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賛美で結ぶ

「賛美で結ぶ」ユダ2425(主の祈り)

2023611日(左近深恵子)

 

 礼拝で主の祈りの言葉に順に耳を傾けてきましたが、今日がその最後となります。「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」という言葉に焦点を当てて、聖書の言葉に聴いてまいります。

 主の祈りは、このように日々祈りなさいと主イエスが与えてくださった祈りです。主から与えられたので、「主の祈り」と呼ばれてきました。聖書のマタイによる福音書とルカによる福音書に、主が与えてくださった時のことと祈りそのものが記されており、細かな相違はあるものの、大体において同じ祈りが伝えられています。今日の最後の部分は、どちらの福音書にも記されていないので、後の時代に加えられたと考えられています。それも歴史のかなり早い段階で加えられたものと考えられています。主イエスからこの祈りを教えていただいた弟子たちが既にこのような言葉を加えるようになったのかもしれません。いつの時からか加えられたこの言葉を、教会は主の祈りと共に受け継いできました。

 

 主の祈りの結びに加えられたような、神さまの栄光を讃える比較的短い整えられた文章を「頌栄」と呼びます。礼拝の中で用いられるにふさわしい式文的な文章です。頌栄の言葉は唱えられることもあれば歌われることもあります。頌栄として私たちに最も馴染みがあるのは、礼拝の終わりの方で歌っている賛美歌かもしれません。美竹教会のように礼拝の終わりに頌栄を歌う教会もあれば、礼拝の始まりと終わりで歌う教会もあります。礼拝へと招いてくださった神さま、礼拝を通して豊かな恵みを与えてくださった神さまを、頌栄の讃美歌で賛美します。頌栄讃美歌の内容は概ね「父と子と聖霊に栄光あれ、初めのごとく、今もまた永遠に」といったものでありますが、これらは聖書に記されている頌栄の言葉を土台にしています。主の祈りの結びに加えられた頌栄の言葉も、聖書の言葉を土台にしていると思われます。

 

旧約の時代から、神の民イスラエルは神さまに栄光と力を帰する賛美の歌や祈りを捧げてきました。詩編にはそのような言葉が溢れています。先ほど読み交わしました詩編145編の10節以下もこう歌っています、「主よ、造られたものはすべて、あなたに感謝し、あなたに忠実な人たちはあなたを讃える。彼らはあなたの王権に満ちる栄光を述べ、あなたの力強さについて語ります。人の子らに力強い御業と、王権の輝かしい栄光を知らせるために。あなたの王権はとこしえの王権。あなたの統治は代々に」(1013節)。他に例えば詩編967にはこのような言葉があります。「もろもろの民の氏族よ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。皆の栄光を主に帰せよ」。同様の言葉が詩編に多く見出されます。

 

 新約聖書にも頌栄の言葉があちこちにあります。たとえば、クリスマスの晩にベツレヘム郊外の夜空で、羊飼いたちに天の大群が神さまを賛美していった言葉の前半、「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ214)がそうであります。聖書の頌栄の一つとして、今日はユダの手紙の結びの言葉に耳を傾けてまいります。

 

 ユダの手紙は、イエス・キリストの弟の一人、ユダの名前によって記されており、特定の教会に宛てられた手紙と言うよりも、諸教会で読まれることを前提に書かれた文書と考えられています。その内容の多くは、異端の人々の活動への厳しい警告となっています。諸教会を巡回伝道する教師たちの中に、主イエスが、神さまが旧約の時代から約束してこられた救い主であることを否定する異端の者たちがいたようです。教会が彼らの言葉に引きずられて分裂してしまわないように、使徒たちより伝えられた信仰を堅く守りなさいと、「聖なる信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈りなさい。神の愛の内に自らを保ち、永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」と励まします。そして手紙は2425節で、神さまへの賛美と祈りをもって閉じます。新約聖書の他の手紙に多く見られる、個人に宛てた挨拶や祝福で閉じるのでは無く、頌栄で閉じます。この頌栄は新約聖書中最も美しい箇所だと述べる学者もいるほど、美しい文体と言葉で綴られる頌栄です。この手紙は礼拝で会衆に向かって読まれることを願って書かれたものであり、おそらくそうされてきたと思われますので、礼拝で読まれる結びとしてふさわしいものと言えます。

 

