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死にて葬られ

イザヤ53810、ロマ568「死にて葬られ」(使徒信条)

2023723日(左近深恵子)

 

 礼拝の度に口にしている使徒信条の言葉を、このところ順に聞いています。今日は、キリストが、「死にて葬られ、よみにくだ」られたと述べる部分と、その下敷きとなっている聖書の言葉に聞いてまいります。

 

私たちには、自分自身や自分の大切な人々に願っているような生涯の終わり方があると思います。主イエスの生涯の終わりは、それとは対極にあるような、決してそのようにこの人生を終えたくないと思うような死でありました。正確に言うなら、私たちがそうありたくないと思っているその極みの更に向こうにある、私たちが想定することも難しいような苦難の末の死を、死んでくださいました。

 

主イエスは十字架の上で生涯を終えられました。十字架刑とは、十字に組んだ木に罪人を打ち付けて吊るし、敢えて長い時間苦しませた末に死に至らせる、非常に残酷な処刑法でありました。ローマ帝国によって持ち込まれた処刑法です。主イエスもそのお一人であるユダヤの民にとって十字架で死刑を執行されることは、支配国であり異教徒である者たちの手によって処刑される、屈辱の死でありました。

 

主イエスは、既に苦しみに満ちた夜を過ごしてこられました。十字架に先立つ夜、祈りの場で弟子の一人の裏切りによって逮捕され、度々拷問を受けながら一晩中ユダヤの指導者たちとピラトの間を引き回され、最後にピラトによって死刑へと引き渡されました。主はご自分が処刑される場である、「されこうべの場所」を意味するゴルゴタという名の丘へと向かって、ご自分の処刑台となる十字架を背負わされて歩かされた末に、十字架に架けられました。その頭上には「これはユダヤ人の王イエスである」と記された罪状書きも掲げられました。“自分を王だと自称した者の顛末を見てみよ、自分の民であるはずの者たちの手によって支配国の力に引き渡され、死刑に処せられているではないか”と言わんばかりの、屈辱的な罪状書きでした。処刑を見に来たユダヤの人々も、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と侮辱の言葉を浴びせました。

 

ユダヤの指導者たちは、このような苦しみと死によってこのイエスと言う者を裁くことが正しいことなのだと考えたのでした。指導者たちだけでなく、煽動された民もそう考えました。また、この者は死刑によって裁かれるべきだという世のうねりに疑問を持ちながらも結局抗えない民も、そして支配者の側にあり、この地域の王として人々の上に君臨しながら、被支配国ユダヤの群衆の反応によっては自分の地位は安泰でないことを恐れるピラトも、これらすべての人々によって、主イエスは十字架に架けられました。主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活された後も、多くの人はその死を神に呪われた死としか捉えず、復活はキリスト者たちの戯言とみなしていました。その当時はサウロと呼ばれていたパウロもその一人でした。イエスと言う者は神を冒涜したから当然の裁きを受けたのだと考え、この主イエスを救い主、キリストと信じる教会を迫害しました。後に復活の主に導かれ、教会を代表する伝道者となったパウロがコリントの信徒への手紙で記していますように、主イエスを十字架に架けた人々や、架けることに同調した人々、世の流れに抗えなかった人々にとって、主イエスの十字架は躓きでありました。神が預言者を通して約束してこられたメシア、救い主は、自分だと人々に思わせた、神を冒涜し、人々を惑わせた、だから神の民ユダヤ人として最も屈辱的な、神に呪われた死を死んでいったのだと、かつてのパウロのように考える人が多かったのです。

 

 主イエスの死は確かに、肉体的、精神的に耐え難い苦しみであるだけでなく、ユダヤ人として屈辱に曝されながら死んでいく、神さまに呪われた死でありました。しかしこの死は神さまのご計画によるものでありました。主イエスがご自分を追い詰める力を払いのけることができずに死に追いやられてしまったのではなく、偶然に様々な状況が絡み合って十字架で処刑されてしまったのではなく、パウロがローマの信徒への手紙で述べているように、神さまが定められた時に、神さまの目的のために、主イエスは自らその道を進んで行かれました。罪に囚われており、自力で罪の支配を打ち破ることもできずにいる、その私たちを救い出すことを神さまが願ってくださいました。神さまは、大変なことになっているから、救い出すために誰か他の者を罪の支配の只中に降らせよう、とされたのではありません。神さまご自身が救い出すために降ってくださいました。神さまにとって失ってもあまり影響のない誰かではなく、危険な目にさらされ、苦しめられ、命を失う道に独り子を遣わされました。み子である主イエスの内に、神さまは完全な仕方で臨在しておられます。世は主イエスに、神さまの全き姿を見出すことができるのです。

 

