガペーであり、神のアガペーによって人は神を愛する者へと変えられ、その人間の生き方もアガペーとなると聖書は伝えている。キャンプの主題聖句を「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」という有名なⅠコリント13章4節以下にしたが、ここも元々のギリシャ語聖書ではアガペーという単語がふんだんに使われている。
それに対して、神と無関係のままの現実世界、つまりこの世は一つの図式、ないしは様相、ないしは原則を持っている、と言った神学者がいる。その原則とは、人間すべてが失敗ではなく成功を、衰退ではなく繁栄を求める、ということだ。なるほど、と思わされた。これを「上昇志向」と言い換えてもよいかもしれない。レジャーであれ仕事であれ、誰だって人間はつまらないよりは楽しいことを、そして貧しさよりは豊かさを、具体的には所得や知識、地位や権力を追い求め、それらを何らかの努力によって獲得しうるものと考えている。そうして、初めは無意識だったかもしれないが、ある時からは誰だって意図的に人から褒められることを求め、功績・手柄といった見返りを求めて生きている。
誰だって失敗するのは嫌だろうし、誰だって幸せになりたいだろうし、敢えてつまらない人生を送ろうとする人間はいない。親であれば、自分の子供を何としてもまっとうな人間へと育てなければならないと願い、それが行き過ぎると子供と衝突するのは日常茶飯事だ。サラリーマンであれば、つい最近世間の話題になっている中古車販売会社がその典型だと思うが、上役から課せられたノルマ、成績を何としても挙げなければならず、その為なら手段を選んでなんかいられないというプレッシャー、危機感があのビッグモーターのように社員たちを不正な保険金請求へと駆り立てていく。学校であれば、生徒たちは誰だって有意義な、悔いもなくストレスも極力少ないキャンパスライフを送りたいだろうし、その中でできるだけ良い成績を取って次のステップに進みたいと誰もが思うだろう。部活動では、周りの仲間たちに迷惑をかけられない、という理由で必死に努力することは大切だし多くの生徒がそう思って励んでいると思うが、その中には自分が頭一つ抜け出して目立ちたいとか、注目されたいと思っている者も必ずいるだろう。教師は教師で、できるだけ良い授業をしたり、熱心に部活動を指導したりして生徒たちから受け入れられたいと誰だって思っている。牧師だって、信徒たちから信頼されたい、と思わない者など一人もいないと思う。
誰だって失敗したくない。これは人間の本能と言っても良いのかもしれない。ただ、そういう考え方自体もある種の上昇志向に含まれるように思う。そして、そのような考え方をするからこそ人間は足元をすくわれることがある、と聖書は警告している。
ところで先ほどは旧約聖書からエレミヤ書の28章を読んでもらった。今から約2500年前の預言者エレミヤの時代、南北に分裂していたイスラエルの北半分はとっくの昔にアッシリアによって滅ぼされ南半分しか残っていなかった。その南半分も当時の王がその頃の大国バビロニアに背いたためにバビロニアの軍隊に占領され、首都エルサレム界隈の高官、祭司、戦士、職人たちが捕虜となってバビロニアに大量に連行されていた。先ほどの28章は丁度その頃に起こったことを伝えている。ここでエレミヤに対してハナンヤという預言者が真っ向から対立していた。どう対立していたかというと、エレミヤは祈りの中で次のような神の言葉を聞いていた。バビロニアの王ネブカドネツァルに仕えようとせず、この王の軛(荷車や馬車を引かせるために牛や馬の首にかける横木)を自分の首に負わない国やその民たちは神がこれを滅ぼされるのだ、と。その時エレミヤは自らの首に大きな軛をかけて町の中を練り歩き、自ら惨めな格好をさらしてでも必死に訴えた。大国バビロニアに小さな国がいつ滅ぼされても不思議ではない危機的な状況において、エレミヤは極めて冷静に現実的な神の言葉を伝えずにはいられなかった。なぜならそのような危機的状況にあって、おめでたくも我々は神から選ばれた特別な国だと触れ回り、エルサレムの神殿で捧げものをして礼拝さえしておけば神がバビロニアを滅ぼしてくれる、とうそぶく預言者たちがふんぞり返っていたからだ。その代表が先ほどの聖書に出て来たハナンヤである。彼はエレミヤが首にかけていた軛を打ち砕き、すべての民の前で言い放った。「主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、すべての国民の首からバビロンの王ネブカドネツァルの軛を外して打ち砕く。」聞いていた者たちすべてが歓声を挙げた。神がアブラハムの子孫である我々を見捨てるわけがない。神の怒りの裁きが下るのはバビロニアとネブカドネツァルの方だと。民衆は熱狂的にハナンヤにエールを送り、エレミヤにはブーイングやら罵声を浴びせた。エレミヤは首うなだれて立ち去るしかなかった。しかし思い起こしていただきたいのは、そこにアガペーがあるかないか、ということだ。ハナンヤは自分の栄光やら勝利やら民衆からの拍手喝さいを浴びるために「神」を持ち出していた。成功するため、自分の利益のために「神」を利用していた。それはハナンヤのエロース、つまり欲望のなせる業であった。それに対してエレミヤは批判されると分かっていても、傲慢になっていたイスラエルの民衆に対する神の怒りの裁きを語った。首うなだれてエレミヤは激しく落ち込むのだが、彼にそのように厳しい言葉を語らせていたのはまさしく、神のアガペーであったのではなかったか。