24節で、神さまは、あなたがたを守って躓かない者とする方と言われています。異端の教師たちに引きずられれば神さまに従うことに躓き、神さまから離れてしまいかねません。「つまずかない者とする」と聖書協会共同訳で訳されている箇所は、新共同訳聖書では「罪に陥らないように」と訳されていました。元の言葉は「つまずかない、よろよろしないでしっかりしている」という意味の言葉です。詩編の次のような言葉が思い起こされます、「あなたは死から私の魂を、躓きから私の歩みを救い出してくださいました」(詩5614)。「主があなたの足をよろめかせることがないように。あなたを守る方がまどろむことがないように」(詩1213)。偽りの教えに揺さぶられ、倒され、神さまから離れ、罪の死に至る滅びの穴へと陥ってしまうことがないように、しっかりと立つことができるように守ってくださる神さまを賛美しています。

 

 神さまは更に、「傷の無い者と」すると、新共同訳では「非の打ち所の無い者」とすると言われ、喜びの内に栄光のみ前に立たせてくださる方であるとも言われます。コロサイの信徒への手紙の次のような言葉がこの箇所の理解を深めてくれます、「神は御子の肉の体において、その死を通してあなたがたをご自分と和解させ、聖なる、傷のない、とがめるところの無い者としてみ前に立たせてくださいました。ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(コロサイ12223)。パウロもこのように祈っています、「主が・・・あなたがたの心を強めてくださり、私たちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共に来られるとき、私たちの父なる神の前で、あなたがたを聖なる、非の打ちどころのない者としてくださいますように。アーメン」(Ⅰテサロニケ313)。日々目の前のことでいっぱい、いっぱいになっている人々に、驚くような希望が語られています。ユダの手紙やその他の書簡で告げられているのは、教会に連なる人々が日々の歩みの先に望むことのできる喜びであり、終わりの時に成し遂げられるみ業です。全ての罪が神さまのみ前で明らかにされる審きの日、罪によって倒され、滅びへと陥って当然の私たちが、キリストによって罪赦されて喜びに溢れて、神さまのみ前で栄光の光に包まれて立つ者とされるという希望を、キリスト者は与えられています。この終わりの時の救いから力を与えられつつ、今日を主に祈るのです。

 

自分たちは神について高度な知識を持っていると誇って、使徒たちの言葉には無い偽りの教えを語り、特別な霊的体験を吹聴する異端の教師たちが、実際にどのような教義を主張していたのかまでは、この手紙から知ることができません。ただ4節にこの教師たちが「私たちの神の恵みを放縦な生活に変え」たと、述べられています。この者たちは律法もそれらに基づいた共同体の規律も秩序も全て束縛だと切り捨て、自分たちは神の恵みによってあらゆる束縛から解放されているのだから何をしても良いのだと、これが自由なのだと主張し、道徳に反した生活をしていたようです。4節は続けてこの者たちが「唯一の支配者である私たちの主イエス・キリストを否定している」と述べています。父なる神、子なる神、聖霊なる神が、唯一の支配者であることを否定し、他の支配者たちを神に並ぶ者として認めるのです。それは他の神々を指すのか、それとも世の支配者を指すのか、人々の心を支配する世の様々な力を指すのか、具体的なことは分かりませんが、神さまを賛美しつつも、神でなくても他に自分を救えるものがあると、被造物に過ぎない他のものをも崇めるのです。彼らは一見神さまを賛美しているようでいて、神さまがただお一人の救い主であることを否定します。そのような者たちの強い言葉、解放されているように見える行動に、惹かれてしまう弱さが誰の中にもあります。揺さぶられ、キリストに従う歩みがぐらついてしまう信仰の危機に直面している人々に、頌栄は最後に神さまを「救い主」とお呼びし、救いはただお一人の神さまのみ業であると、ただ神さまからもたらされるのだと告げます。

 

ユダの手紙の頌栄は、神さまが人々に備えてくださっている未来を指し示すと共に、神さまにお応えする道も示します。栄光、威厳、力、権威が、唯一の神に世々限りなくあるようにと共に祈ることへと導きます。神さまは、主イエス・キリストを通して救いをもたらしてくださいました。神さまがどのような方であるのか、イエス・キリストにおいて最も明らかにされています。かつて主イエスに「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と求めた弟子に、主が「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ149)と言われた通りです。人々の罪を負って十字架にお架かりになった主イエスを通して、神さまの栄光、威厳、力、権威が示されてきました。十字架の死には栄光も威厳も力も権威も無いと世は思いました。だから十字架上の主イエスを嘲り、「そこから降りて、自分を救ってみろ」と罵声を浴びせました。この人々の嘲り、罵りに一層露わになった人々の罪のために、十字架上でも父なる神に人の赦しを祈り求め、ご自分の命を神さまのみ業のために捧げてくださいました。神さまはこのキリストによって、私たち罪人をご自分のみ前に、傷の無い者として、喜びの内に立つ者としてくださると約束してくださっています。私たちの罪も、私たちの罪がしみ込んでいる世の常識も超える神さまの栄光、威厳、力、権威が、私たちを救うために注がれています。私たちの希望の土台は、既に神さまから与えられています。ここに、私たちが神さまをほめたたえずにはいられない根拠があるのです。