 み子が、私たちと同じ血と肉を備える人間となってくださって、私たちが味わう肉体の苦痛も恐怖心も死に至るまでその身に受けてくださいました。全き神であり、罪無き方が、神さまに背を向け、神さまの祝福の外に自分自身を置いたままの者たちが本来受けるべきである裁きの死を、私たちの代わりに死んでくださいました。ヨハネによる福音書がその冒頭で主イエスを「父の懐にいる独り子である神」と言い表しているように、神さまと誰よりも深い結びつきの中にあった方が、神さまとの結びつきを断ち切られ、祝福も望みも無い裁きの死を死んでくださいました。真の審判者である神さまから裁かれ、退けられる死を死んでゆく苦しみであったから、主イエスは十字架上で「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。父なる神の懐におられ、その内に父なる神が臨在しておられる方のこの叫びの重さを、私たちは誰も全て知ることはできません。神さまとの結びつきの中に完全に自分自身を置くことができず、罪に囚われている自分の実態を隅々まで見つめる勇気が無く、まして裁きの死と正面から向き合うことなどできない私たちの代わりに、ご生涯の終わりに「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばねばならない、叫ばずにはいられない道を歩むため、他でも無い神ご自身が世に降られたのです。

 

 主イエスの死は、人の側が全く想定していない仕方で与えられた神さまからの救いです。神さまの救いはいつも、神さまが人々の悲惨な状態を腸が痛むほどの痛みで神さまが案じられ、神さまの方から動いて助けを与えてくださる、そのように私たちにもたらされることが、聖書で述べられてきました。神さまがどのような方であるのか分からないでいるので、人は自分の全てで神さまのみ前に立つことができません。自分の罪がよく分からないので、そこからの救いも分からない、救いが必要であることもよく分かっていない。このような者が、自分の側から、求めるべき方に、求めるべき救いを求めることなどできない、そのことを見えていない私たちよりも、全てを見つめておられる神さまがご存知であり、人々を救うことを望み、助けを与えてこられました。旧約聖書は、全ての民が神さまの祝福に満たされて生きるようになることを願われ、祝福の源としての神の民を起こすために、アブラハムを選び立ててくださったことを伝えます。エジプトで苦しみに喘ぐ民の中にモーセを立てて奴隷の地から導き出してくださったのも、神さまの元から離れ出てしまう王や人々を導き、ご自分のもとへと立ち返らせるために、預言者たちを通してご意志を示してくださったのも、人々を救うためでありました。それぞれの出来事は、具体的なある時代に、具体的な地域の中に救いをもたらす礎を起こしてくださった神さまのみ業であり、神さまは同時にいつも、その地域に留まらない永久の救いを人々のために願ってこられました。その永久に揺らぐことの無い救いをもたらすメシアを、いつか人々に遣わしてくださると、預言者たちを通して希望を与えてこられました。イザヤ書53章に記されている詩にも、神さまが私たちに与えようとしておられる救いがどのようなものなのか、示されています。5213節から始まっているこの詩は、「僕」と呼ばれる、神さまに仕えるもののことを歌います。僕は高められ、崇められることが最初に告げられますが、それは多くの人を慄かす、それまで聞いたことの無い驚くような仕方で屈辱を受けることを通して成されます。麗しさも、輝かしさも、望ましさも無い姿で、軽蔑され、人々に見捨てられ、苦痛に苛まれます。その苦しみは神の裁きだと、神に打たれたから苦しんでいるのだと人々に思われながら僕は沈黙の内に苦しみを全て引き受け、屠られるために進み続けた、それは私たちの過ちのためであり、私たちが本来受けるべきであった病、痛み、懲らしめであった。神さまは人々を救うために、罪も不法も偽りも背きも無い僕に人々の裁きを下され、僕の命を償いのいけにえとされ、とこしえの救いを与えられる。これが主が望んでおられることであり、主は自らの手でことを推し進められるのだと、預言者は伝えました

 

この僕の歌が示す神さまの救いは、主イエスによって実現されました。この僕の歌は、み子の十字架の死に込められた神さまのみ心を受け止める時、十字架の出来事と響き合い、十字架の源にある神さまのご意志を受け止めることへと、私たちを導いてくれます。神さまのみ心に従い通された主イエスの苦しみを、受け止めることへと備えさせてくれます。私たちが神さまの道を歩む途上で味わってきた苦しみ、この先味わうかもしれない苦しみに、主イエスに知られていない悲しみ、主に担われていない苦しみは無いのだと、私たちが退けきれずにいる罪の内、主イエスによってその代価を払われていないものは、主がその結果を代わりに負ってくださっていないものは無いのだと受け止める時の助けとなります。遥か昔からこの救いを願ってこられ、独り子の死によってこの救いを実現してくださった神さまに、罪に引きずられている部分を抱えているこの私を、歩みはいつも不完全で、恐れと不安と憂いと諦めに揺さぶられることばかりのこの私を、委ねることへと背中を押されます。主イエスの死によって、永久の赦しと祝福が、私たちにももたらされたのです。

