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私の血による新しい契約

出エジプト12114、ルカ221423「私の血による新しい契約」

2023326日(左近深恵子)

 

 主イエスは十字架に渡される前の日の夜、弟子たちと最後の食事をされました。最後の晩餐や主の晩餐と呼ばれるこの食事のことは、4つの福音書それぞれが伝えており、福音書よりも前に記されたコリントの信徒への手紙Ⅰにも記されています(11章)。またマタイ、マルコ、ルカ福音書は、この晩餐が過越しの食事であったことも述べています。祝祭の食事で飲まれるぶどう酒が食卓にあること、賛美の歌が歌われることも、これが過越しの食事であることを示しています。過越祭は、神の民にとって大切な祝祭でありました。主イエスも幼い時から家族と共に毎年エルサレムに上り、過越しの祭りを都エルサレムでお祝いしていたことが、ルカによる福音書に記されています。

 

この年主イエスは例年にも増して、過越祭とその食事に深い思いをもって備えてこられました。主イエスの思いは、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越しの食事をしたいと、私は切に願っていた」(2215)との言葉に表れています。「切に願っていた」と訳されている元の文には、「熱望する」という意味の同じ言葉が、名詞と動詞で繰り返され、主イエスの強い願いが示されています。直訳すると「強い願いをもって熱望していた」となるような主の言葉です。

 

ルカによる福音書の第22章を始めから辿っていくと、この主の思いがより浮かび上がってきます。1節で「過越祭と言われている除酵祭が近づいた」と、主が熱望してこられた過越祭の時が近づいたことが述べられます。除酵祭とは、過越祭に続いて7日間に渡って行われる祭で、ここでは過越祭と除酵祭が同一視されています。この時、主イエスを殺そうとしていた民の指導者たちは、祭りに集まってくる人々を恐れて計画を実行できずにいましたが、主を裏切ろうとするユダが行動を起こしたことで、互いの間に取引がなされたことが述べられます。先に進んで7節では、「除酵祭の日が来た」と言われます。いよいよ過越の小羊を屠る日が到来したのです。この日主イエスは、ペトロとヨハネに、過越の食事のための部屋と食事の準備について指示を与え、遣わします。他の福音書では「弟子たち」とだけ述べられていた者たちを、ルカは「ペトロとヨハネ」と名前も記します。この二人はヤコブと共にこれまで、主イエスの変貌やラザロ復活の場面に立ち会って来た者たちであり(851928)、この先ペンテコステの出来事において、聖霊のお働きによって教会が誕生すると、教会の初期の宣教活動において指導的立場で活躍する二人であります。

 

22章を更に進んで今日の14節では、「時刻になったので」と述べられます。ここまでの時間についての記述を振り返ると、過越の食事の日が「近づいた」、「来た」、「時刻になった」と、順に時の流れが示されています。こうしてとうとう食事の時刻となりました。主イエスは先立って食卓に着かれます。その後に使徒たちが従います。この場面から主イエスに従う弟子たちが、「使徒」と呼ばれています。これまでも弟子たちが「使徒」と呼ばれたことがありました。主イエスが12弟子を使徒と名付け、二人ずつ福音の宣教のために遣わされたのでした。この主イエスご自身から「使徒」と名付けられた12人の内、一人は既に主イエスを裏切り始めています。残りの者たちも、この先起こる主イエスの逮捕や十字架において主を見捨ててしまいます。しかし復活された主は彼らに現れてくださり、福音を宣べ伝える務めを改めて託され、聖霊が降り、彼らは使徒として教会を代表して福音を宣べ伝える者となってゆきます。食事の準備にペトロとヨハネが遣わされたことが述べられ、食事において彼らが「使徒」と呼ばれることで、この食事を熱望しながら主イエスが見つめておられたのは、食事そのものだけでなく、将来、主の復活と聖霊の降臨によって立てられる教会であることに気づかされるのです。

 

主イエスは部屋を選ばれ、食事の準備を指示されました。順を追って一つ一つ過越の食事のために備えをなしてこられました。この食事は、主イエスの静かな熱い願いによって実現されたことが分かります。時間が来ると使徒たちを率いて食卓に着かれた主イエスこそ、この食卓の主であります。この食事を誰のために熱望してこられたのか、それは「あなたがたと共にこの食事をしたいと、私は切に願っていた」(15節)と述べておられることから、使徒たちのためであることが分かります。主イエスはこの食事において、聖餐を制定されています。パンを裂き、盃を取って告げられたそれぞれの言葉においても、「これは、あなたがたのために与えられる私の体である」(19節)、「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」と、これは共に食卓を囲んでいる、目の前にいる使徒たちのためであることがはっきりと述べられます。ご自分の体を与えようとしておられるのは、ご自分の血を流そうとしておられるのは、「あなたがた」と呼ばれる使徒たちであり、使徒たちが代表する教会のためであるのです。主が切に願っておられたのは、使徒たちと共に食事をすることだけでなく、ご自身を与えることでありました。使徒たちから始まる教会に、ご自身を与えることでありました。