「主を試してはならない」。これは今日の説教題であり、先ほど読まれたもう一か所の聖書、新約のマタイ4章の有名な荒れ野の誘惑の場面にある言葉である。この時、悪魔はイエスに対して執拗に誘惑を繰り返し、何としてもイエスを屈服させようと躍起になっていた。あのアダムから始まってイエス以外の人間は全て、悪魔は意のままに操れていた。そこに神の独り子イエスが現れる。イエスを屈服させなければ悪魔はこの世を征服したことにはならない。そのため悪魔は躍起になり、三度も誘惑を仕掛けたのがこの場面である。
今日読まれたところは二度目の誘惑の場面であるが、実はこれは最も困難で手ごわい誘惑だった。悪魔はイエスを神殿の高い所に立たせてこう言った。「神の子ならそこから飛び降りろよ、人はパンだけで生きるのではなく神の言葉で生きるんだろ、それなら、お前が飛び降りても天使が手で支えて救ってくれる、と聖書に書いてあるぞ」。旧約聖書の詩編に本当にその言葉がある。こう言って悪魔は、飛び降りなければ、お前には信仰がないということになり、神を語る資格もなく、ましてや神の子であるわけがないことになるぞ、とプレッシャーをかけて来た。本当にその子のことが好きなら告白しろよ、それが出来ないならお前はその子が本当に好きなわけではないんだ、とプレッシャーをかけられるようなものかもしれない。この車のキズをゴルフボールで大きくしなければノルマが達成できないぞ、と言われるのに近いのかもしれない。大切な試験の前に、問題集のここをやっておかないと損するぞ、と囁かれるのに似ているかもしれない。ここで引き下がったら面目が立たない。それをしたら紛れもなく周りからは評価されるし、ヒーローにだってなれる。逆にしなかったらあなたは周りから信頼されなくなるよ。そう言われれば、自分を満足させたい人間は間違いなく、誰もがチャレンジする。しかしそれは誰のために、何のためにやることなのか?本当に好きになった女性のためにすることなのか。本当に学びたいため、ではなくて単に点数をとりたいだけではないのか。本当に神のためにすることなのか。アガペーがそうさせようとしていただろうか。そもそも飛び降りることを、神はイエスに求めていない。そうさせようとしていたのは悪魔ではなかったか。悪魔は人間のエロースを掻き立てる。アガペーではなく自分の欲望を満たしたいエロースの働きがそう仕向けていたのではなかったか。エロースは人間に神を利用させる。神を、自分が満足するための単なる道具にしてしまう。祈りを、自分の気が休まるための手段にしてしまう。上昇志向に生きることしか知らない人間が最も陥り易い落とし穴がここにある。悪魔はそこにつけ込んでくる。はっきり言う。この私も、皆さんも、世界中のどこを見ても、この誘惑に勝てる人間は残念だが一人もいないだろう。
しかしながら、だからこそイエスを見て欲しい。イエスは言っていた。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」あざとく聖書を持ち出して来た悪魔に対してイエスは正々堂々と申命記6章にある神の言葉で切り返したのである。これは、神が人となったイエスにしかなし得ないことだった。
人間が自分で手に入れようと目論み、それで得られた最高の楽しみと満足の中にこそ、実は最も大きな罪がある。そのことをイエスだけは見抜いていた。主を試してはならない。神はあなたを、人間一人一人を満足させるために存在するのではない。神は決して、人間を満足させる道具ではない。そうではなくて、神に喜ばれるように造り変えられなければならないのはあなたがた人間なのだ、と。そのことをイエスだけは分かっていた。我々は誰もこの誘惑に勝てないが、そのような我々すべてを立ち止まらせ、生き方を変えさせて神と仲直りさせるため、我々すべてが救われるために必要なただ一つのこと、つまりこの誘惑を跳ね除けることをイエスはここで成し遂げていたのである。
今日の聖書から我々は、上昇志向に駆られていた自分を認めなければならない。そして聖書の言葉によって立ち止まらされたい。何よりもまず、命を既に与えて下さり、この命を必ずやいつか花開かせてくれる神に、イエスに気づかなければならないのではないだろうか。成功を求めるよりも、この神を、イエスを信頼して一日一日を生かされていることに気づくべきなのではないだろうか。
因みに民衆からブーイングの嵐を受けて落ち込んでいたエレミヤに神は語りかけて立ち上がらせる。ハナンヤは木の横木を打ち砕いた代わりに、鉄の横木で自分の首を絞めることになるぞ、と。それも神のアガペーのなせる業だった。そしてハナンヤは間もなく死に、やがて国はバビロニアに滅ぼされてしまう。
実は私もキャンプの閉会礼拝で眠り続ける生徒たちを見てエレミヤのように落ち込んだ。しかし眠り呆ける彼らに向かって、メッセージを短くするのではなく延々と話をし続けた。礼拝が終わった後、ある生徒に私は尋ねた。「俺にはアガペーがないよな」。すると彼女は言った。「いや、あります。寝ている私が悪いんです」。そう答えてくれた生徒には間違いなくアガペーが働いていたし、そのアガペーによって私も励まされた。上手く行っても行かなくても、神は見ていてくれるし、必ずや良い方向に導いてくれる。その神を試すのではなく、利用するのでもなく、ひたすら信頼して今日から歩んで参りたいと願う。