「全能の父なる神に」イザヤ45:5~7、マタイ7:7~11(使徒信条)
2023年6月18日(左近深恵子)
本日から礼拝で、使徒信条の言葉に順に耳を傾けてまいります。先週まで順に取り上げていました主の祈りと同様に、代々の教会が大切にしてきた文章の一つです。大切なものなので、美竹教会は他の多くの教会と同じように、毎週礼拝で使徒信条を唱えています。私たちは、使徒信条を繰り返しながら毎週を歩んでいることになります。詩編に、「あなたの言葉は私の足の灯」(詩編119:105)という言葉があります。神さまの言葉に足元を照らされながら、日々、一歩一歩進んでゆきます。その時々、与えられるみ言葉が今日の歩みを照らし、これまで内側に蓄えられてきたみ言葉の蓄積の中から今の自分に語り掛けるように言葉が再び立ち上がってくる、そのように聖書の言葉と生きています。私たちの日々は、同じことの繰り返しのように回ってゆく穏やかな時もあれば、よろめいたり、躓いたり、倒れ込んでしまうような、危機的な時もあります。思い悩みに心が乱れ、心を鎮めてみ言葉を受け留めることもできなくなるような時もあるかもしれません。思い悩みで心が疲弊し、語られるみ言葉に耳を傾ける力も、これまで少しずつ内に蓄えてきた数々のみ言葉を思い起こす力も、弱ってしまうような時もあるかもしれません。どのような時も、自分が今神さまとの関わりの中でどこにいるのか、自分はどこへと向かいたいと願っているのか、礼拝の度に口にする使徒信条によって見つめ、確かめることができます。穏やかな時にも、先が見えずへたり込んでいるような時も、ここまで導いてこられた神さまの導きを振り返り、神さまに助けを祈り求めることへと、使徒信条を通して促されます。
使徒信条がどのようにして成立したのかは明らかになっていません。教会の歴史のかなり早い時期、2世紀の頃から、洗礼のための信仰告白の文書が教会で用いられるようになっていましたが、それが使徒信条の原型だと言われています。使徒信条はラテン語で書かれました。直訳すると、「私は、信じます」という言葉から始まっています。「我、信ず」「私は、信じます」、そう宣言が先ずなされ、それに続いて、何を信じるのか一つ一つ言い表していく、というのが使徒信条の語り方です。そうして最初に神さまのことが述べられるのです。
使徒信条の冒頭で「私は」に続いて述べられる「信じる」と言う言葉には、「心を置く」という意味があるそうです。信じるということは、自分の心を信じる相手に置く、委ねることだと言えます。その意味を内に含みながら、「信じる、信用する、信仰する」と訳されて用いられます。この言葉は、「貸す」という意味でも用いられるそうです。人は相手への信頼が全くなければ、自分の何かを貸すことは難しいでしょう。全幅の信頼を置く神さまには、自分の大切なものをお委ねします。信頼する方に自分をお委ねすることができる安らぎを知ります。私たちは誰も完璧ではありません。他者の欠け、不確かさ、偽り、自己中心さが見えると、自分のことは棚に置いて憤慨します。では、一番信頼できるのは自分自身でしょうか。自分の実態を直視することを避けながら、とにかく自分の心を自分自身に置き続けるしかないと思っている私たちに、神さまは私たちを愛しておられることをみ言葉によって語り続けてこられました。このような方である神さまに心を置き、日々、神さまに今日と言う一日をお委ねする、先の見えないこの先も神さまにお委ねする、自分が大切に思っている人々をお委ねする、こうして自分を丸ごとお委ねするのが神さまを信じるということだと、教会はその歴史の始まりから表明してきたのです。
使徒信条は、聖書を通して証しされている神さまのみ心とみ業の、核にあるものを言い表しています。神さまの創造のみ業に始まり、歴史を貫いて推し進められてきたみ業、特に主イエスの出来事によって実現してくださり、キリストが再び来られる終わりの時に完成してくださる神さまの救いの出来事が、この中に凝縮されています。聖書という膨大な言葉を通して証されている神さまの救いの物語の、核を為しているのはこのようなことだと、簡潔に言い表わすのが使徒信条です。私たちが自分の心を置き、自分の丸ごとを委ねる神さまとはどのような方であるのか言い表している表現のうち、今日は「全能の父なる神」に特に焦点を当てます。そして、「全能の父」という圧縮された表現の土台にある様々な聖書箇所の中の一つ、マタイによる福音書の7:7以下に耳を傾けてまいります。