 

主イエスが使徒たちにご自身を与えるため切望してこられた場は、過越祭の食事でありました。過越祭は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から神さまによって救い出されたことを思い起こし、神さまに感謝を捧げる祭です。当時のファラオはイスラエルの民を隷属させ、イスラエルの民が唯一の主なる神を礼拝する自由も、その他人として神さまから本来与えられている様々な自由も、奪っていました。神さまはこのファラオと、ファラオに追随してきたファラオの民の家の初子を撃つことを告げられました。しかし、神さまの言葉に従い、小羊を屠り、その血を戸口に塗ったイスラエルの家は撃つことなく過ぎ越されました。塗られた小羊の血が、神さまに信頼し、神さまに従うイスラエルの民の家であることのしるしとなり、エジプトの家の初子たちが撃ち殺される中で、イスラエルの家の者たちは命を救われた、これが過越の出来事です。イスラエルの民はこの夜、発酵させている時間が無いので酵母を入れないパンを急いで焼き、旅支度をして、エジプトの地を出発することができました。厳しい荒れ野の旅路の間も神さまに導かれ、養われ、守られながら進むことができました。シナイの山ではモーセを通して契約を与えられ、神の民として歩む道を示されました。過越祭は、これら出エジプトにおいてイスラエルの民が神さまからいただいた恵みを思い起こすお祝いでした。主なる神の民としての自覚を深めるために小羊を屠り、その血を家の戸口に塗り、小羊の肉や種入れぬパンなどから成る特別なメニューを家族や親族で共に食べ、神さまの救いのみ業を次の世代へと語り伝えるのでした。

 

主イエスがこの過越の食卓を共に囲むことを切に願われたのは、使徒たちでした。かつて主は、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ821)と言われました。出エジプトの出来事とシナイ契約によって神の民へと形作られた人々のほとんどは、血縁によってつながるイスラエルの民でありました。主イエスはご自身が過越の小羊となられ、ご自身の血を流すことで新しい契約を結ぶと使徒たちに告げられます。過越の救いが示してきた救いを、ご自身において成し遂げてくださいます。この新しい契約によって神の民とされるのは、血縁があろうとなかろうと、ただお一人の真の神さまを知る人々です。過越の小羊なるみ子の死によって、神さまはこの自分も新たな契約の内に入れてくださるのだと知る人々、キリストの招きにお応えして主の食卓を囲み、共に主の言葉に聞き、共にそのみ言葉に生きようとするあらゆる人を、主は新しい神の民としてくださいます。

 

私たちには、努力を重ねれば道が開かれる、そう思って、自分のエネルギーが枯渇しているのにも気づかず努力し続け、自分の力が尽きたらどうなるのだろうかと、ふと不安に襲われるような時があるのではないでしょうか。あるいは、無理をせず適度に力を入れたり抜いたりしながら上手く渡って来た、何かに潰されるようなことも無く、自分を守って来た、そう思いながら、どこに自分が向かっているのか、どこへと向かうべきなのか見えず、急に心細く感じる時もあるかもしれません。私たちは誰も独りでは生きていけません。本当の交わりが誰かとの間になければ、真に寄る辺ない者であります。神さまは人に、ご自分との交わりの中、歩む道を示してくださっています。み子の死に与かり、洗礼によってキリストに結ばれて生きる道がもたらされています。洗礼を受け、新しい命に生きる者とされた人は、聖餐の度に、自分は独りでは無いと知る幸いに満たされます。主の食卓に招いてくださる神さまの憐れみを知り、キリストに結ばれている恵みを味わいます。私たちの日常が、道が定かではない厳しい荒れ野の中を進むような日々であっても、聖餐の度に、旅路に必要な魂の糧をいただき、共に居てくださるキリストによって、新しい一週間へと踏み出す力を与えられます。日々の中で疲れ、弱り、途方に暮れても、主の食卓を囲む場所に帰ってくることができます。私たちが帰ることを待っていてくださる主の元に帰り、神さまの家で、神さまの傍で、重荷を下ろすことができます。そして再び聖餐に与かることができます。聖餐に与からない日曜日も、教会は常に主の食卓を祝う聖餐卓を囲んで礼拝を守り、聖餐が教会の礼拝の中核をなしていることを確認します。礼拝ではない集会を行う時も、教会は聖餐卓を礼拝堂の中心に持ち続け、私たちのあらゆる活動の核に、私たちのあらゆる交わりの核に、食卓の主がおられることを思います。聖餐卓こそが、ご自身を与えてくださったキリストから恵みをいただく場所だからです。聖餐卓こそが、血筋も、これまで過ごして来た環境もバラバラな私たちが、キリストとの交わりに与かり、キリストの流された血によって共に神の民とされていることを、深く思い起こすところであるからです。この食卓こそ、私たちが神の民として形づくられていくところだからです。