 

 このことを使徒信条は、我らの主イエス・キリストは、「十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり」との言葉によって言い表しました。主は、「十字架につけられ、死なれ」たと言って終わりにせず、「葬られ、よみにくだり」と丁寧に死を言い表したのは、主イエスは本当に死なれたのだと認めるためでありました。私たちの心は自分の願うように十字架を受け止めたがります。“神のみ子が私たちと同様の死を死ぬはずが無い、私たちと同じように、死んだ途端に肉体は死体となり、さっきまで働いていた臓器が機能を失い始め、やがて生命の名残が少しずつ失われていく、そのような死のプロセスを、キリストが私たちと同じように経てゆくはずが無い”、そう思いたい、自分の期待へと事実を引き寄せたい私たちのこころは、使徒信条の言葉によって、主イエスは真に死なれたのだと確認することへと導かれます。

 

私たちの心が自分好みの情景に十字架を描きたがっても、十字架は私たちの作品ではなく、神さまのみ業です。罪が産み出す悪を決して許さない神さまのご意志によって、私たちの間に出来事とされました。真に死なれたから葬られました。仮死状態から蘇生したのではなく、死者のところにまで降られて、死を死に通されました。その死の完全さは、何としても罪人たちの罪を赦し、罪と、罪の結果としての死から救い出そうとされる神さまのご意志の揺るぎなさの証しと言えます。中途半端な裁きでは罪を完全に裁くことはできない、中途半端な仮の死では、罪の値とならない、私たちを罪の支配から救い出せないからです。柱と横木から成る十字架を、神の民として特別な祝福を注がれていながら自分たちの救い主を退けることに最も明らかになった人々の罪と、保身のためならば良心に反して、他者の尊厳も命も奪うことへと押し流されてしまう人々の罪が絡み合う世の只中に、神さまは打ち立ててくださいました。その十字架は、神さまの裁きと、神さまの熱情が交差するところであると、表現されてきました。私たちが小さく、小さく見ようとしている私たちの罪の実態を罪のまま見据え、罪の値を公正に裁かれる神さまの義と、私たちがその必要性を軽く、軽く見ようとしている救いを、私たちのために胸を痛めて願ってくださった神さまの熱情、裁きと憐れみは私たちの常識では互いに別の方向を目指すものかもしれませんが、神さまの裁きと神さまの憐れみは、十字架という一点において重なり、み子の命による私たちの罪を赦される、神さまの義が、成し遂げられたのです。

 

 

 十字架に最も明らかになった神さまのこの救いを、パウロはローマの信徒への手紙5章までの流れの中で「愛」と呼び、今日の箇所の直前で、神さまの霊によって、神さまの愛が私たちの心に注がれていると述べました。神さまが愛を注ぎこんでくださる私たちの「心」とは、私たちの願いや思いや判断など、私たちの全てが起こる、私たちと言う存在と行為の中心を成すところです。私たちの存在の中心に、神さまが愛を注いでおられます。私たちのこころが生み出す願い、思い、判断、行為が絡み合い、同調し、うねりとなって神さまに背く状況を造り出している現実において、私たちの中心に神さまが注いでおられるのは愛です。悪に呑み込まれた者たちが行き着くゴルゴタの丘、処刑者たちが、その死体が放置されるされこうべの丘を覆っていたのは、罪の力、死の現実でした。この丘に打ち立てられた、注がれた神さまの愛が、歪みや亀裂を抱え、思い煩いや恐怖に主導権を取られそうな私たちの只中に注がれています。神さまの愛は、私たちの思い煩いや恐怖に勝ります。神さまが生き方の道標として与えてくださった律法を重んじて、律法に添う生活を自分で整えることができる正しい人と呼ばれる人々のために、命をささげる人はほとんどいなくても、隣人を理解し、共感し、温かな心で隣人に接することのできる善い人と呼ばれる人々のために命をささげるひとはいるかもしれません。人間にもそのような命を犠牲にすることも厭わない愛があります。けれどそのような立派な生き方をしてきたのではない、神さまを知りながら神さまを崇めない不敬虔な者であり、罪に引きずられることに弱く、罪からの救いも望もうとしない私たちのために、キリストは十字架の死を死んでくださいました。私たちに注がれているのはこの愛なのです。キリストの十字架がこの自分のために打ち立てられたことを知り、自分の現実の只中に注がれている愛に心を開くならば、尽きることの無い神さまの愛を内に染み渡らせ、私たちの日々の歩みの中で神さまの愛にお応えすることのできる幸いを味わうことができるのです。