マタイによる福音書の5~7章には、山上の説教と呼ばれるまとまった教えが記されています。主イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教えを語られ、福音を宣べ伝え、人々の病や患いを癒やしてこられました。主イエスを求めて近くからも遠くからも人々がやって来るようになり、大勢の群衆が主イエスのところに集まってきました。そこで主イエスは山に登られて、群衆と、ご自分のそばに居る弟子たちに様々な教えを語られたのです。山上の説教が結びに差し掛かる今日のところで、主イエスは、“求めなさい、そうすれば与えられる”と語られます。
この主イエスの語り掛けを聞いて、私たちはどう思うでしょうか。私たちが求めるものを神さまが与えてくださると、主イエスはそんな約束をして大丈夫なのだろうか、と戸惑う思いを抱くかもしれません。あるいは、こんな約束をしておられるけれど、私が求めたものを、神さまはこれまで与えてくださらなかったではないか、と思うかもしれません。願うような学歴、仕事、もっと違う容姿、もっと健康な肉体、家族、良好な家族の関係、もっと良い住まい、もっと穏やかな老後、家族や友人の健康、誰もが人権を守られる社会、安全な世界、未来の世代に引き継げる豊かな環境、数え上げれば、手に入れられずにいるものはいくらでもあるでしょう。主イエスは約束をしておられるけれど、現実は、私たちが“願ってもどうせ与えられないではないか”と思ってしまうかもしれません。また私たちは、主が私たちに与えようと思っておられるものではないものを、願い続けてしまうかもしれません。時には、神さまは私たちに必要なものを全てご存知であるはずだから、願わなくても与えてくださるだろう、そんな風に思うかもしれません。誰だって、相手に何かを必死に願うことは、せがんでいるみたいで気が進まないところがあるのです。願わずに与えてくれた方が、ずっと楽だと思っています。神さまに対しても、そう思ってしまうかもしれません。願い続ける辛さも、願ってそれが叶えられない辛さも、避けられるものなら避けたいと思っています。求め、探し、叩き、そうやって強く願い続けた結果、それに神さまが応えてくださって、ようやく願うものが与えられるような関係よりも、必要なものをいつでも自分のために神さまが備えていてくださる、そういう穏やかな関係を願ってしまうところがあるかもしれません。
人とはこのように誤解や、自己の都合に引き寄せた受け止め方をいくらでもしかねない者であることを、主イエスはよくご存知であったでしょう。そうでありながら「求めなさい。そうすれば、与えられる」と約束されたのはなぜでしょう。人が求めようとしていないから、求め方がまったく足りないからです。なぜ私たちに求めることを、願われるのでしょうか。神さまが与えると約束しておられるものが、人に無くてはならないものだからです。神さまはその無くてはならないものを与える用意を既にしておられるのに、人が受け留めようとしていないからです。
主イエスはここで、人が求め、神さまが与えてくださるものを、パンと魚にたとえておられます。畑に麦が育ち、ガリラヤ湖で漁が行われるこの地域の食生活が反映されている譬えでしょう。パンと魚は、嗜好品や贅沢品ではなく、日毎の糧です。先週まで順に聴いてきました主の祈りでも、私たち自身のことを祈る後半の祈りとして最初に主イエスが教えてくださったのは、日毎の糧のための祈りでした。「糧」と訳されている言葉の元の意味はパンを指します。主の祈りにおいて主は私たちに、何よりも先ずパン(糧)を求めるようにと、次に罪の赦し、そして試みと悪からの救いを求めるようにと、教えてくださいました。糧、罪の赦し、試みと悪からの救いと順に祈ることを通して、どれも人にとって一日たりとも欠かすことのできないものであり、神さまが人に与えることを願っておられるものであることを教えられました。マタイによる福音書で、その主の祈りのことが6章で述べられ、今日の7章でも主イエスはやはりパンと、そして魚を、日々生きていくために必要な糧として挙げておられます。ルカによる福音書では、主の祈りを教えられた直ぐ後に、この熱心に求めることを主が教えられた出来事が続き、主の祈りとのつながりはより明らかであります。
必要なものを求めることの意味が父と子の関係から語られていることも、主の祈りと重なります。「天にまします我らの父よ」と始まる主の祈りは、ただお一人、真の神の子である主イエスが、私たちをも神さまを、「我らの父よ」「私たちの父よ」と呼ぶことへと招いてくださいます。主イエスによって私たちが神さまと親子の関係に結び付けられている、この恵みを土台に祈られています。今日の箇所でも、私たちに無くてはならないものを私たちが求める方も、私たちの父となってくださった方、私たちを子としてくださった方であることを、主は語ってくださっています。