 

主イエスは最後の晩餐のために場所を選び、食事を整えられ、使徒たちと食卓を囲み、その食事の中で聖餐式を制定され、「私の記念としてこのように行いなさい」と命じられました。ご自身が救いの恵みを与える場を丁寧に、具体的に備えられ、更に将来教会がその恵みに与かり、神の民として形づくられてゆく場も備えてくださいました。主イエスがこれらの備えを為さっている時、既にご自身を殺害しようとする者たちの間で取引が行われ、指導者たちは主イエス逮捕に向けて部下を配置していました。この食事の間にユダは裏切りのために食卓を離れていきます。ひとたびご自身が逮捕されれば、目の前の使徒たちはご自分に背を向け、ご自分との関係を否定し、散り散りに去ってゆきます。夜の闇の中で画策する者たちと、目の前にいる者たちの罪が絡み合い、そしてご自身を十字架へと追いやります。けれどキリストは、この罪人たちのために、ご自身の肉を裂き、血を流して、新しい契約を結ぼうとしておられます。キリストはこの12人のために過越の食事を用意し、その食卓に招かれます。そしてペンテコステの後、イスラエルの民だけでなくあらゆる民が、キリストのこの食卓に招かれてきました。あらゆる民の教会堂の中に聖餐卓が据えられ、人々は復活の主から罪の赦しと永遠の命をいただいてきました。聖餐卓は、教会によってその材質も大きさも色も形も様々ですが、それぞれの聖餐卓が表しているのは、人が造り出したものではなく、主が備え、与えてくださった、主の食卓です。神さまに命と存在を与えられながら造り主との結びつきに生きようとせず、そのご意志にお応えする生き方を不自由だと退け、自力で生きていくことこそ自由なのだとしながら、自由を得られないでいる人々、多くのものに捉われ、多くのものに支配され、道が見いだせず、彷徨っている人々、この人間を救うことを熱望してくださった主によって、聖餐が与えられています。キリストのお姿を見ることはできませんが、キリストが命じられた通り、主の記念として行う度に、臨在される復活の主から恵みをいただきます。かつて盃を取り、「これを取り、互いに回して飲みなさい」と言われ、パンを取り、「これを取って食べなさい」と言われたキリストから、今も魂の糧をいただきます。今も聖餐の主はキリストです。人が聖餐の主になることはできません。キリストの命に生かされていることを五感を通して受け止めることができる恵み、キリストの救いの確かさを味わうことができる恵みを、私たちは人生の旅路を通してキリストからいただくことができるのです。

 

 

主イエスは「神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事を取ることは無い」と言われ、また「神の国が来るまで、私はぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」とも言われました。出エジプトの出来事において、神さまは小羊の血をもって民を救い出され、ご自分との間に契約を立ててご自分の民として生きる道を与えてくださいました。神さまはまたみ子の十字架と復活によって私たちを救い出し、新しい契約を立てて、私たちをご自分の民としてくださいました。過越の救いはキリストによって成し遂げられたのです。けれど私たち自身は今もなお、キリストが共におられること、神さまが生きて働いておられることよりも、世の様々な力に確かさを見てしまう者であります。神さまよりも、神でないものに依り頼んでしまう歪みに囚われ続ける者であります。神の国はみ子と共に世に到来しましたが、神の国のご支配は、私たちの間で隅々まで完全に行き渡っているとは到底言えません。私たちの間に神さまのご支配が完全に行き渡る、神さまの過越しのみ業が完成する時まで、キリストはご自身が過越の食事を取ることはないと言われています。それは言い換えれば、神の国のご支配が完成される時が必ず来るということです。歴史を貫いて救いのみ業を推し進めてこられた神さまの救いの道は、この先も完成へと向かって続いていきます。聖餐卓において、救いの道は示され続けます。神さまとの関係や他者との関係を歪ませてしまう罪を抱え、自分さえ良ければと自己中心的な在り方に引きずられてしまう、主の食卓に招かれるのには相応しくない私たちを、主は切なる願いをもって食卓に招き、「あながたのために」と十字架にお架かりくださいました。聖餐に与かる相応しさは、私たちの熱意や私たちの行動の正しさにではなく、この私たちが食卓に着くことを切に願ってくださるみ心と、十字架の死に至るまでご自身を与えてくださったイエス・キリストのご受難にあります。この救いの恵みを心から受け止める者でありたいと思います。