 

 主イエス自らがこのように祈りなさいと、私たちの日々に無くてはならないものを凝縮した祈りを与えてくださった、その主の祈りを閉じるとき、私たちも神さまをほめたたえずにはいられません。ユダの手紙の頌栄をこの祈りの後に加えて祈ることもできるでしょう。交読した詩編145編の10節以下を加えて祈ることもできるでしょう。それら、聖書が伝える様々な荘厳な頌栄を下敷きに、主の祈りにふさわしく凝縮された「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」という頌栄の言葉を、いつの時からか教会は主の祈りと共に受け継ぐようになりました。

 

 この頌栄は、主の祈りの中で祈られる言葉に応答するように続きます。「み国が来ますように」と祈った主の祈りの結びで私たちは、国は限りなくあなたのものですと、あなたこそ私たちの王ですと讃えます。「日毎の糧をあたえたまえ」、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈った私たちは、力は、限りなくあなたのものですと、あなたこそ私たちに必要なものを与える力のある方ですと、あなたこそ全ての試みにも悪にもまして力ある方ですと讃えます。「み名が崇められますように」と祈った私たちは、栄は、限りなくあなたのものですと、私たちにではなくあなたに栄光を帰しますと讃えます。

 

 頌栄は、救いと希望を約束してくださり、その救いと希望を日々求めることのできる祈りを私たちに与えてくださった主に捧げる、私たちの賛美の応答です。その後に続くアーメンによって、「これは真実です。この通りです」と結び、私たちの賛美をしっかりと、主に捧げます。こうして主の祈りを頌栄、アーメンと共に祈る度に、キリストから祈りをいただき、キリストに賛美を捧げる、キリストとの交わり、キリストとの対話が起こるのです。

 

 頌栄なくして主の祈りを閉じることはできない、主に賛美を捧げ、祈る度に主との交わりに与りたいとこの結びを加えたキリスト者たちと、そのようにして頌栄が加えられた主の祈りを、大切に受け継いできた諸教会の信仰を思わされます。2,000年近く前の時代から今に至るまで、肉体の命の時を越えて、一人一人の信仰者が同じ言葉でキリストによって与えられている恵みを受け留め、応答してきたことを思わされます。この先も、一人一人の死を越えて、主の祈りに頌栄をアーメンをもって応答する信仰者の祈りが続くことを確信します。私たちの思いや願いに限定されない、ご自分の祈りをご自分と共に祈ることへと導いてくださったキリスト、祈られている一つ一つを実現するために、十字架に至るご生涯を歩み通されたキリスト、そのために独り子を世に与えてくださった父なる神をほめたたえるために、壮大だけれど簡潔な賛美を主の祈りの結びとし、その頌栄と共に主の祈りを祈り継いできた信仰の歴史に、私たちも連なっているのです。

 

 人が誰かと本当に共有できるものは、決して多くありません。心の底から共有できることのほとんどは、妬みや嫉(そね)み、報復、他者を支配したいという感情であったり、自分の罪は脇に置いたままで他者に向ける厳しい非難ではないでしょうか。神さまにそのような思いを注ぎ出し、神さまに問うことをしないままでいれば、人は神さまに背を向けたまま罪においてこそ他者と通じ合い、結託してゆき、罪の結晶のようなものを生み出してしまうことは、バベルの塔の物語に明らかであります。

 

 

そのような罪との親和性を常に抱えている私たちが、神さまをほめたたえることにおいて他の人々と一つになることができます。主の祈りを祈るあらゆる人々、あらゆる教会と、同じ頌栄で祈りを結び、心からアーメンと祈ることができる、このような幸いを当たり前の日常の中、日々味わうことができます。主の祈りを通して日々キリストの恵みに心を揺さぶられ、頌栄の言葉によって讃美へと導かれ、どこかでこの祈りを祈っている数多の祈り手たちと共にアーメンと祈りを結ぶ。そこから私たちそれぞれの新しい一歩が始まります。頌栄と賛美で捧げた応答と、私たちの具体的な言動によって表すことへと押し出されて行きます。今日も新たに罪を赦され、祝福に満たされて、主の祈りと共に主にお応えする日常を営むことができますように、主に祈り求めます。