良い親であり続けることなど誰もできない、不完全さと無力さを常に抱えている人間たちでさえ、親は、子どもがパンや魚を求めているのに、形が似ているだけの石や蛇を与えたりしません。子どもに必要なものを与えたいと日々願っています。尚更天の父は、私たちに良いものを与えないはずがないではないかと、主イエスは私たちが求めることの意味を語られます。子どもはしばしば自分に本当に必要なものが分からず、パンや魚でなく、ジャンクフードばかりを求めたりします。私たちも、自分が生きていくのに無くてはならないものが何であるのか分かっているとは限りません。分からないまま、神さまが与えようとしておられるのに、自分には必要無いと求めようとしない、受け止めようとしない者であります。必要なものを受け留められずにいる、その自分の悲惨さに気づかない私たちのために、主イエスが“求めなさい、探しなさい、戸を叩きなさい”と、強く呼びかけてくださっています。
主イエスがここで求めるようにと呼び掛けておられる「良いもの」とは、この直前の6章で語っておられる、神さまの国と義と言い換えることができるでしょう。主はこう言われていました、「あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存知である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」(6:31~33)。神の国とは、主イエスが既にもたらしてくださっており、終わりの時に完成される神さまのご支配です。神の義とは、主イエスによって私たちに約束されている私たちの罪の赦しです。神の国と義は、神さまだけがもたらすことのできる良きものです。それを弟子たちや群衆に与えるために、主イエスは世に来られ、十字架に至るご生涯を歩んでおられます。私たちが思いつく、私たちが自分の思いから求めることのできる良いものは、人の手によって生み出されたものでありますが、罪の赦しは神さまからしかもたらされません。私たち自身の思いや力では、罪を償いきることができません。自分の罪のために戦い通すことすらできない。自分の罪が何であるのか見つめ通すこともできない。自分の罪によって壊してしまった関係を元通りにすることも、誰かを苦しめ、傷つけてしまった、その苦しみ、傷を癒やすこともできません。全能なる神さまだけが、本当の罪の赦しをもたらしてくださいます。これが、神さまが全能であるということです。全能とは、私たちにとって都合の良い願いを私たちが願うように実現する力があるということではなく、私たちの救いを成し遂げることができるということです。そのために、神のみ子でありながら、主イエスは人となられました。そのために、主イエスは十字架にお架かりになり、私たちの罪の値をご自分の命をもって代わりに払ってくださいました。この神さまの救いの出来事によって、私たちは自分の罪の赦しを求めることができるのです。
私たちに先立って、神さまが私たちの救いを求め、そのために独り子を世に与えてくださいました。自分の罪もその闇の濃さも認識することができないまま道を見失っていた一人一人を探し出してくださいました。ご自分が一人一人名を呼んで呼び掛けてくださる言葉に心を開くように、心の扉をたたき続けてくださいました。預言者イザヤが伝えるように、神さまの他に私たちの主はおられないのに、神さまは光も闇も、平和も災いも、全てを支配する方であるのに、神さまを知ろうとしない私たちのために、神さまはお力を世に注ぎ続けてこられました。自分の罪の深さに気づくそのところで、私たちは神さまの救いの意味を初めて本当に知り始めます。神さまは御子の命をもってしてまで、こんなにも私たちの救いを願ってくださっていたのだと、み子をそのために世に与えてくださったほどに、私たちを愛しておられるのだと知ります。私たちの弱さにおいてこそ、私たちは神さまの救いを知り、救いが約束されている恵みを知ります。自分自身の自分が最も嫌悪するところ、最も望みを持つことができないところ、最も隠しておきたいところ、そこでこそ私たちは、求めなさい、探しなさい、叩きなさいと呼び掛けてくださるキリストの言葉に慰めを与えられます。そのような自分自身を神さまに託すことのできる幸いを深く知ることができます。キリストが与えてくださった神さまとの結びつきに心を置いて、私は信じます、全能の父なる神をと、礼拝の度に共に神さまへの信仰を告白いたしましょう。